第170話 並行世界であって平行世界ではない
母の亡骸は無惨なものだった。工場作業服の残骸と数十分前の状況から辛うじてそれが母であることは推察できる。工場のコンクリート壁にべったりとついた血。あたりに散乱した腕や足、内臓といった肉片。
生臭い血の匂いが鼻から入って私の脳を侵す。足元がふらつき、その匂いが肺まで到達したところで私は今日食べたものすべて雪の地面にぶちまけた。
「大丈夫かい? どうやら嘔吐中枢が刺激されているみたいだ。喉の奥に手を突っ込んだときの嘔吐反射が脳を介さない脊椎反応なのに対して、嘔吐中枢の刺激は視覚や嗅覚、あるいは心理的ストレスで脳を介して起きる。つまり原因を取り除くのは容易じゃないってことだ。僕としては我慢せずに吐き出しきるのをオススメするね」
両膝を突いて吐瀉物をまき散らしていた私の背後から飄々とした男の声がする。忘れるはずもない。先ほどの戦闘で天から降り注いできた声だ。
スカートのポケットからハンカチを出して口元を拭き、振り返りざまキッと睨みつけた。
全体的に、白いヤツだった。白衣を着ていて、やせ型長身、肌は色白。髪は白っぽいグレーで、見ようによって手入れのされていないボサボサヘアーとも毛先を遊ばせたイマドキヘアーとも言える髪型。
「誰じゃおぬし」
「やだなー。命の恩人だよ、僕は」
「それはわかっておる。その上で何者かと問うておるんじゃ。そなたの素性、目的、そして何より、妾の敵か味方か」
「そんな怖いを目しないでよ。僕は無能力者だよ? 聖ちゃんが本気出したらワンパンで死ぬんだから」
「なぜ妾を名を知っておる」
「そりゃだって聖ちゃんをここに誘導したのも僕だし」
その言葉を聞くやいなや私は立ち上がり、時間停止を発動。白衣の青年を押し倒した。右腕で首を地面に抑えつけ、左手はポケットの中に入れてあった家のカギを握って金属の部分を眼球ギリギリまで近づける。
そして、時間は動き出した。
「嘘をついたら脳ごと眼球を潰す。おぬしは妾の母を殺したバケモノの関係者か?」
「ひゅ~こんな美少女に馬乗りにされるなんて僕はラッキーだ。でも優しくしてよ? 僕は十七歳にもなってまだピュアなさくらんぼなんだ」
「答えろ!」
「そう怒らないでよ。聖ちゃんの言う通りならどうして僕がきみを助けた? 少し考えれば馬鹿でもわかることでしょ」
そんなことはわかっている。わかっていてなお、母を喪った私のやるせない思いをぶつける先がこの青年以外になかった。何か行動を起こしていたい。そうしなければ、今にも気が狂いそうだった。
私の迷いは表情に出ていたのだろう。青年はふっと微笑むと溜息をつき、無抵抗を示すように仰向けのまま両腕を挙げた。
「僕はきみの味方だ。そしてきみよりも弱い。さらに言うなら、きみが今すべきことは僕を脅すことではなくて僕と建設的な話し合い、および情報共有をすることだ。違うかい?」
〇△〇△〇
「どうだい。少しは吐き気が収まったんじゃないか? ストレス性の疾患に関しては『病は気から』という諺がよく当てはまる。尤も、プラシーボ効果に代表されるように心理的影響が身体にあり得ない改変をもたらすこともあるんだけど……それは今はいいか」
白衣についた雪をパンパンと払いながら青年は立ち上がった。どうやら彼は私の気を紛らわせるためにわざとおちょくるような態度を取っていたらしい。
少しだけ警戒を緩めつつも、いつでも時間停止できるように動向から目は離さない。
「さて、じゃあまずは自己紹介をしようか。僕の名前は刈葉カナタ。日本生まれ日本育ちの十七歳。特技は人間観察。それ以外にヒトとのコミュニケーションを知らないからね」
「……妾は、時任ひ」
「時任聖ちゃんでしょ。知ってるよ。知ってて近づいたんだから」
「そ、そうじゃ! どうなっておる。妾を誘導したとか、知っておるとか……」
「今はそれどころじゃないよ聖ちゃん。さっき聖ちゃんを襲ったヤツらが東京にはまだウジャウジャいる。聖ちゃんは爆発を目印にしてここまで来たんだろう? あれは連中の宇宙船だよ。まあ、船っていうか母船からポッドだけ落としたって感じなんだろうけど」
あんなバケモノがまだたくさんいるなんて勘弁してほしい、という気持ちがないわけではない。しかし、それ以上に私の心に渦巻いていたのは安心感だった。
良かった、本当にこの怒りをぶつけるべき相手はまだいるみたいだ、と。
「さっきみたいに一体だけなら素手でも平気かもしれないが、さすがに数が多い。僕が用意した武器でよければ貸すけど?」
「……頼む」
どんなものが出てくるのかと思っていると、刈葉カナタと名乗った青年は路地をさらに奥に進み犬が砂場で穴を掘るように雪を掻きわけ始めた。
「あったあった。はい」
「これは……日本刀?」
「僕のお手製だよ。聖ちゃん、そういう和風なアイテム好きでしょ? そこらの鉄鋼とはワケが違うからアイツらにも刃は通るはずだ。役に立つと思って隠しておいたんだ」
「……ちょっと待て。妾がここにおるのは母がおったからじゃ。どうしておぬしは事前に刀をこの路地に隠していた。隠すことができていた?」
自分でも驚くほどに怒気を孕んだ声。もらった日本刀を抜き、くれた張本人に刃先を向ける。
「ごめん。僕は『天才』だからある程度の未来は作り出せる。だからこの路地が現場になることもわかっていた。でもどうやっても僕の『バタフライエフェクト』じゃ聖ちゃんのお母さんの死は回避できなかった。そもそも奴らの来襲自体が回避不能なインシデントだからね。パラレルワールドってあるでしょ? 並行世界ではあるけど平行世界じゃない。ユークリッド幾何学的に表現するなら、平行じゃない線は必ずどこかで交わるんだ。回避不能な運命点。その……言いにくいんだけど、僕がどれだけ努力しても遅いか早いかの違いでしかなかった」
「何を……」
何を言っておる、と問い詰めたかった。だが声は徐々に小さくなり消え失せる。刀も下ろした。正直なところこの男の言っていることが本当かどうかはわからない。しかし、時間を止めるという能力を自分はたしかに手に入れた。何よりバケモノを見た。彼の発言を嘘だと断言できるほど今の私の常識は正しくない。
「わかった。ならばこうしよう。妾が東京にいる奴らを全て処分する。それが終わったら、おぬしの詳しい話を聞かせてくれ」
「いいね、それがいい。僕はまだ聖ちゃんの能力を正確に把握はしてないけど、さっきの戦闘を見たところ問題はなさそうだ。あ、そうそう。さっきの氷球を覚えてるかい? 相手も聖ちゃんと同じで特殊な異能力を使ってくることがあるから、戦うときは眼の色に警戒してね」
「刈葉カナタよ、どこで落ち合えばいい。というか敵の数もわからんぞ」
「カナタでいいよ。あのバケモノを僕たちは『メイオール』って呼称してるんだけどね、数は……この東京エリアでたぶんざっと一〇〇人ってところじゃないかな。待ち合わせ場所はあそこにしよう、東京タワー。迷子にならないだろう?」
それじゃ、とだけ言い残してカナタは立ち去った。逃げ足が速い。とはいえ、もし私より弱いという話が本当ならたしかに留まって戦闘に巻き込まれるのは危険だろう。
また一人になった。
お母さんは復讐なんて望んでいないかもしれないけれど。ごめんなさい、この怒りの燈を消さずにいるのが私の私らしい生き方なんです。
「それじゃ、行ってきます」
路地に背中を向ける。背中越しに母への別れの言葉を伝えて。
ああ、カナタがさっさといなくなってくれてよかった。刀の鞘を握る手がぷるぷると震える。積雪の地面に水滴が何粒もしたたった。
火の海へと、踏み出した。