第157話 枯山水
朝にも投稿しておりますので、未読の方は前話もよろしくお願いいたします。
資料室でナツキと剛毅が話していたときに汗だくで割り込んできた剛毅の部下。彼は本来、脱獄した円を追跡した五人のうちの一人である。そして彼の判断は非常に早かった。一人目の風使いが倒された時点で既に二十八衛府へと戻っていたのだ。
元より五人のうち四人しか戦闘面での連携を訓練していない。すなわち、風使い、炎使い、液使い、雷使い。では五人目の彼の役目とは? それは報告だ。任務を完了したならばそれで良し。しかし失敗した場合。より高位の能力者や優れた剣士を援軍として派遣する必要がある。状況を素早く判断し四人に見切りをつけ、早々に援軍要請を行うのが彼の役割であった。
彼が持つのは、地面をわずかに隆起させるという六等級のちっぽけな能力。しかし常時クラウチングスタートの助走ブロックを精製し続けるのは本部への逃げ足という意味ではとことん最適で、さながらマラトンの戦いでアテナイの勝利を伝えるため数百キロメートルを走破したフィリッピデスである。
かくして、彼は鬼宿剛毅という最強の上司を連れて来た。ひょうたんを捨て野太刀を抜いた剛毅の背から立ち上るオーラは到底この五人が及ぶものではない。
(これが二十八宿の当主クラス、母上でも届かなかった頂……)
息を呑む円の手にも力が入る。呼吸を忘れるほどだ。
普通、戦うときは相手の様子を観察し攻撃を先読みする。右に体重がかかっていれば右から踏み込んでくるだろうし、左の肩がわずかに上がっていれば左から斬りかかってくるだろう。
だが剛毅からは何も見えない。円にとっては初めての感覚だ。襲い掛かるオーラとのしかかる圧のせいで全方向どこから攻撃されてもおかしくないと幻視さえしてしまう。
円と剛毅の距離は五メートルほど。そう簡単に円を斬ることのできる距離ではない。逃げに徹したとして、この五メートルのアドバンテージを自分は広げられるのだろうか。距離を詰められて追いつかれたら再び牢に逆戻りだ。
「あーらよっと」
逃げるか戦うか。迷う円の耳に気の抜けるような声が届いたその瞬間だった。既に円の鼻先数ミリメートルにまで刀が迫っている。
(五メートルの距離が一瞬で!?)
逃げる、という選択肢が消えた。戦わざるを得ない。円はその場でダンスのターンのように足捌きだけで九十度回転し、薄皮一枚のところで剛毅の剣を躱す。そのまま剛毅の一振りは石畳の地面を砕き、小さなクレーターができあがった。石畳の下の土の地面に突き刺さってしまった刀を引っ張って抜く一秒にも満たない隙を使って円は直ちに距離を取る。
「やはりアイツの娘だ。これくらいなら当たらねえよなあ」
どこか嬉しそうにしている剛毅に比して円の方は冷や汗が止まらない。刀を握る手が震えないようにするので精一杯だ。
(今のは……どれが能力だ。加速……いいや、転移? それとも地面すら砕く破壊力? こんなバケモノじみた相手に私は勝てるのか……?)
「なんだ、そのオバケでも見たみてえな表情は。ああ、心配すんな。今のお前程度が相手じゃ俺は能力を使うまでもねえ」
円はいよいよ戦慄が迸った。馬鹿にされたことにではない。これだけの強さが、能力抜きの生身の肉体で為されているという事実に対してである。
〇△〇△〇
資料室に一人残されたナツキはどう時間を潰すか考えていた。幸い読み物なら腐るほどある。薫に関する情報だけでなく、二十八宿が携わった事件の報告書でもあれば牛宿家の次期当主選びの役に立つかもしれない。
そう思って本棚に手をかけたとき。殺気にも似た刺々しい気配がナツキの背中を冷たく撫でている。徐々にその歪な気配は大きくなっていき、そしてあるところでぴたりと止まる。
(誰かが廊下を歩いて来たのか?)
ナツキは暗くてじめっとした資料室を出た。かといって朝から曇り空の今日だ、廊下もどこかどんよりしている。きょろきょろと見渡すと、曇天を背に枯山水を眺めている者がいる。
「秀秋?」
「これはこれは黄昏暁さん。さっきぶりですね。いやあ今日の模擬戦でもあなたはやはり強かった。それにしても、こんなところに何か御用で?」
「……まあ大した用向きじゃあない」
日本の伝統的な庭園、枯山水には山を模した大きな岩がある。高さにして成人男性ほどだろうか。秀秋はその岩のてっぺんに胡坐をかいて座っている。
間違いなく先ほどの禍々しい気配の主は秀秋なのだが、枯山水を鑑賞する彼の眼鏡の向こう側はいたって純粋で穏やかだ。
「私、枯山水って好きなんですよね」
「……」
「ほら、水なんて流れてないのに昔の日本人は砂の模様で川を空想したんですよ、とても素敵じゃないですか。私はそれこそ心のベクトルの本質じゃないかと思うんです。何かに対して抱く想いや心の動きは、同じ作用をもたらすなら代替物でも構わないんじゃないかって」
「砂に川を見出す者にとっては本物の川など必要ないとでも言いたいのか?」
「そういうことです。心の作用が一緒なら違いを感じる必要もない。そこに真作と贋作の区別はありません。川の『本質』を得られるなら、水の川だろうが砂の庭だろうがどっちだって一緒なんです。……私にとって、彼女はさして重要でなかったのかもしれません。『本質』とやらは人間ではなく剣術の方に宿っていたのだから。それに気が付いたのは彼女が私の預かり知らないところで死んだときのことです」
「一体何の話をしている? 彼女とは誰だ」
「昔昔、あるところに授刀衛に所属する二等級の能力者がいました。彼は聖皇陛下のため、日ノ本のため、全身全霊で戦ってきました。しかしご存知の通り聖皇陛下は先の大戦において終戦協定を受け入れたのです。戦勝国も敗戦国もありません。国連が作る世界秩序に与するか、しないか。その二色で塗り分けられる世界となりました」
「俺たち星詠機関は国連加盟国に対して能力者に関するあらゆる超法規的な行動が許可されている。……大日本皇国とロシア帝国を除いて」
だからスピカがグリーナー・ネバードーンの捕縛任務を受けた際には日本へ入国するため裏でシリウスと聖皇の取引が必要だったし、クリムゾン・ネバードーンがロシア帝国ロマノフ王朝の王位を簒奪するなどという暴挙に対して表向き戦力を送るような真似はできなかった。
少なくとも政治的な意味合いにおいて世界秩序は国連側かそうでないかにわけられる。もちろん経済的な意味合いや軍事的な意味合いではネバードーン財団をはじめその他大小様々な軍事企業など異なる次元に勢力分類はできるのだろうが。
「その男の行き過ぎた愛国心は聖皇陛下への憎悪に変わりました。『他国民を根絶やしにするまで徹底的に戦い続けろ』とね。彼からすれば、大戦から手を引き世界秩序が勝手に作られていく世界情勢を聖皇陛下が許容するというのは裏切りに感じられたんです。二十年前、彼は暴挙に出ました。信頼している部下やまだ幼かった自身の息子を連れて平安京を出た彼は、ある建物を占拠しました」
「まさか、昨日の資料に載っていた……」
「そうです。『京都タワー占領事件』。聖皇陛下が一般人の被害を慮って大戦をやめたというのなら、その一般人を人質にすれば意見が通ると考えるのは道理。彼が一般人を巻き込んでまで聖皇陛下に突きつけた要求はたった一つ。『大日本皇国以外の世界の全ての国家が崩壊するまで戦争をやめるな』でした」
夕方も投稿させていただきます。