第148話 見ざる、言わざる、聞かざる
日本で能力に覚醒してしまった者には二つの道がある。
人権をいくつも制限され、半ば監視された人生を送るか。或いは、奇跡のようなその異能をお国を守るために用いるか。
単に平安京という街に住むという意味に限れば例外は少なくない。たとえば、能力者の夫婦から生まれた子供。聖皇は親と子を引き離すような真似はしない。彼らの子供は能力者の存在を当たり前だと教育されながら成長し、大きくなったら平安京という巨大な街のシステムを駆動する歯車となる。
街は生き物だ。呼吸をしなければ、新陳代謝をしなければ、腐って朽ち果てていくだろう。街の中には人々の営為があり、営為同士が有機的に結びついている。一人で居ることと一人で存立することとはまったく似て非なるものなのだ。
巨大な人体の中で小さな細胞が酸素のやり取りをするように、街の内外で物資が、情報が、歴史が、絶え間なく連続している。
ふと秀秋は眼鏡を外し天井を見上げた。この寺子屋を建てた大工も、着用しているこの作務衣を織ったのも、今まさに口に含んでいる茶を平安京の外の茶畑から街の中へと運搬したのも、全てそうした「特殊な出自の無能力者」に違いない。
今こうして一人分の席しか存在しない職員室にたった一人で居るとしても彼が他者から切り離されているわけではない。見えない誰かが彼の営為を構成している。
見える誰かは授刀衛の能力者たちだろう。戦果は数値となって定量化され誰の目からも客観的に観られる。他方でその見えない誰かとやらは、多くの場合が戦闘力を持たない「特殊な出自の無能力者」だ。
その表現に倣い高宮円をあえて形容するならば「特殊な出自の能力者」になるだろうか。彼女の母、高宮薫も能力者として剣士としてこの平安京という街で暮らし授刀衛の一員として日ノ本を守るため危険な任務をいくつもこなしてきた。
そんな高宮薫の娘である高宮円はこの平安京で生を受け、街の者たちからも新たな生命を祝福された。
能力は遺伝しない。絶対にそうだと言い切れるほど授刀衛も星詠機関も、或るいはネバードーン財団でさえも能力者の研究は真理に迫れてはいない。しかし、少なくとも遺伝の前例がほとんどないことは共通認識として帰納的な了解を得ている。
秀秋は視線を手元に下ろす。彼が手にしている手書きの紙の資料は随分と年季が入っていた。しわくちゃになり、日焼け跡や消し跡も汚い。ボールペンのインクは元は黒だったのだろうが、時間経過とともに滲み、変色し、紺色になっている。
紙の右端に上下二つの穴を開け、細い麻の紐を通して本にしている。資料の厚さは気が付けば優に五センチメートルを超えていて中途半端な辞典くらいの重みがある。
その重みはまさに秀秋の妄執の積み重ね。薫が亡くなったその日から、およそ十年間におよぶ円の記録。
彼の暴力的なまでに膨れ上がった愛憎入り混じる感情の矛先は、高宮薫の死の瞬間から娘の高宮円へと替わっていた。
円の父親が誰かなど知らないし、秀秋はそんなことさして興味もない。重要なのは円が薫の代替たり得るかどうかのただ一つ。
紐を解き、真新しい紙を一枚追加する。大学ノートほどしかない小さな一枚に今日の模擬戦の内容が事細かに記載されていた。一挙手一投足が様々な分析とともに書き記されているのだ。もはや白い紙であって白い紙ではない。びっしりと米粒よりも小さい文字で埋め尽くされている。注ぎ込まれた狂気的な執念と文字の渦は見た者に白い紙から黒色を連想させる。
何やら教室が騒々しい。きっとまた円が他の生徒と問題を起こしたのだろう。瞼の裏に浮かび上がるようだ。秀秋は恍惚な表情を浮かべながら新しい紙を引っ張り出して書き加えていく。紫色の両眼を淡く光らせながら。
まるでピアノの前に座る作曲家のように。
教室から漏れ聞こえる机の倒れる音、円が抜刀した音、それらが秀秋の全身を震わせ、ペンが紙の上で踊るように走る。音と景色がリンクする。
三等級の彼の能力は、いわば超視覚や超聴覚。遠くにいてもなお目の前の出来事かのように彼の脳には描画される。古来では千里眼とも呼ばれた能力だ。
(ああ、今に、今に、今に円の刃が命を奪うゥ!!)
遠い教室の出来事でも彼には手に取るようにわかった。届く。殺気は本物。母を馬鹿にされたのだから当然だ。円の刃がクラスメイトの首すじに、届──
(かない、だと? ……黄昏暁か)
まさに同時刻、ナツキは円の手首を掴み、発火能力を持つクラスメイトとの衝突を未然に防いでいた。
「ふっ。まあいいでしょう。彼もまた円の成長のために必要なピースです。それくらいの勝手は大目に見ますよ。だって私、教師ですもの」
眼鏡をかけ直した秀秋は、行き場を失った熱情をぶつけるように、自身がまとめた分厚い資料をぱらぱらと捲りはじめた。何度も何度も捲って読み直しているのだろう。ページの左端だけ手垢で異様に茶色くなっている。
ドンッ! 納得のいくページを選んだ秀秋は、まるで上半身だけ腕立て伏せをするかのように両方の掌を机に叩きつけた。そして紙と眼鏡レンズがくっつきそうなほど近づき、首を九十度左右交互に回転させながら舐めるように読んでいく。円の半生が記されたそのページを。
「ふふっ、ふふ。ふふふふふふふへ。能力覚醒のトリガーは死への強烈な意識だと言われていますゥ。だったら、円さんが能力に目覚めた時期と彼女のお母さんの薫さんが亡くなった時期が一緒なのって、つまりィ、つまりィ、その時とーーーっても幼かったロリロリ円ちゃんはママの死を自分の死と同じくらいに意識して、ショックを受けて、そうして能力に覚醒したって流れなワケですよねェ?? 寺子屋での生活で人間関係がぶっ壊れてるのもそのせいなんですよねェ!?!?」
ねっとりとした唾液が口の端から垂れていく。今まさに目を通しているページへと。
そのページの中心を占めるのは彼の千里眼の能力によって写真と見まごうほど詳細に繊細にスケッチされた数年前のまだ少しだけ幼い円の全身像。粘度の高い唾液が模写された円のスケッチの顔面に落下し水たまりができた。ほんの数秒で紙は水分を吸収していく。
ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ、と血走った目になっている秀秋の頭は、しかし一瞬にして冷却され現実に引き戻された。
トントン、と職員室をノックする音が鳴ったのだ。
「どうぞ」
すぐさま分厚い資料を閉じ、隠すように表紙の上に別の本を置く。
ドアの外に向かっていつものように温和な声色で返答をするとガラガラと戸が開けられた。そこにいたのは二名の女子。そのうちの一人は今朝円と模擬戦をした津軽峰子だ。
まさにその峰子が困ったような表情で話し始めた。
「先生、高宮さんのお弁当が床に落ちてしまって。掃除用具を借りたいのですが」
「ええ。もちろん。構いませんよ。この部屋にあるのを持って行ってください」
たった一人分の席しかない殺風景で物寂しい職員室。その後方を指した。スチール製の鼠色をした一般的な掃除ロッカーだ。
峰子たちは雑巾やバケツ、それから箒とモップを一本ずつ手にし、秀秋に一礼してから職員室を後にした。公共の空間を綺麗に保つためにわざわざ足を運ぶのは峰子ら二人の生真面目さ故だろう。その点では円を侮辱した三人組より人間性は大きく勝っている。
峰子たちは職員室から廊下に出て教室に戻るまでに間、他愛もない雑談を交わす。
「ねえねえ峰子、先生って虚宿家の養子に入ってるってことは、二十八宿の後継で、将来は当主になるのも確実なんだよね。私らよりもずっと強くてその上お金持ちなんでしょう? それであんなに優しくて穏やかで眼鏡が似合う知的色白高身長のイケメンってやばくない?」
「うん。超やばい。私、平安京に来てまだ三年くらいだけど、外の街でも先生ほどの色男見たことないもん」
「彼女とかいるのかな」
「そりゃいるんじゃない?」
「そうだよねぇ」
峰子たちは、自分らにしか聞こえていないと思ってプライベートなコイバナを赤裸々に語り合っている。しかし職員室にいる秀秋には全て筒抜けだ。聞こえている。彼の能力によって超人じみた次元に達している聴覚はもれなく峰子たちの会話を鼓膜へと届けている。
十六、七、八ほどの、それなりに容姿の整った女子生徒たちから甘い感情を受けているにも拘わらず。秀秋はそんな峰子たちの会話などひとつも意に介していない。右耳から入ったものが脳の記憶容量に留まることなく左耳から出て行っている。
なぜなら、秀秋の興味はもう既に別へ移っていたからだ。
席を立つと窓の傍まで近づき、腕を組みながら夏の昼下がりの眩しい太陽を見上げた。灼熱の光線に耐え切れず目を閉じる。ただ、顔は笑っている。
彼の千里眼、超常の視力は、円の自宅へと入っていく円とナツキの二人を捉えていた。
蝉の声が、爆弾のように五月蠅い。