第167話 ノストラダムスの大予言
残酷な表現がありますので、精神的に辛い方は読まないでください。今はゆっくりと落ち着き、自分の心を大事にしてください。
「ねえ聖ちゃんさ、ノストラダムスの大予言って知ってる?」
中学二年生に上がった四月の頃。親しくなったばかりの律子にそんな話題を振られたことがある。
「妾を誰と心得る? 星が毎夜、夢魘の庭園で囁くのじゃ。世界の終焉、宇宙の残響、憤怒の君主」
「そうそう、それ。今年の七月にね、恐怖の大王がやって来て世界って終わっちゃうんだって。今のうちに美味しいものいっぱい食べておかないと」
律子はほとんど信じていない様子だった。しかし、当時少なくとも日本では世論を完全に二分していたように思う。妄言だと鼻で笑う者もいたし、夜のテレビ番組で真剣に討論を繰り返している者たちもいた。
結局、七月には何も起きなかった。第三次世界大戦が起きて核戦争になるとか、甚大な災害に襲われるとか、公害で生態系が死滅するとか、色々と噂されたけれど何も起きなかった。
そんなオカルトを信じない人たちでも二〇〇〇年問題を危惧する者は多くいた。コンピューター内の時計が一九九九年から二〇〇〇年に切り替わる際に不具合を起こし、バグによって世界中のコンピューターシステムやインターネット、電子管理物などがダウンするというものだ。
ちなみにノストラダムスの大予言を信じていた人たちは七月以降、この二〇〇〇年問題で兵器を管理するシステムが暴走し世界は機械と機械による核戦争が勃発して人類は住めなくなるなんて言っていたっけ。
その検証も、二〇〇〇年のお正月まで待たなければならないのだが。
〇△〇△〇
星が、降っていた。雪の比喩でもなければ流れ星でもない。夜空の無数の白い点が線となり、帯となり、大地に降り注いでいる。天球のどこに目を向けても白い帯は黒い空から落ちてきている。
続いて、爆音が轟いた。かなり離れたところに何かが落ちたのだろう。熱波が衝撃波を伴って地面を走り、積雪を溶かしながら私を襲う。
まず私の朱色の和傘が飛んでいき、次に顔をかばった私を身体ごと押し退ける。尻もちをつき背中からアスファルトを転がった。区役所の椿は一本も残らず薙ぎ倒されている。
セーラー服のスカートからのぞく足は傷だらだ。膝はべろりと擦り剥き血が止めどなく溢れ、学校指定の白いソックスを真っ赤に染めた。歯を食いしばって立ち上がり衝撃波の発生源を探す。
遥か遠いことはわかる。東京タワーのそば、クリスマスイブの夜には相応しくないほどの暴力的な爆炎が煌々と立ち上り黒煙が夜空の黒に溶けているのだ。炎とタワーの遠近感からおおよその距離感にあたりをつけた。私は改めてその方角をたしかめる。そして確信してしまう。
「あそこは……」
お母さんの勤める工場がある地区だ。
〇△〇△〇
「何がどうなっておるんじゃ……」
身体に鞭を打って母の工場近くまで駆けて来た私が目にしたのは火の海だった。膨大な人の波が絶叫とともに私を押し流す。それを掻きわけるように進んだ。
「道を開けんか! 妾の、妾の母がそちらにおるんじゃ!」
私のような小娘の声など錯乱した大衆に届くはずもない。火の海に腕を伸ばす。手を伸ばす。指を伸ばす。邪魔だ、という見知らぬ誰かの怒号が聞こえた瞬間、私は地面に伏していた。人々が私を踏みつけながら走って逃げいていく。絶え間なく骨と内臓が潰され肺はうまく機能せず息苦しい。
永遠のような数分間が経った。燃え盛る炎の音しか残っていない。他の連中はどこかに逃げ隠れたのだろう。
「おか、あさん……」
だらんと垂れた右腕を押さえながらフラフラと火の海の中へと進む。近づけば近づくほど、人間の声が聞こえてきた。よかった。どうやらまだ生存者はいる。
意を決して火の海へ飛びこんだ。煤や火の粉を吸い込まないように左腕で口元を覆う。どうやら工業地帯から都市部にかけてが燃えているらしい。かなりの広範囲だ。
道の端で倒れている者、店の扉に寄り掛かってぐったり座り込んでいる者、おぼつかない足取りで逃げている者。様々な人を見捨てながら私は奥へ奥へと突き進む。
首を左右に振って母を姿を探す。逃げ遅れているのか。それともどこかに避難しているのか。わからない。わからないから全部見る。
左足は引きずり、動かない右腕をそのままにみっともないフォームで走っているそのときだった。視界の端が人影を捉える。
工場と倉庫の間。自動車が通れるくらいの広さはある路地で、工場作業服を着た母がいた。隠れるように身を潜めているというよりも動けないため仕方なく路地の壁に身体を預けているといった様子だ。
「お母さん!」
「ひ、じり……どうして…………」
路地に入り駆け寄ると呼吸の荒い母は声を振り絞っていた。どうしてと言われても、母を助けに来たに決まっている。おそらく腕を折っているので楽ではないが背負って家に……家ではだめだ。どこか広く、安全な場所を探さなければ。
「お母さん、ほら、起きて。帰ろ。私がおぶるから」
母の前では素の自分が出てしまう。こんな私を養うために夜遅くまで工場で働いている母。そんな人を置いていくわけにはいかない。
さあ立って。私は辛うじて動く左手を母に伸ばした。
母は私の手を取り……。
かっと目を見開いて私の手を強く引っ張った。
「なっ……!」
私は路地の奥へと転がってしまった。
何をするの! と母に文句の一つでも言おうとしたその瞬間。
血飛沫が私の頬にべちゃりと付着する。
鉄のような生臭さが鼻をつく。
ソイツは人型であっても人間ではなかった。骸骨を後頭部だけ引き延ばしたかのような顔。トンボのような複眼が大きく二つあり、均一な歯が隙間なくびっしりと並んでいる。黒い筋肉がむき出しで、尻尾は地面をこすり、手足にはそれそれ三本の指と鋭い爪。
その爪が、母の背中を裂いていた。
「え……?」
ああ、わかってしまった。母には見えたのだ。私は元々来た道に背を向けて路地の母に手を差し出していた。母は私の背後にソイツが迫っているのに気が付いた。だから私と入れ替わるような真似をし、身代わりとなったのだろう。
助けなければ。心ではそう思っているのに足がすくむ。全長二メートルはあるソイツは壊れたラジカセのように歯をカタカタカタカタカタカタと鳴らし複眼をぎょろぎょろと動かしている。
「に、げて……」
「でも……」
母の言葉に受け入れらない。受け入れたくない。
「ひ、じり……大好きよ……。だから生きて……あなたは、あなたらしく…………」
路地の雪に母の血が染み渡り真っ赤な水溜まりを作る。ソイツは私に気が付くととぎょろぎょろ動いていた複眼が私にピントを合わせてぴたりと止まった。母の次は私の番だ。
死ぬ。殺される。この怪物に私も母も殺される。悔しい。涙が出る。死にたくない。嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくないッ!
ソイツは私という次の標的を屠るため黒々とした強靭な足を一歩踏み出した。
「いかせ、ない……」
──彼女は最期の力を振り絞り、怪物の足をがっしりと掴んでいた。背中から臓物をまき散らし今にも生命を終えようとしているというのに、その最中でも最期の最期まで娘を生かすことしか考えていなかった。
──路地の奥、暗闇へと逃げていく娘の後ろ姿を見送る。それでいい。死にかけの自分など見捨ててくれていい。愛しい私の娘、どうか幸溢れる暖かな未来が訪れますように。
最期の祈りを星天に捧げる。時任聖の母親は、壁に叩きつけられた直後に絶命した。娘を想い続けたその表情は、最期まで慈愛の笑みを湛えていた。
申し訳ありません。これは数日前から書き溜めていたものであり、現実の事件とは一切関係ありません。私は全ての暴力に反対します。
心よりご冥福をお祈りいたします。