第19話 テルマエ・ロマエ
「ただいま」
返事はない。今日は土曜日なので夕華は自宅にいるはずなのだが、リビングの扉を開けても誰もいない。
英雄と別れてからもスピカとの邂逅など色々と濃い時間を過ごしたナツキだったが、はやく夕華に会いたい一心で急いで帰宅した。
それなのに当の夕華はいない。フルスイングが空ぶったような気分でナツキは自室にバッグや本屋の袋を置いた。
日本人が帰宅して手洗いうがいをするのは習慣だ。ナツキだって、いいや、きっと大半の日本人も、その手洗いうがいが医学的にどれほどの滅菌効果があるのかなんてわかっちゃいない。わかりゃしないがついクセで洗面所に行き手を洗う。それが習慣というものだ。
日本人が夜になると風呂に入るのは習慣だ。ローマ帝国以来の風呂大国である日本には伝統的に入浴の文化があり、特に朝や昼より夜が多い。そして衣服を着用したまま風呂に入る者はいない。裸の付き合いという言葉が古くからあるように、風呂に入るときは当然裸になるものなのだ。それが習慣というものだ。
だから、この状況にどちらが悪いということはない。習慣と習慣が一戸の中で交差したに過ぎない。日本人が一つ屋根の下で二人暮らしていれば当然想定され得る事態なのである。
「ふう、良いお湯だったわ」
ガチャリ
「ッ」
「……」
ベージュの髪から雫が滴り身体へと伝う。最も異性を惹きつける成熟と、どこか初々しく誰の手にも触れられたことのない清純が共存するハタチ過ぎの四肢。美しく形を保っている双丘は魅力を抑えることなく最大級に存在感を発揮し、母性の象徴として人類を包み込むような柔らかさを想起させる。
くびれはまるで三日月のようで、余分な脂肪のない上半身に対して張りの溢れる臀部は二つの満月のようだ。臀部、またの名を尻。いつもはレディーススーツのタイトスカートに包まれていて教室を歩く度に黒い布の生地いっぱいにその形を現出させていた。それが今は解き放たれ、何にも束縛されることなくありのままに姿で空気にさらされている。
胸や尻といった女性特有の曲線を雫が滑っていく。湯の熱さを携え上気した肢体からは、夕華の色気を乗せた湯気が立ち上り、浴室と洗面所を充満させる。
手を洗うため洗面所の扉を開けたナツキの目の前にいたのは、ちょうど風呂から上がって浴室から出た裸体の夕華だった。目が合い、そしてわずかな沈黙を経て、ツーと鼻血が垂れる。
「……閉めなさい。早く」
バタン!
こちらに気が付いた夕華の眼が冷ややかなものになった瞬間、彼の本能がドアを閉めろと警鐘を鳴らしたのだった。
〇△〇△〇
「で、何か言うことはあるかしら?」
「……すごく綺麗でした……」
「き、綺麗って……ばか……そうじゃなくて、覗きは犯罪なのよ!? 性犯罪者みたいな真似して、本当に最低ね」
ソファに座る夕華。学校での凛としたレディーススーツではなく、ゆるりとしたグレーのスウェット。風呂上りなので髪も下ろしている。
一方のナツキはというと床に正座させられている。事故とはいえ異性の裸を見た以上は怒られるのも無理からぬことだろう。
「ち、違う! わざとじゃないんだ。それに俺は夕華さんを傷つけるようなことはしたくない。するわけがない。それだけは信じてほしい。謝って済むとは思っていないけど、俺にできる償いはなんでもする。一生かかってもいい。だから、その……本当にごめん」
中学生になってからのナツキはどこか不遜で仰々しい喋り方をしていた。だからこそこうして口調が昔のように戻りながら肩を沈めて辛そうな顔をしているのを見ると夕華はどこか懐かしいと同時に少し言いすぎてしまったという気になった。
夕華とてわかっているのだ。これが不慮の事故であることなど。父親以外の異性に裸を見られたのが初めてで夕華も気が動転していた。ナツキに見られたことについては不快感などなく、むしろ照れや不安が勝っている。はしたない女だとは思われないか、汚い身体だとは思われないか、そして、少しでも魅力的だと思ってくれたか。
そういった感情が短い時間で胸中を渦巻き混ざり合い、自分でもわけがわからなくなってこうやってナツキを責めるような態度を取ってしまった。
十年前。ナツキが幼稚園で喧嘩したと聞かされたことがあった。夕華が中学生のときだ。無暗に暴力を振るっちゃいけないと軽く説教をした夕華の前で幼いナツキは今と同じように肩を沈めていた。それを思い出した夕華は謝るナツキに対して猛烈な愛おしさを覚えた。
「も、もういいわよ。さあ晩ごはんにしましょう。今日はナツキが遊びに行くっていうから久しぶりに私が作ったのよ」
「もう、怒ってないの?」
「ええ。怒ってないわ。ほら、冷めないうちに食べましょう」
「うん、楽しみだ!」
十年前と一緒だ。いくつになっても変わらないナツキの姿に夕華は笑みをこぼすのだった。
〇△〇△〇
夕食後。食器を洗い終えたナツキは棚から色違いのマグカップを取り出した。ホットミルクを夕華と自身の分用意するためだ。いつからだろうか。夕食後にリビングのソファに座り、談笑したりテレビドラマやレンタルしてきた映画を鑑賞したりしながらホットミルクを飲むのが二人の毎晩の習慣になっていた。
砂糖を使わない柔らかな甘さが口に広がる。両手でマグカップを包みふーふーと吐息で冷まそうとする夕華の姿を湯気越しに捉えながら、学校でのクールで怜悧な姿とのギャップを心の中で密かに楽しむ。
「どうしてかしらね。牛乳を温めただけのものなのに、こうしているととても落ち着くの」
湯気の向こうで慈しむようにホットミルクの水面を眺める夕華に、ナツキも『どうしてだろうな』と返すのが精一杯だった。
「ナツキ、さっきは言いすぎたわ。ごめんなさい」
「いや……。悪いのは全部俺なんだ。夕華さんが謝る必要はない」
二人ともチビチビと飲み進めていくのでマグカップが空になるまで一時間以上かかるのが常だ。さっきのことがあって珍しく今日は重苦しい。というより、ナツキが一方的に自虐的になっている。さすがに言いすぎた、とますます夕華の中で後悔の念が生まれた。
またしばらく沈黙が二人の間で横たわる。ナツキは夕華を直視しないようにしているのか背を向けるようにして座っている。だんだん、ホットミルクをすする音が二つから一つになった。
「もうあまり気にしないで。本当に怒ってないから」
「……」
「でもひとつ聞かせてほしくて。……さっき言ってくれたでしょ? その、ほら、き、き、綺麗って……。あれって冗談? それとも……」
「……」
「ナツキ?」
「……」
返事がない。ナツキが自分を無視するなんて、とショック打ちひしがれながら見やると、マグカップを持ったまま眠りに落ちていた。
夕華は知らない。ナツキが友人のために倍以上年齢が上の大の男二人に挑んだことなんて。初めて自分以外の中二病と出逢ったなんて。そんな疲れて眠ってしまうのも仕方がないほどの事情があるなんて。だが満足げな表情で幸せそうに眠るナツキの顔を眺めていると、きっと彼にとって今日という日は良い日だったのだろうという予感があった。
かわいらしい寝顔は十四年前から変わらない。夕華は眠りこけるナツキを抱えて二階へと昇った。
「大きくなったわね」
成長期真っ盛りの男子中学生、背も伸びて筋量も増え重くなっている。そんなナツキを二階の彼の私室までなんとか運び、ベッドに横にさせて布団をかけた。すやすやと眠るナツキを起こさないように頭を撫でる。
「おやすみなさい」
前髪を少し分け、額に軽く口づけをして夕華は部屋をあとにした。
〇△〇△〇
「出来損ないだったとはいえ星詠機関の二等級相手に傷のひとつもつけられないか……」
工場跡地で一人の男が呟く。
倒された学ランの少年はスピカによって病院に連れていかれた。警察にも連絡を入れているので、今回の中学生連続失踪事件の被害者であることが確認されればすぐに彼の両親にも連絡が行くことだろう。
「ふっ。まあいい。理論はできていたのだ。素体を十名以上無駄にした。精々四等級を作るのがやっとだった。だが、ついに最も素晴らしい素体を手に入れた! とうとう我の実験は完遂される。あの方もさぞお喜びになるに違いないッ!」
ハハッ、ハハハハハハハハハハ!!!!!!
男は笑いをこらえきれない。暴走した狂気を知能と理性で飼いならし、青い瞳で月を見上げるのだった。
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