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第168話 新しい私の生誕祭

 私は母を見捨てた。恐怖で震える脚を引きずって路地の暗闇を奥へ奥へと進む。



「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」



 母の最期が瞼に焼き付いて離れない。贖罪と生存本能という矛盾した私の内面が心を二つに引き裂く。

 冬の空気が冷たく私の素肌を凍えさせ、出血する足はじんじんと熱い。火の海を通って来たのでスカートから露出している腿にはところどころ火傷もある。


 ソイツの気配は遠い。母が決死の覚悟で足止めをしてくれたおかげだ。涙が頬を伝う。母は女手一つで私を育ててくれた。まだ親孝行もできていないのに、母は自分の命すら私のために擲ってくれた。

 喪失感。胸にぽっかりと穴が開く。その穴を恐怖と生存本能が埋めていく。悲しむ間も与えてもらえない。弔いはできない。戻ることはできない。


 ではこの涙の正体は何か。



「妾は……妾は……全てが憎い」



 母を殺したあのバケモノも。自分のことしか考えず私を踏んで逃げていた連中も。ああ、思い返せば、私を裏切った律子も、私の作品を落とした出版社も、努力をせず私の占いに頼るばかりのクラスメイトも。


 私と母を置いて亡くなった顔も知らない父親すらも、憎い。


 でも、一番憎いのは。



「母さんを見捨てるしかなかった……弱い妾自身が心底憎い……ッ!」



 悔しい。怒りと憎悪が涙となって発露される。弱いからだ。弱いから、弱さへの憎悪すらも涙に変換するしかできない。そんな自分をさらに嫌悪する。弱者による憎悪のループだ。


 弱い私の重い足取りは、あの不気味なバケモノに比べたらずっと遅い。ソイツの脚は、見た目は金属のような質感だが形は筋肉のようだった。きっと直に追いつかれることだろう。そうして弱い私は、母にもらった命を無駄にするのだ。



「もっと……もっと妾に力があれば……理不尽な運命を破壊する力が……」



 びゅう、と冬の雪風が路地の奥から吹きすさぶ。



「だったら、力を与えてやるよ」



 男の声だった。



「な、なんじゃ……?」



 バケモノの足音が確かに近づくのを耳で、あるいは振動で感じる。



「運命を壊したいんだろう? だったら使えよ、弱者」



〇△〇△〇



 工場の屋根に白衣の青年が立っている。右手は白衣のポケットにつっこみ、左手はアタッシュケースを持っていた。



「まさかポッドの落下だけで大火事になるとはね。とはいえ消防隊よりも自衛隊の動きの方が早い。東部方面の本部はたしか埼玉の朝霞駐屯地だったかな?」



 冷めた目線で火の海を見下ろす。グレーの髪をかき上げながらにやりと笑う。



「判断は正しい。現状の保有防衛力の運用としてベストだ。だけど、ベストを尽くしたからといって勝てるわけじゃあない」



 爆心地では耐熱防護服を着用した自衛隊員が八九式アサルトライフルを担いで軍用ヘリコプターから降下している。

 発射速度で言えば一分間でおよそ八五〇発。平均すれば一秒間に十四発が発射されるという世界的に見てもばら撒く弾の量は多い八九式だが、その程度の火力ではソイツらの身体を蜂の巣にすることはできない。


 降り立った隊員たちは抵抗もむなしく銃弾を弾かれ軽々とバケモノの爪で切り裂かれている。



 それからも、彼はしばらく情勢を眺めていた。

 そして彼が立つ工場のすぐそばで女が殺されるのを見た。少女が逃げる様を確認した。


 力を求める少女の、慟哭を聴いた。



「良いねえ。僕が思っている通りだ。そうでなくちゃ。人類の最後の希望がすぐに諦める軟弱者じゃつまらない」



 工場の屋根の端まで歩き、アタッシュケースを持つ手を伸ばす。さらに、声を張り上げた。



「だったら、力を与えてやるよ」



 手を離す。アタッシュケースが重力に従って自由落下する。



「運命を壊したいんだろう? だったら使えよ、弱者」



〇△〇△〇



 ドスン。私の目の前にアタッシュケースが落ちてきた。雪煙が舞う。不気味なケースを訝しむ。



「アタッシュケース? なんじゃこれは」



 銀色のケースを開くと、液体窒素の冷却材の煙が噴き出た。

 その間にもソイツの足音は近づく。このままでは遅かれ早かれ追いつかれるだろう。


 謎の男の声は力を与えると言った。だったら、賭ける。どうせ運命は私を殺す。その運命の確率をほんの〇.一パーセントでも狂わせてやれるなら、藁でも何でも縋ってやる。



「注射器、じゃと……?」



 アタッシュケースに収まっていたのは、鉛筆ほどの長さの注射器だった。それだけだ。そして注射器は真っ赤な液体で満ちている。血のような濃くて濁った液ではなくて、何かの実験で使う溶液のようにさらさらとしているように見える。


 わずかな逡巡。注射器を手に取る。

 そして、ソイツは来た。母の次は私を殺すのだろう。

 

 暗い路地でもよく見える。ソイツの手の爪にはべっとりと血が付着しており、足の爪には千切れた工場作業服が絡まっている。どちらも母のものだ。


 その瞬間、私の憎悪は臨界点を突破した。

 母を殺したコイツを。母を守れず見捨てた私を。こんなにも残酷で理不尽な未来を与えた運命を。

 憎む。憎む。憎む。全て憎む。



「妾は……弱い妾をここで殺す」



 立ち上がる。脚の震えはもうない。バケモノと相対する。カタカタカタカタカタカタと歯を鳴らしているソイツの爪が私に迫った。

 きゅっと目を瞑って、注射器の針を首に刺す。赤い液を一気に注ぎ込む。


 ドクン、と身体全体が脈打った。血液が沸騰したかのように全身が熱い。脳が焼き切れそうだ。

 自分の中に新しいもう一つの自分が出来上がるのを感じる。


 これは、新しい私の生誕祭。


 目を開く。

 ()()()()()で敵を視る。

 

 赤い両眼に淡い光が灯った。


 母を殺したバケモノの鋭い爪が、私の顔の前でピタリと止まる。

 ホワイト・クリスマス、降り注ぐ雪も空中で静止する。自衛隊員たちの銃弾も、逃げ惑う人間たちも、枯れ落ちる椿の花も、皆、止まる。


 世界の時間が、停止する。

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