第182話 チカラの由来は憎悪する相手だから
深い夜の刻。陽の光も部屋の電気も消えた暗闇。
セレスの能力で生成してもらった艶やかな黒のパジャマを着て、私室のベッドに身を投げ出して突っ伏している。シルクのシーツがすべすべしていて気持ち良い。枕に顔を埋めているとまるで雲の上にぷかぷか浮いている気分になる。
ところで、パジャマを作ってくれたのがセレスなら昼間の和服風ワンピースもセレス作かもしれない。きっとそうだ。意外な少女趣味というか、独特なファッションセンスというか、私としては案外嫌いじゃない。
乗船して一日目。皆と話し、色々なことを聞いた。色々なことを知った。特にさっきのお茶会ではティアから遅くなるまで多くの情報を得た。たとえば私の故郷、日本のこと。東京は壊滅状態だとして、他の地域は? 上海も同様だ。中国をはじめ東アジアや中央アジアの国々はどうなっているのだろうか。
ティア曰く、日本は社会インフラと政治体制の同時崩壊によって非常に厳しい状態が予想されるらしい。日本の人口は東京の壊滅によって一三パーセントが死亡したが、それ以上にインフラがダメだとか。東京をハブとする道路や空港といった交通インフラは使えず、テレビや携帯電話のような通信インフラも使えない。関東地方を境界線とする形で東西に分断されており、あとどれくらいの期間もつのかわからないとのことだ。
日本は島国だからまだいい。メイオールを乗せたポッドが落下した東京で私が抑え込んだから被害は軽減できた。だが、中国はユーラシア大陸の国だった上に私たちの到着も若干遅れたので、既に中央~東アジアはメイオールの手に落ち生き残った人間はほとんといないというのがティアの見立てだ。
アメリカも西海岸は落ち、ヨーロッパは地域全体が落ちている。ティア、カナタ、ヒイロの三人がシミュレーションした結果、地球人口のおよそ六割が亡くなっているという。
〇△〇△〇
身体は泥のようにぐったりとしていて全身がベッドに沈み込んでいる。昨晩から徹夜で戦い続けたので疲労は尋常でなく溜まっているのだろう。それに、世界中の亡くなった人たちのことを思うと気持ちまで陰鬱になり沈み込んでしまう。母の死に際がフラッシュバックする。きっと、あのような被害者が世界中に何億人何十億人といるのだ。
それでも、私は生き残っている。二〇〇〇平方キロメートルの東京を戦い抜き、上海でも大暴れし、なおこの程度の単なる疲労で済んでいるのは私がもう普通の人間ではないからだ。
カナタは言った。異能力だけでなく運動能力や身体機能も向上していると。
ティアは言った。それらはメイオールに由来する力であると。
腹から酸っぱい液がせり上がる。私は疲れた身体に鞭を打ち口を押さえながらユニットバスのトイレへと駆けこんで、先ほど食べたクッキーの全て戻してしまった。せっかく美味しく作ってもらったのに申し訳ないと思いつつ、私は自分の全身を掻きむしり身体の中身を全て吐き出してしまいたい衝動に駆られて仕方がない。
私の身体にはあのバケモノどもと同じチカラが流れている。私は母と同じ人間ではなくて、母を殺したメイオールに近い存在になっている。殺したいほど憎いメイオールと、私。その二つが重なる。
便器の前でうずくまっていると今ちょうど着ているパジャマが視界に入る。黒々とした醜悪なメイオールの姿と自分の身に着けている衣服が同じに見えて、自分がメイオールになってしまったようで、だったらメイオールは殺さないといけないくて……。
「う……ぅああああああああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁッッッッッッッァァッァァッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!」
パジャマを力ずくで引き千切る。セレスが『聖の綺麗な黒髪を思い出しながら作った』ってぶきっらぼうに言いながら手渡してくれたパジャマをずたずたに。細切れに。両手の十枚の爪が剥がれ、ずきずきと痛い。ボタンがバスルームを転がり布生地が宙を舞う。
この暴力もまたメイオールと同じチカラ。ふらふらと立ち上がり、洗面台の鏡に映る自分を見る。それがメイオールに見えて仕方なかった。
「殺さなきゃ……メイオールは殺さなきゃ……」
拳を握り手の側面で鏡の中のメイオールを殴る。鏡に罅が入り小指から血が出る。でも殺さないといけない。割れた鏡面が手に刺さり裂傷を生む。でも殺さなきゃいけない。耳の奥ではメイオールのカタカタカタカタと嘲笑うように歯を鳴らす音がうるさい。両手は血だらけで真っ赤になった。手首からも血が噴水のように吹き出し足元に水溜まりができる。でも殺さなきゃいけない。
「死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ!」
殴るたびに鏡が割れて三角形の破片が鏡面からボロボロ剥がれ落ちていく。醜いメイオールは少しずつ形を失う。
あと一撃だ。それをぶち込めば目の前にいるメイオールを殺すことができる。
そう思って血みどろ拳を振り上げたとき。
手首が掴まれる。
ゆっくりと振り返り、焦点の合わない目を合わせる。
「何やってんだよ聖ちゃん」
「カナタ……? 逃げるんじゃ、ここにメイオールがおる。おぬしは隠れておれ! 力を手にした妾ならばメイオールなどいくらでも殺して……」
いきなりのことだった。
抱き締められた。
失血し冷え込んだ身体に人間の熱が通う。彼の両腕が私の全身を包み、ふらついたままぐったりと力なく倒れた私の身体を受け止めた。
私の震える手を握り、大事に抱きとめるように頭を押さえられた。今にも折れそうな不健康な胸。それでもカナタの心臓の脈打つ力強い重低音が耳朶に響き、メイオールの幻聴を掻き消していく。
「大丈夫。大丈夫だから。聖ちゃん、ここには奴らはいないよ」
「あ……あぁ……妾は何を…………あああああ」
「大丈夫だよ。僕も聖ちゃんも無事さ。敵はいない。ここは安全だから」
子供をあやすように、頭を撫でるように、カナタは頽れる私を抱き締めてくれた。
身体の痙攣は徐々に収まっていく。目の焦点が合い、はっきりとカナタの顔が見えた。不健康そうな顔色だ。
どたどたと廊下を走る足音が複数聞こえる。
「聖! 大丈夫!?」
「聖ちゃん!」
セレスとティアだ。ほんの数時間ぶりになるか。カナタの腕に抱かれたまま虚ろな視線を向ける。私のもとへ二人が駆け付けてくれるのが見えた。血溜まりで汚れるのも気にせずに二人は膝をついて私の手を取ってくれる。力なく微笑む。うまく笑えない。
「すまぬ……ティアのクッキーを戻してしまった……セレスのパジャマを破ってしまった…………本当にすまぬ……」
「クッキーなんていつでも作ってあげますから!」
「そうだよ! アタシの能力なら服なんて何着でも作れるしっ!」
どうして二人が泣いているのか、私にはわからない。怒っているのか。悲しんでいるのか。喜んでいるのか。朦朧とする意識では思考がまとまらない。血を流しすぎた。景色が遠のき暗くなる。
「私のせいです……聖ちゃんの気持ちも考えずにあんな話をしてしまって…………」
ティアは後悔していた。自分の愚かさを呪う。物理的な因果関係は何億手先も見抜き自在に操る彼女でも、人の気持ちの機微がわからない。
(思えば最初に会ったときもそうでした……。新しい女の子が来るということはわかっていて、出迎えの準備をしたのにあんまり反応はよくありませんでした。聖ちゃんがどんな気持ちなのか、どう思っているのか、どんな心なのか、私にはわからなくて……こうやって、傷つけてしまった)
だから、まずはできることに全力を尽くした。洗濯を全部受け持つと宣言した。紅茶やクッキーを用意した。それが喜ばれることかはわからなくても、がむしゃらに頑張ることしかできなかった。
「ティア、バカ兄貴呼んできて!」
後悔で思考が停止しているティアを怒鳴りつけることで今できることを提示した。これもセレスなりの優しさだろう。ティアはハッと我に返り返事をすると走って部屋を出た。
セレスは浴室のシャワーカーテンを引っ張って千切ると能力を発動した。物質変換。塩化ビニルやポリ塩化ビニルが、綿やレーヨンに変換される。包帯である。
それが私の手に巻かれていく。白い包帯がすぐに真っ赤になる。止血するためにセレスは何度も何度も、幾重にも重ね、きつく巻いていく。
「カナタ! なんか大きな布持ってきて!」
セレスが怒鳴る。包帯を巻くのに手が離せないためカナタに命じた形だ。床にそっと私の頭を寝かせたカナタはベッドからシーツを取ってきた。
セレスはそれをただ私の身体にかけた。つまり止血の目的ではない。パジャマを引き裂いて前が大きく開いてしまい下着が見えていたのを隠してくれたのだ。
再び足音が聞こえてくる。ティアがシリウスを連れて来たのだろう。たしかにカナタもシリウスもいる中では下着姿を晒していたくはない。
瞼を開ける力すら残されていない私にシリウスがそっと手を添えた。シリウスのあるべき姿、あるべき状態を強制する能力。傷はたちまち塞がった。というより、傷のないベーシックな私が上書きされたとも言えるだろう。
血も量的には戻ったはずだ。しかし睡眠という生理機能がなくなるわけではない。そこで私は完全に意識を手放してしまった。
「シリウスさん、カナタくん、今晩は私が聖ちゃんに付き添います。また目が覚めたときに錯乱しちゃうかもしれませんから」
「私も」
「そうだね。セレスティンちゃんとホワイティアちゃんに任せよう。シリウスくんもそれでいい?」
「ああ」
かくしてクリスマスは過ぎていく。カナタとシリウスは聖の部屋を出る。キングサイズのベッドでは聖を中心に据えて左右にセレスとティアがいる。川の字というほど離れてはおらず、二人とも真ん中の聖を抱くように密着して。
意識がなくとも、その安心感とぬくもりはたしかに聖に伝わっていた。