第152話 八つの大罪
京都生活四日目。寺子屋に通うのは三日目。寺子屋の教室の扉をナツキが開けると視線が一気に集中した。
初日を思い出す。初日の注目は、『あいつ何者』だという興味の視線。今日の注目は、『あいつがここで一番強い』という畏怖の視線。模擬戦とはいえ竜輝を瞬殺した昨日の姿が周囲の見る目を変えたのだ。
次に気が付いたのは、自分の左隣の席に円がいないことだった。遅刻だろうか。ナツキは始業時刻のギリギリにやって来たので、現時点でいないとなると間に合わない可能性が高い。
続いて教室前方の扉が開き秀秋が入ってくる。それまで鈴生りに駄弁っていた他の面々も各自の席へと戻っていった。
「今日は円さんがお休みですか。どうしたんでしょう。とりあえず、事情があればきっと後で連絡があるでしょうから、皆さんは皆さんで今日も一日頑張っていきましょうね」
秀秋は笑いながらそのように言うもののナツキの中には一抹の不安があった。寺子屋の責任者である秀秋に連絡がなく、そして自惚れのようかもしれないが好きだと言ってくれている「黄昏暁でない方の自分」にも連絡はない。
何もなければよいのだが。狐面の下で少々不安げな表情を浮かべながら、ナツキはクラスメイトたちの後に続いて武道場へと向かう。
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曇り空だった。世界の熱源が太陽だというのなら、それが隠れている日は夏であっても幾分か暑さのマシな朝であろう。
円が布団の中で目を覚ましたとき、中途半端に開かれた障子の隙間から見えた景色について思ったのはその程度のことだ。昨日よりも少しだけ涼しい朝。六畳間の和室の真ん中に敷いたせんべい布団から起き上がり、四つん這いに進んで障子をそっと開く。
雨は降っていない。それでもどこか薄暗く、縁側に頭を出してきょろきょろと庭を見渡しても蝉の声ひとつ聞こえない。
珍しい朝もあったのものだ。それでも日常はいつも通りに進行する。さっさと着替えて朝食と弁当を作り寺子屋に向かわねばならない。立ち上がった円は枕元に置いていた白く細長い布で手早く髪を結い上げ、いつものポニーテールを作った。
そして寝巻として着ている藤色の浴衣を脱いでいく。帯を解き、はだけた襟から露出する肩が空気に触れた。寒さはないが暑さもない。
円はふと目線を下ろす。ピンク色のブラジャーからは胸の北半球がこぼれんばかりになっていて、乳首もこすれて少し痛い。見るからにサイズがあっていないことがわかる。十七歳という年齢で心は大人になった気でいたが、まだまだ身体は成長期真っただ中ということだ。
(また下着を買い換えないといけないな……。今まではこんな脂肪の塊は剣を振るのに邪魔だと思っていたが、やはりナツキも男ならこういうのが好きなのだろうか。そうだ、せっかく新しい下着を買うならナツキに聞いてみよう。どんな色が好みなのかと。うん、そうしよう。それがいい。だって、将来私とナツキは……)
普段は寄らば斬るという剣呑で物騒なオーラを出していて常に表情は凛としているのに、自宅で誰も見ていないのをいいことに円は妄想に耽り、もじもじと身体を動かす。両手で頬を押さえると熱くなっているのを感じる。
そんなとき。部屋に飾っている写真の中の母と目が合った。写真は写真。本人ではない。それなのに、どうも見られてしまったような気分になってばつが悪い。
まして今の自分は色恋に溺れていた。剣士として憧れの母にどう思われてしまうかということよりも、年頃の娘として親に色恋沙汰を知られることの恥ずかしさが占めている。
途端に冷静に戻った円は天国の母へ言い訳をするように或いは誤魔化すように姿勢を正し、いつもの桃色の袴に着替え、帯をキュッときつく締めた。
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寝室を出て台所へと向かう。米は少し多めに炊かなければならない。弁当の分と朝食の分だ。弁当のおかずは昨日の夕飯の残りを温めてそのまま入れる。汁を吸ってじゃがいもがふにゃふにゃになった肉じゃがとか、ぬか漬けにしている大根とか、サバの煮つけとか。
独り暮らしで向上するのは家事のクオリティではない。家事の効率性だ。手早く終わらせたり使いまわしたり、そんな知恵ばかりが増えていく。まな板に乗せた豆腐に包丁を通して味噌汁に入れるための小さな立方体を作りながら、円は『嫁入りする前の女がこの有様でよいものなのだろうか……』と呟く。
脳裏には顔の知らない想い人、ナツキの後ろ姿があった。包丁を握る手には剣でできた血豆がある。彼はそれを綺麗だと言ってくれた。円にとっては今までの努力も苦労も丸ごと肯定されたに等しい。温泉で言われたときのことを思い出しながら円は『将来は彼に毎日朝ご飯を作ってあげたい』などと妄想し、心はうきうきと軽やかに踊る。
「あっ」
そのせいで、集中力が欠けた。包丁を持つ手が滑り豆腐が潰れ、歪な塊となる。まな板の上を虚しく見つめながら、まあ鍋に入れて火をかければ同じことか、と自分を慰めた。
赤味噌をしゃもじで掬って湯だった鍋の中に入れ、菜箸でかき混ぜながら溶かす。まな板を傾けて豆腐を流し込み、乾燥して保存してあるワカメを適当に一つまみしてまぶす。
続いて主菜の鮭を焼こうとしたときだった。玄関の戸がドンドンッ! ドンドンッ! と叩かれ、シンと静けさに包まれていた早朝の空気が激しく振動する。
「なんだ? 朝から騒々しいな」
包丁を置き、水道を捻って手を洗い、魚の生臭さを落とす。手拭いで水気を取り玄関まで足早に小走りし木の引き戸を開けた。
「一体こんな時間から誰が……」
「高宮円だな?」
まるで戦国時代からタイムスリップしてきたかのような兜に甲冑姿の武士のような男性が五名。腰には日本刀を携え、円の家の前にいる。どこか物々しい雰囲気に少しだけ怖く思いつつも、円からすれば相手は授刀衛という組織の先輩にあたる人たちだ。失礼が無いようにと姿勢を正してから、「はい」とだけ返事した。
「お前を八虐謀反の罪により拘束する」
八虐とは平安京内での法、すなわち律令において、八つの大罪を指す。謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義、そして、謀反。それが意味するのは聖皇の殺害を実行および計画。
男の一人がぬっと手を伸ばし円の腕を掴もうとした。だが、当然そんな大犯罪などまったく身に覚えのない円は抵抗する。相手の手を振り払ったのだ。
「ま、待ってください! 私はそんなことしていません! 本当です!」
「詳しい話は詰所でいくらでも聞く。それとも我々に力でもって抵抗するのか?」
「そんな、私は何もしていないのに……ひっ」
言い訳を続ける円の首すじに日本刀の白刃が当てられる。空が曇っていても、人の命を容易く奪う刃文はギラギラと輝き、夏だというのに皮膚に触れる鋼鉄は酷なほどに冷たい。
もし円も刀を携えていたらそれなりに抵抗ができたかもしれない。しかし今は当然無手。それに一対一ならともかく、依然未熟な自分では能力者として剣士として実戦を積んでいるであろう授刀衛の先輩五人を同時に相手にするのはあまりにも無謀。
わけがわからず状況は飲み込めない。これはきっと何かの間違いだ。向こうの手違いだ。正直に誠実に話してきちんと情報を精査すれば疑いは晴らされ無実は証明される。
希望的観測に基づいて自分にそう言い聞かせながら、それでも同じ日ノ本を守護する同志から刃を向けられたショックは大きい。円は涙がこぼれるのをグッと堪えながら、両腕を差し出した。
円の両手首に、ステンレスワイヤーを藁に編み込んだ頑強な縄が巻かれた。「いくぞ」と突き放すように言い放たれるやいなや、縄を強く引っ張られ、家から引きずり出される。よろめきながらも倒れないように力なくたたらを踏む。扱いは罪人だ。
円はわずかに空を見上げた。曇り空は今にも雨が降り出しそうなほど暗く、雲は分厚い。
ああ、よかった。こんな情けない姿を天にいる母に見られることはない。
せめてもの慰めを自らに与える。そうでもしなければ、縄にかけられたまま歩くなどとてもできそうになかった。