第192話 見た、観た、視た
「ほんの少しの痕跡で充分なんだ。気温、湿度、風向、色彩、残香……。三次元的な世界を構成する諸々の物理現象のエレメントの集合体がこの現実世界なんだから。所詮、過去も未来も現在も、僕たち天才が手に取るように理解できるこの世界の要素の組み合わせの違いでしかない」
カナタは白衣が汚れるのも気にせずに、建物に眺め、或いは目を閉じて考え事をし、砕けたアスファルトの地面に時々触れる。
彼の言葉を借りるならば、『天才』が生み出すバタフライ・エフェクトとはカオス理論的な世界観に対して現在の現実の物理要素を組み合わせ、また見ぬ組み合わせを作ることだという。すなわち、並行世界もまたその組み合わせの違いに過ぎず、まるで突拍子もない選択が新たな組み合わせを作り出し新たな未来への扉を開く。
同時に、カナタたちはこのバタフライ・エフェクトというまなざしでもって三次元を俯瞰するため、並行世界だろうが現在、過去、未来だろうが対等に単なる現象の組み合わせでしかない。
ならば私たち普通の人間が決して知ることのできない情報も彼らはまるで目の前の現在を見るかの如く識ることができる。ある人物がどこで何をしたという過去、原因があり、そして現在どこにいるという結果があるのか。原因と結果という基本的な因果律の法則を対等に理解する。それを叶えるだけの超人的な頭脳がある。いわば、ニーチェの永劫回帰的な世界の見方である。
陽射しは強く、玉のように汗がしたたり落ちる。ティアやヒイロも同様だ。燃え尽きた人や建物は焦げ臭く、道端の遺体は激臭を放っている。それでも顔をしかめることすらせず三人は脳をフル回転させる。
シリウスがそっと肩に手を置くことで体調不良は回避できているが、もしシリウスがいなかったら倒れていてもおかしくない。
『現在』とは、時間軸という四次元目の線上において、未来という未知の岩盤を掘削するそのドリルの先端だ。『現在』は認識した瞬間に現在ではなくなり過去となる。同時に、さっきの現在において未来だったものが今この瞬間ではもう『現在』になっている。
その意味ではカナタたちは任意の『現在』を行き来できるとも言えるだろう。シリウスは三人の険しい表情を見て彼らを慮りながら自身の卑下するように思索する。
(そもそも私がアステリズムのリーダーというのも恥ずかしい話だ。単にリーダーシップがあっただけのこと。科学者としては多少張り合えているのかもしれないが……。どこまでいっても彼らのような『天才』にはなれない。カナタが言っていた『星詠機関』。なるほど、言い得て妙だ。そしてなおのこと私をリーダーとする組織には相応しくない。星の動きという膨大な化学反応の連続を観測し、メイオールの襲来を聞く。そんな星詠、私にはできない)
人体はしばしばタンパク質の塊における化学反応の連続だ、とドライに説明する学者がいる。ならば、人体の変化を予測したり逆に病歴を見抜いたりすることは容易い。同じ理由でカナタたちは星の一生という化学反応すらも時間的な過去や未来を読み取ることができてしまう。
それには莫大な演算を要するだろう。軌道、光量、温度……。あらゆる数値を入力しシミュレートし、そして答えを出力する。
以前ティアは言った。自分たちのこの特異性は、風を吹かすことで桶屋が儲かることを事前に知るものだと。風が吹いてから因果関係の連続によって論理的に桶屋が儲かるという現象が導かれる。逆に桶屋が儲かるという現象から、風を吹かすというトリガーを導出する。
まったく同じ読み取りを、今、カナタたちはアルコルの足取りに対して行っているのだ。
〇△〇△〇
私たちが街を徘徊して一時間ほど経っただろうか。時折現れるメイオールを私かセレスが制圧し、カナタたちが安心安全の頭脳労働を実現できるように護衛するような形だ。
カナタ、ティア、ヒイロの三人が何をしているのか私にはわからない。それは私が普通の十四歳の少女だからではなく、凡人だから。仮に私が学者さんであったとしても理解はできないだろう。
三人は街の様々なオブジェクトに触れながら、スケッチブック型の大きなメモ帳に計算式を走り書きしていく。『世界』『現象』という、時間系能力者の私にとっても依然としてフワフワとした概念を彼らは論理と数字によって解析しようとしている。
それはきっと、特別なことではない。希少で類まれな才覚ではあるのだろうが、それを用いて仲間のために動くという心は私たち凡人と変わりはないのだから。
ただ果たすべき役割が違うだけ。私は電気を纏いながら突進してきた紫色の眼のメイオールを時間停止した世界でズタズタに引き千切りながら、私は私らしく私の為すべきことを為そうと言い聞かせた。
その折だった。三人が同時に声を上げた。
「見えた」
「観えました」
「……視えた」
私もセレスもシリウスも、その先の言葉を待つ。今はそれしかやれることはない。
カナタたちはやや顔を見合わせると、代表してティアが話し始めた。
「私たちと合流するためにアルコルくんはドバイにやってきました。一緒にいるのは成人の女性。おそらくアルコルくんがアフリカで能力者化させた方でしょう。でも、五時間二三分五一秒前にある轟音を聞いて……。アルコルくんと女性の方は北東の方角に進みました」
「ドバイの北東部というと、モスクがあるあたりか」
「シリウスさんの言う通りです。そして、モスクへ向かい……そこから先はモヤがかかったみたいに見えなくなりました。つまりメイオールですらない別の何かがアルコルさんを襲ったんだと思います。私たちにとっての未知は論理の方程式に代入ができなくて見えなくなりますから。それにトランシーバーへの通信の時刻とも辻褄が合いますし……」
ティアの説明に対してカナタとヒイロも頷く。三人とも同じ映像を脳内で導き出したということだろう。証拠も何もない状況からまるでカメラで撮っていたかのように詳細な事実を描き出す。つくづく私たち能力者とは別ベクトルで特異だ。
今度は私とセレスとシリウスの三人が顔を見合わせる。言葉はいらない。行先は決まった。
「では行くぞ。ジュメイラ・モスクへとな」
ジュメイラモスクはドバイの代表的な観光施設の一つです。本当はアブダビのシェイクザイードモスクを登場させたかったのですが、作中の一九九九年にはまだ完成してませんでした。