第194話 堕ちる巨星
「そうそう、自己紹介がまだだったわね。私の名前は……あなたたちの言語で発音可能な表現に寄せるなら、そうね、メセキエザってところかしらね」
メセキエザ。そう名乗った真白のそいつはシャンデリアから飛び降りた。重力などないかのように床にぶつかる寸前でぴたりと静止し、それからすとんと足がついた。
「……地球のどの言語にもない単語」
ヒイロが呟く。彼が言うのなら間違いないだろう。やはりメセキエザは地球の住人ではないらしい。
「そりゃそうよ。だって私、この星に来たのはさっきが初めてだもの」
あっけらかんとメセキエザは答える。ふふ、と微笑みながら私たちに背を向けて軽やかに歩き、壇上へ戻っていった。そして倒れているアルコルたちを指で差しながら言った。
「そういえばあなたたちってこの二人のオトモダチなんでしょう? ごめんなさい、殺しちゃった」
ほんの少しだけ申し訳なさそうに。うっかりお皿と落として割ってしまった子供が母親に白状するようにそう言ったのだ。
悪気はないのだと言わんばかりに明るい声。それが余計に神経を逆撫でる。
シリウスは急加速して走り出した。ダークブルーの髪がたなびく。赤い両眼が淡い光を灯す。メセキエザに腕を伸ばす。
彼が触れたものは能力によって強制的に『あるべき姿』を押し付けられる。物理法則すら超越した概念系能力だ、
アルコルを殺したと聞かされて冷静ではいられなかったのだろう。シリウスは様子見もせずに突っ込んだ。メセキエザがきょとんと首をかしげると、次の瞬間には私の真隣、右側数センチメートルのところにやって来た。ゾッとするほどの至近距離で彼女は囁く。
「彼は何をしているの?」
シリウスの掌底が空を切る。壇上でたたらを踏んだシリウス。どれだけ彼の能力が強大でも当たらなければ意味がない。
しかしシリウスの眼は死んでいない。むしろ最初からメセキエザへ攻撃が届かないことなどわかっていたかのように、なめらかに腰を落として姿勢を低くし走った勢いそのままにアルコルと隣で一緒に倒れていた褐色の女性の二人の襟首をつかんだ。
「全員逃げるぞッ!!」
シリウスが今まで聞いたことがないほどの太い声で怒鳴った。いつもの知的で落ち着きのある大人っぽい雰囲気ではなく、もっと荒々しく私たちの本能を揺さぶるような声。
私がカナタを、セレスがティアとヒイロを肩に担いでモスクの扉を蹴破る。五人で並んで走るよりも人間離れした力を得ている私たち能力者組がカナタたちを抱えた方が速い。
一方、私たちとは真反対の壇上の方にいたシリウスも、二人の遺体を引っ張ったまま走り出す。出口に向かってではない。私たちからもメセキエザからも遠ざかるように。モスク内部の突き当りの壁に向かって。
シリウスは全速力で加速した。赤い両眼は光を宿したままだ。そして壁に衝突する瞬間に呟く。
「本来この空間は壁などないのがあるべき姿だ!」
モスクの壁はそこだけが丸くくり抜かれたみたいに孔が開き、シリウスは難なく建物の外へと出た。
メセキエザが追ってくる様子はない。私たち六人はモスクの外の中庭で落ち合うと、互いに顔を見合わせた。全員がじっとりと脂汗をかいている。
シリウスは激情に駆られてメセキエザに吶喊したのではない。二人の遺体を確実に確保するためあのような行動に出たのだろう。
シリウスは二人の遺体を芝生の上に横たえると、両手をそれぞれ二人の額に添える。しかし、それを目にしたティアは青ざめた顔で怒鳴った。
「シリウスさん! それはしないって約束だったじゃないですか! みだりに命の境界線をあやふやにしないって、それが科学者としての矜持だっ、って!」
「……どういうことじゃ。シリウスは何をしようとしておる」
私は隣で立ちすくむカナタに尋ねた。ティアがここまで怒るほどの何か。そしてティアの言葉とシリウスの能力を合わせて考えるに……。
「シリウスくんは能力で二人を蘇生しようとしているんだよ。人間にとって『あるべき姿』『あるべき状態』とは生きているときだと定義すればいい。彼の概念系能力なら、人の生き死にもあってないようなものだ」
「ああ。そういうことだ。私はたとえ倫理に悖る行為だと謗られようとも二人をここで蘇らせる」
「でも、シリウスさん、そんなのって……」
怒り、というより哀しみ。ティアは涙を目尻に浮かべる。陽がほとんど沈みきり、ジュメイラ・モスクをライトアップする灯りだけがティアの白銀の長髪を鈍く照らした。
科学者にとって命というのは何よりも重たい意味をもつ。人間のクローンが条約で禁じられている背景にあるのは、命を自在に操るという神の領域に人間が立ち行ってはいけないからだ。クローン羊のドリーですら、今でも世間では賛否両論がある。
ギリシア神話における医術の神、アスクレピオスはその卓越した医療技術から死者を蘇らせるまでに至った。しかしそれは冥府の神ハデスの領分であり、結局アスクレピオスはゼウスの雷に打たれて死んだ。
シリウスが今しようとしているのはそういうことだ。私などよりも同じ科学者であるティアたちの方がその意味を、重みを、きっと充分に理解している。
「それでも私はやらないといけない。そうすることが地球を、そしてここにいる皆を救うことになる。アルコルからはメセキエザの情報を聞き出したい。それに隣のこの女はおそらく能力者だ。戦力になる」
そうでもしないと、メセキエザには勝てない。私たちはモスク内部でのわずかな邂逅だけでそれを悟った。真正面から戦って勝てる相手ではない。黒いメイオールどもとは格が違う。彼女は自分をメイオールの一種であるかのように表現していたが、まったく別だ。その実力はあまりに隔絶している。
敵対の意思があるようには見えなかった。だが、アルコルを殺したのは間違いなく彼女なのだ。
「後でいくらでも私のことは非難してくれていい。だが今は俺の我儘を通させてくれ」
シリウスにも背負うものがある。アステリズムのリーダーとして地球を守るという責務。或いは私たちを……仲間を喪いたくないという想い。
今回亡くなったのはアルコルだ。私にとって思い入れのある人物ではない。でもシリウスにとっては一緒に研究をしてきた仲間だ。たとえば、もしセレスが死んでしまったとして。私に救う能力があるとして。見捨てることができるか? いいや無理だ。
今でも時々思うことがある。母を救えたら、と。大切な人を喪う絶望は計り知れない。私たち人間はそれを許容できるほど強くできていない。能力者になったって、生まれつき天才だって、それは誰しも同じことだ。
私には、シリウスを批判する資格はない。それにするつもりもない。
シリウスは再び赤い両眼に淡い光を灯らせた。二人の遺体の額に触れる。すると血の気のなかった二人の顔に赤みが差し、呼吸をするように肩が上下に動き始めた。息を吹き返した。だが目を覚ます様子はない。以前私が自室で錯乱したときに怪我を治してもらったのに眠りに就いたのと同じだろう。睡眠は生きている限り当然のあるべき状態なのでシリウスの能力でも干渉し得ない。
安堵の溜息をついたシリウスが言った。
「今は体勢を立て直そう。二人が起きるのを待ってからメセキエザへの対処を考える。敵対の意思が見えない以上は放置して様子見をするというのも手だろうし、対策を立てた上で勝負に出るというのも手だ。いずれにしろメセキエザが星外の襲来者であることは間違いないのだか……」
それは音もなく飛来した。夜が近づく黄昏時に、太陽は沈みかけ光などほとんどないのに、暴力的なまでの白を湛えて発光しながら貫いた。
胸にぽっかりと穴を開けたシリウスは言葉を途切れさせたまま倒れた。仰向けで両腕を広げ、虚ろな瞳で昏い天を望む。
血が出るとかこぼれるとか、そんなちゃちなものではない。純白の光線で貫かれたシリウスの胸部はまるまる失くなっていて、血が地面に広がっていく。心筋が行った最期の拍動が体内から流れる血量を増やす。
唖然とした。誰も何も言えない。誰の心も目の前の状況を理解できていない。その二秒間の間に、シリウスの心肺は動きを止めた。赤い両の瞳は瞳孔が開き切っている。紛れもなく死んだ人間の証拠。
「セレスッ! 皆を連れて逃げるんじゃ! とにかく遠くへ!」
「え……? バカ、兄貴…………? 血、なんで、こんなにいっぱい、血が……」
膝から崩れ落ち、ぽつぽつと壊れたラジオのように言葉をこぼすセレス。私は力いっぱいセレスの頬を叩いた。彼女の綺麗な顔に私の手形がつき真っ赤に腫れあがる。
「妾の言うことを聞かんかッ!」
嫌な奴だと思われてもいい。それよりも今はセレスたちを逃がす方が先だ。セレスは睨むでも怒るでもなく全ての感情を失った目で私を見上げると、震える膝で立ち上がり、そして震える手でカナタとティアを担ぎヒイロをカナタの上に乗せて走り去った。おそらく船に戻るのだろう。陸を走り続けるよりその方が速く、そして遠くへ逃げられる。
去り際、セレスが小さな声で残した『聖ごめん、ありがとう』という言葉が耳の中で反響する。
私をモスクのてっぺんを見つめた。既に刀は抜いてある。玉ねぎ型の中央ドームの頂点に、白いそいつは器用に立って指先をこちらに向けている。白い光線を放ちシリウスを穿ったのはあいつだ。メセキエザだ。
そいつに表情なんてない。さっきは声で笑っているとか不思議がっているとか判断したが、根本的に心がない。心があればこんな真似できようがない。表情のほとんどないそいつに向けて日本刀を構える。
黄昏が過ぎた。陽が落ちた。深い夜の暗闇の始まり。夜の帳に浮かぶ不気味なまでに白い、あいつ。
「よくも私から大切な人を二度も奪ってくれたな。メイオール風情が」
時間停止。と同時に、私はモスクの屋根へと跳んだ。