第149話 夜桜と満月
「ただいま」
「あら、おかえりなさいませ黄昏様。結城様ならまだ帰ってきておられませんよ」
日が沈みはじめた頃、旅館に戻ったナツキを恭子が出迎えた。円への指導を終えたばかりで身体には若干の疲労がある。夕食は英雄が帰って来るまで待つつもりなので、ひとまず軽食を何か作ってもらえないかと頼んだ。
わかりました。そう言いながらたおやかに微笑み厨房へと向かった恭子を咄嗟に呼び止める。
「もう一つ。頼み事があるんだ」
「頼み事、ですか……?」
「もしここに円がやって来たら、俺は中庭にいると伝えてほしい」
「あら、黄昏様は円ちゃんとお知り合いだったんですか?」
「まあそんなところだ。ああ、あとそれから。できれば俺の名前は出さないでほしい。円には名乗っていないんだ」
これは半分本当で半分嘘。黄昏暁として、或いは田中ナツキとして、それぞれ別人として名乗ってはいる。
恭子は恭子で、ナツキが聖皇に招かれて平安京に来訪していることを知っている。きっと自分のような一介の旅館の女将が立ち入ってはならないような事情があるのだろうと思いを巡らした。その思慮深さこそがナツキや英雄のような部外者の生活を任せるほど聖皇から信頼されている所以である。
「わかりました。それじゃあ急いでねこまんまでも作りますから、お部屋で待っていてください」
おかゆに代表されるような水分の多い米料理は重たく胃袋に留まり腹持ちが良い。ねこまんまを選んだのは時間がかからないからというのもあるが、きっとこの後もナツキには何か用事があるのだろうと察した恭子なりの気遣いであった。
〇△〇△〇
ナツキと恭子の会話から四、五十分が経ったときのこと。旅館の入口が再び開かれた。
「いらっしゃい、円ちゃん」
「恭子さん、こんばんは」
「今日も温泉かしら?」
「いえ。さっき自宅で湯浴みしてきました。実は、今日は別に用事があるというか、会いたい人がいて……」
顔を赤くしながらモジモジとしている円の姿を見て、恭子はおおよその事態を理解した。同じ女として、そして亡くなった彼女の母親の親友として、円の様子の異変を敏感に察知したのだ。
今は大人となり桔梗という子宝にも恵まれ旅館を取り仕切るほどにまでなった恭子。それでもかつては一人の乙女だった。自分も一度は通った道だ。円が今どんな気持ちでいるのか、どうして用もないのに旅館に訪れたのか、身に染みるほどわかってしまう。
「彼なら、うちの旅館の中庭にいるわ。たぶん一人よ」
〇△〇△〇
恭子の旅館は四角い敷地の中でL字型に建っている。緑豊かで鹿威しの音が風流に響く入口までの石畳の道から、旅館の中には入らずに建物の周囲を半周ほどすると中庭に出る。Lの字の右側のスペースだ。
ちょうどナツキの泊まる客室から接続していて、履き物さえ容易すれば客室から外へと涼みに出たり自然を楽しんだりできるようになっている。
以前、恭子の許可の下で団体客が花火をしたりバーベキューをしたりしたことがあった。それだけ大人数が集まって騒げるくらいには広々としており、ナツキは自分が通う中学校のグラウンドを想起したほどだ。
そのナツキはというと。広い中庭の真ん中に鎮座する大きな桜の木の下にいた。濃茶色の幹に寄り掛かり、風でわさわさと揺れる枝を眺めていた。
夏だというのに花弁は満開だ。内裏と同じように狂い咲いているのか、はたまた特殊な品種なのか。
(いや、あの何を考えているのかわからん聖皇のことだ。桜という植物の時間すら操っていてもおかしくはない)
未だ聖皇の能力を全て把握しているわけではないナツキには確かめる術はない。それにどのような理由であれ、頭上の桜吹雪の美しさが本物であることには違いない。
ナツキは既に黒い和服は脱いで部屋に備え付けられている青と白の浴衣に着替えている。桜の花弁を揺らしながら吹きすさぶ夏の風は熱を乗せてじっとりとしているが、浴衣の中を通って汗を一瞬で乾かすので不快感は少ない。
そのときだった。タッタッタッタッと走る足音が聞こえる。ナツキは音のする方へ背を向けた。
「はぁはぁはぁ、恭子さんからナツキがここにいると聞いて飛んで来た」
「昨日ぶりだな、円」
「ああ。ナツキ。会いたかった。……風呂と違って私は裸ではないから、こっちを向いてもいいんだぞ? というか私は正面からナツキを見たい」
やはり足音の主は円だった。
ナツキは別に円と今日会う約束をしていたわけではない。しかし、会いに来るという確信に近い予想があった。昼間の円の態度からして彼女は自分に、黄昏暁ではなく田中ナツキに惚れている。そして向こうは田中ナツキについてこの旅館に泊まっていることくらいしか情報がない。
であれば、彼女が田中ナツキに会うには再び旅館へ足を運ぶ以外に手段はないのだ。だから事前に手を打った。うっかり黄昏暁としての格好をしているとき鉢合わせたら目も当てられない。
ナツキは円に背を向けたまま腕を後ろにのばす。手を握れ、という意味を理解した円はその手を取った。
円の能力は触れている相手が嘘をついているかどうかわかるという読心系の能力だ。つまり、これはナツキなりに自分が今から正直に話すという意思表示。
「円に悪いと思っている。だが俺はわけあって顔を……眼を見られるわけにはいかないんだ。外ならともかく、ここは平安京。街の主である聖皇に言われたことをそう易々と破るのは筋が通らない」
聖皇から呼ばれてやって来たのだからもっと奔放に振舞っても構わない。しかし混乱の原因になるという聖皇の懸念は尤もであり、その場合迷惑を被るのは聖皇ではなくナツキ本人や或いは平安京の人々だ。自分から面倒ごとに首を突っ込むのも他者をむやみに惑わすのもナツキとて望むところではない。それが赤と青のオッドアイを見られたくない理由の背景。
円は黙ってナツキの言葉を聞いていた。手を握り続けているので本音を話していることは伝わっているはずだ。
「だから、すまない。顔も見せないような不誠実な奴には円も近づかない方がいい」
「……なるほど。わかった。じゃあこうしよう」
円は一度手を離すとくるりと後ろを向き、背中をナツキに突き合わせる。そしてもう一度ナツキの手を取って、今度はただ握るのではなく指を絡ませた。いわゆる恋人繋ぎ。円が腰を落とすのに引っ張られてナツキも円と背中合わせのまま座り込む。地べたではなく、大きな桜の木の根元。それがちょうど椅子のようになっていた。彼女のポニーテールがナツキの首すじに当たりくすぐったい。
「私もナツキの方を見ない。こうすれば対等だ」
「お、おい、聞いていたのか? 顔も見せないような不審者とは一緒にいない方がいいと……」
「だから私も顔を見せない。私が不誠実なら、ナツキの行動も不誠実ということにはならない。だから対等だろう?」
思わずナツキは息を呑んだ。それは以前、ナツキがスピカに対して放った言葉。『自分も偽名なのだからお前が偽名であることを悪く思う必要はない』というのと同じ理屈だ。円がナツキの交友関係はプライベートな過去の発言を知っているわけもないので、完全に円は心の底からそう思って言っている。あまりに似た者同士であるとわかってナツキは胸の内が熱くなるのを感じた。
「そ、そうか。わかった。円がそれでいいなら俺も何も言わない。それで、今日は何の用だ」
「用、か。何も考えていなかったな。ただナツキに会いたかった。会いたくて会いたくてたまらなくて、気が付いたら身体が動いていたよ。臭いと思われたくないから湯浴みしてきたが、結局走ってきてしまったな。すまない。汗臭いだろう?」
「いいや。俺は円の汗を汚いとは思わない。汗は憧れへと至る努力の結晶だからな。……それに、円のような美少女が汗ばむのはむしろ色気があって良いと思うぞ」
「……っ!」
茹でダコのように顔を真っ赤にした円はナツキと握り合っている手につい力が入ってしまった。彼女は今も能力を発動している。だからナツキが嘘をついていないと判断できる。汗を汚いと思わないのも、美少女だと思ってくれているのも、全て世辞ではなくて本音なのだとわかる。好きな男性から美少女と言われて嬉しくないわけがない。
「ちょ、痛い痛い! 剣士の握力は馬鹿にならん!」
「す、すまない!」
痛い、という気持ちが嘘でないことまで伝わってしまう。二人の指が閉じたり開いたりしている。そこにヒラヒラと桜の花弁が舞い降りた。
「大丈夫だ。繰り返しになるが、それだって努力の証だからな。剣を握り続けたからこそ握力が強くなるんだ」
「ナツキ、きみは本当に優しんだな。私の方が年上だということを忘れてしまいそうになる」
「思ったことを言っているだけだ」
「……それがすごいんだ。世の中には嘘つきが多いからな。口では私を応援していると言っていても本当は馬鹿にしているという奴など腐るほどいる。だからこそ私は自分の夢を、目標を、憧れを諦めない」
円はナツキに寄り掛かった。互いの後頭部がこつんと当たる。満天の星空を覆い尽くすほどに咲き誇っている薄桃色の桜を見上げながら円は続けた。
「実は今日、寺子屋に新しく加わった男に私の家の庭で剣の手ほどきをしてもらったんだ。ああ、もちろん変な意味はないぞ。あいつはナツキと違って不気味で厳しくて怖いからな。ナツキの方がずっと魅力的だと私は思っている」
必死に言い訳をする円の声を聞いてナツキは「どちらも俺なんだがな……」と心の中で呟き苦笑いする。背中合わせなのでその表情に円が気が付くことはない。
「そんなに厳しい奴だったのか?」
「ああ! 姿勢の矯正から腕の振りまで何もかもな! ただ、私の剣の根本的な部分を変えてくることはなかった。私とて母の剣を否定されれば言い返すが、身体捌きや体幹のズレは剣術の種類に関係なく正しい指摘だからな。従うしかなかったよ」
「そうか。頑張ってるんだな」
「私は……ナツキの隣にいるのが相応しい立派な人間になりたい。そのためには一流の剣士だった母に、長年の憧れに、手を伸ばす。そして辿り着く。そのときはナツキの顔を見せてほしい」
「……ああ。わかった。楽しみに待っておこう」
「ありがとう。ナツキ、ほら見てみろ。月が綺麗だぞ」
夜桜の花弁の隙間から満月が顔を覗かせている。まるで月にかかっていた叢雲を桜の枝が払いのけているかのようだ。漆黒のキャンバスに薄紅色の絵具が滴り散りばめられたような光景。
ナツキは返事ができず、二人はそのまま黙って星空を見上げ続けた。一時間以上経って恭子が呼びに来るまで、ずっと。