第186話 歴史上のあれやこれや
豊臣秀吉の有名な逸話に『中国大返し』というものがある。
本能寺の変によって織田信長が自害した後、明智光秀が天下を手にした。中国地方の支配のために信長の命令で備中、つまり現在の岡山県を攻めていた秀吉は、信長自害の報せを聞くと直ちに毛利家と講和を結び、京都へと向かった。
この後、京都では山崎の戦いが行われ、光秀は敗北。秀吉の時代が始まる。いわゆる明智光秀の三日天下の逸話である。
なぜ『中国大返し』が有名になったか。それは不可能だからだ。
信長の自害の報せを秀吉が聞いたのが六月三日の晩とされている。仮に翌朝すぐに行軍を開始したとして、山崎の戦いが六月十三日であることを踏まえると、十日足らずで二五〇キロメートルを踏破したことになる。道路が舗装されていない時代。それも鎧や兜などの総重量は三〇キログラムオーバー。
実際は軍や装備を整えるのに日数がかかるはずなので、出発はさらに遅くなるだろう。短期間で長距離の移動。
これは秀吉の手勢が全員人間である以上絶対にありえない。
……或いは、豊臣秀吉は信長の死を事前に知る術を持っていた、とも考えられる。
〇△〇△〇
「ってな感じで、豊臣秀吉は僕らと同類なんじゃないかって思うわけなんだよ。何もかも掌の上、的な」
「何が『ってな感じで』じゃ。妾としては中国大返しの逸話は謎のままだからこそ魅力的じゃったのに……。義経がチンギスハンになったとか、上杉謙信の女説とか」
「聖ちゃん、さすがにその二つはあり得ないと思うよ」
「なんじゃなんじゃ! 妾の夢を壊すでないっ!」
ぽかすかとカナタの腕を殴る。もちろん冗談なので力は抜いている。もはや人に非ざる自分が本気で殴ってしまったらそれだけで人間の身体などスクラップになってしまうから。
唇をとがらせる私を見てカナタは苦笑いしながら頭をかく。
「ちょ、そんなこと言われたって歴史なんてつまんない事実ばっかでしょ。驚異的な戦術眼や発明、あるいはカリスマを持つ人材は大抵が僕らと同類なんだよ。正体はバタフライ・エフェクトを使用できる天賦の才。ドミノを一つ小突くだけで世界全体が動き、倒れたカラフルなドミノが上から見たとき絵になっているみたいに世界が俯瞰的には意思の下に選択されている」
「ジャンヌ・ダルクも、卑弥呼も、ナポレオンもニュートンもガリレオも……」
「確証はないけどそうじゃないかな。この間も話したでしょう? ノストラダムスは僕と同じだ、って。他の人もそんな感じだよ」
「つまらんのう。夢がないのう。……いいや、むしろ歴史上の人物の同類が目の前にいることを喜ぶべきなのか……?」
私はくよくよと思案しながら身体を後ろに倒し両腕を広げてぼすんとベッドに横になった。長い黒髪が扇にように散らばる。
そう、ここは私の部屋のベッド。隣で腰かけているカナタは不健康そうな顔に困った表情でハハハ、と乾いた笑いを浮かべた。
……というか、一つのベッドに年若い男女が一緒にいるのはかなりマズいのでは?
「ところでカナタ、おぬしなにゆえここにおる」
「いや、普通に遊びに来ただけだけど?」
「ここ妾の部屋なんじゃが」
「うん。知ってる」
「カナタよ、おなごの私室に押し入るとはおぬしデリカシーというものはないのか……」
「それはゴメン。でも今の聖ちゃん少し心配でさ。昨日の夜みたいなことがあるかもしれないでしょ。もし心理的に追い詰められたのだとしたら、それは聖ちゃんを巻き込んだ僕の責任だから」
憂いを帯びた昏い顔でカナタがこぼした言葉は、私としては少しだけ意外だった。カナタはそんなことを考えていたのか。
私は起き上がってカナタの眼をまっすぐに見て言った。
「さっきセレスが言っていたこと。おぬしも聞いておったであろう? 大丈夫じゃ。これからは追い詰められる前に相談する。なにせ、この船の連中は全員妾の仲間であるに違いないからのう」
「そっか。なら良かった。少しでも緊迫感とか焦燥感とかほぐそうと思っておしゃべりしに来たけど、余計なお世話だったみたいだね。あ、そうそう、シリウスが皆で夕食を取りながら今後のことを話し合いたいって……」
立ち上がって部屋を出ようとしたカナタの白衣の裾をつまむ。どうしたのか、とカナタは心配そうに振り返り私を見つめている。相変わらず不健康そうな顔つきだが、その眼はたしかに私を見ている。
セレスが、ヒイロが、ティアが、みんなが私を想ってくれていることがわかった。そしてカナタも。
そう、思えば昨日だって、錯乱した私に最初に気が付いたのはカナタだった。たしかに私がメイオールを殺す道に進んだのはカナタが私を選んだからだろう。そこに伴う苦しみの責任をカナタが感じるのも理解できる。
でもこれは私が選んだ私の道だ。あの夜、目の前に落ちてきたアタッシュケースを手に取った私の選択。そして能力者となり力を得て、世界の理不尽な運命に反逆することを誓った。その反骨心がきっと私らしさだから。
亡き母は言った。私に私らしくあってほしいと。今の私が私らしくいられるのは、強大な力を行使しメイオールを殺すかどうか選べる立場にあるのは、ぜんぶぜんぶカナタのおかげだ。
カナタが私を選んでくれたから今の私はここにいる。
「……カナタ、感謝しておるぞ…………ありがとう……」
「ん? 聖ちゃん何か言った?」
「なんでもないわ!」
「そう。じゃシリウスくんたちのところ行こうか」
顔を赤くもじもじしている私のことなんで少しも気にせずに、カナタは軽い足取りで部屋を出て行った。私もそれを追う。存外、こういう酸っぱい気持ちも悪くないものだと思えた。