第189話 不吉な予感
カーテンから漏れる朝陽の光で目が覚めた。ベッドで寝がえりを打ちボォーっとして。そして意識がはっきりと覚醒したところで上体を起こし目を擦る。そしてカーテンを勢いよく開けた。まだ陸地は見えないけれど海は綺麗。
「そうか、アラビアに着いたんじゃな……」
とはいえ意外と暑くない。ティアによると、中東は夏季と冬季に分かれていて、冬季は気温が二〇度前後と非常に過ごしやすいらしい。ちなみに夏季は五〇度まで上がるから旅行には向かないという。
昨日食べ過ぎたせいで深く眠ってしまったみたいだ。お腹いっぱいだからってよく寝てしまうなんて我ながら子供っぽくて嫌になる。
寝ぐせでぼさぼさの黒髪ロングの頭をガシガシとかく。目覚ましがてらシャワーでも浴びようか。
パジャマや下着を脱いでカゴに入れ、バスタオルやティアに洗濯してもらった新品同然な純白の下着を取り出す。洗面台の鏡の前で私は全裸の私を眺める。
「妾もセレスやティアのように豊かな身体になるのかのう」
長い黒髪で隠れている私の乳房。あの二人に比べると貧相なものだ。いやいや、まだ私は十四歳。成長はこれからだ。
パリンッ!
先日私が錯乱して壊してしまった際にシリウスの能力で修理してもらった鏡が、今回は手を触れていないのに割れた。破片が足元に散らばる。裸で裸足なので刺さると危ない。
後でまたシリウスに直してもらわないと。それにしてもひとりでに鏡が割れるなんて不吉だ。
こういうこともある。そう自分に言い聞かせて浴室へと向かった。
「……む? 不具合か?」
前後に回すタイプの蛇口を何度捻ってもシャワーが出ない。故障だろうか。
「ぎゃぁっ!?」
しゃがんだままイライラして蛇口をぐるぐる回していたら、突然シャワーから水が出てきて頭に降り注いだ。つい淑女にあるまじき声を出しながら後ずさり尻もちをつく。不運というか、縁起が悪い。
「くっ、クックックッ、清冽なる水鞠が妾の肢体を打っておるわ!」
ぶるっと身体が震えた。水シャワーのせいで心臓が縮こまる。
水温は徐々に上がりお湯になった。船のシャワーだというのに私が母と住んでいた自宅よりもシャワーの水が湯になる時間は短い気がする。一軒家なのに給湯器の性能で負けていたみたいだ。
熱い湯が全身を駆け巡り、身体の凹凸を雫が伝う。濡れそぼった長い黒髪が肌に張り付く。汗は洗い流されてさっぱりとした。
ただ、何か不吉なドロドロとした予感が胸に引っかかったまま。
〇△〇△〇
いつものパーティールームに私たち六人は集まっていた。セレスはソファに座ってダーツをし、ヒイロは読書をし、シリウスとティアは談笑し、カナタは頬杖をついてぼんやり天井を眺めている。
ちなみに私はセレスの隣に座っている。ふかふかのソファだ。セレスの左肩に頭を乗せて寄り掛かり、彼女がダーツをしているのを真横で観察。ダーツのルールは知らないので、セレスが投げる度にボードの下の数字が大きくなっているのが何を意味しているのかわからない。
「もうオマーン湾を抜けてペルシャ湾に入っている。ただ上海のときのようにメイオールから遠距離攻撃をくらう恐れもあるから陸地への接近は慎重に行うがね。もしアルコルがドバイに到着しているならトランシーバーで連絡があるはずだ。そのときは安全に上陸できることを確約できる」
シリウスが全員に聞こえるように言った。トランシーバーという言葉にわずかに引っかかったが、よく考えれば基地局など壊滅的だろう。もちろん無事な地域もあるのだろうが、つながるかどうかわからない携帯電話に賭けるのはよろしくない。その点、無線の受信と発信を全て一台に担うトランシーバーは便利だ。携帯電話が出てきて以来、私自身そういう生活に慣れてしまっていた気がする。
「シリウスよ、もしトランシーバーでアルコルから返事がなかったらどうする気じゃ」
「当然私たちだけで上陸する。あまり近づくのは危険だから、またセレスに海上の道を作ってもらうのがいいだろうね」
なんとも原始的な待ち合わせのシステムだ。
今では私も携帯電話が当たり前になっていて、すぐに電話やメールをすればいいと思っていた。が、携帯電話がない時代、公衆電話もない時代、人々はどうやって待ち合わせをしていたのか。
それは事前に場所と時間を約束しておき、来なかったらお流れ。来たら成功。そういうあやふやで不安定な方法だ。遅刻をしたとしても連絡する術がない。
「彼はきっと海岸にいる。トランシーバーは一般的に半径数百メートルから数キロメートル程度の範囲しか使えないが、海のような遮蔽物のない場所で高性能なものをきちんと用意すれば半径数十キロメートルから一〇〇キロメートルまで容易く届く。まあ、今はゆっくりと船を陸に近づけてトランシーバーの射程距離に入りながら連絡を待つ、といったところかな」
そう言ってシリウスは上着の内側から黒くて弁当箱ほどの大きさがあるトランシーバーを取り出した。
私がイメージするような百貨店で売っている小型無線機ではない。上半分を占める液晶モニターには周波数を示すよくわからないグラフが表示され、何に使うのかわからないボタンがたくさんある。明らかに素人が店で買うようなものではなく軍用か何かの特別な一品だろう。
「妾としてはアルコルに会ってみたい。ドバイに来てくれていると嬉しいものじゃな」
そうして、船がドバイに近づくまで私たち六人はパーティールームで団欒しながら待った。船酔いしない体質で助かった、と生まれて初めて思う。そもそも船に乗るような機会が今までなかったので自分が船酔いするのかどうかわからなかったのだ。
腕の肌が触れるほど密着しながらセレスの真隣で彼女のダーツをずっと眺める。そうやって時間を潰しているとき、ふとカナタが、放るように呟いた。
「ねえ、ホワイティアちゃん、ヒイロくん。バタフライ・エフェクトって正常に機能してる?」
「どうしたんですかカナタくん。別に問題はありませんよ。ちゃんと頭の中で世界の論理構造が可逆的かつ四次元立体的に投影されています。ヒイロくんも大丈夫ですよね?」
「……うん。万事予定通り。因果は正常」
「そう、そうだよね。そうなんだ。何もかも正しい。リンゴが木から落ちることに疑問を持つ人なんていない。原因と結果は時間の流れという四次元的な軸の上で間違いなくワンセットなんだ。それを多元的に認識し得る頭脳を持つ僕らが大丈夫だと思うものは絶対に大丈夫なはずなんだ。既知は既知であり未知は未知。僕らの知能は識ることができるからこそその二つの差異を明白に理解できる。……それなのに、どうも胸騒ぎがするんだ。理屈じゃない。論理じゃない。もっと本能的で感性的な……」
珍しく不安そうな表情を浮かべるカナタ。いつも飄々としている彼らしくない。その不安が伝染したような気がして、私はセレスの左腕をなんとなく掴んでしまっていた。
セレスはダーツを投げる手を止め、そんな私の手を上から優しく握って包んでくれた。私はハッとなり、一度深呼吸。気分を落ち着けて、いつもの私らしいミステリアスかつ妖艶な雰囲気を作ってから尋ねた。
「カナタよ、おぬしにしては珍しく弱気じゃな。何を憂懼しておる。心配せんでもアラビア半島のメイオールは妾たちが一切鏖殺してくれようぞ」
「いや、別にどうっていうことでもないんだ。ただの勘違いに過ぎないと思う。理由のない心理的不安は体調不良を認識した身体が脳になんとかそれを訴えるための機能と言われているし、きっと最近の寝不足がたたっただけだよ。うん、だからなんでもない。妙なこと言っちゃって皆ごめ……」
皆ごめんね。そう言おうとしたのだろう。
ザザッ……ザザザ──
カナタの謝罪を遮るように、砂嵐のような擦れる音が鳴った。あまり聞きなじみのない音だ。
「すまない、私のトランシーバーだ。おそらくアルコルからだな。ということは、どうやらドバイに無事辿り着いたらしい」
砂嵐のような音の正体はトランシーバーの受信の報せ。携帯電話などよりずっと長いアンテナを引っ張って伸ばす。一メートルほどあるだろうか。限界までアンテナを伸ばすとノイズは減少し音声がハッキリと聞こえ始める。
『──ウス……シ……ウス──……シリウス──』
「やあアルコル。無事に着いたみたいだね。どうだろう、船を沿岸につけても大丈夫かい? 海岸にメイオールはいるか?」
メイオールを大量に乗せたポッドの一つがドバイに落ち、連中はドバイを出発点として中東全体にもう蔓延っている。これを殲滅するのは骨の折れる仕事だ。そして、ドバイに現状どれほどのメイオールが巣くっているかというのも重要な情報である。私たち肉体労働担当の能力者が分担しながら殲滅して回るのだから。
だが、ノイズばかりでアルコルからの返事はよく聞こえない。海岸にいればきちんと連絡が取れるとのことだったが、どこか別の場所にでもいるのだろうか。いいや、カナタたちと同じ特殊な『天才』であるアルコルという人物がそんなヘマをするだろうか。
シリウスも少しだけ不思議そうにしながらもトランシーバーで応答を待った。誰も言葉を発さない。ぷつぷつと細かいノイズだけがパーティールームに響く。
『──ろ…………──ウス、……げろ──…………シリウス、逃げろッッッ!!!!!!』