第142話 正直者には愛の報いを
本日は朝に一話投稿しておりますので、未読の方はそちらを先に読んでいただけると幸いです。
「なっ……おい、ここは男湯だぞ!」
ナツキは水飛沫を上げながら勢いよく後ろを向いた。円の裸体をまったく見たくないと言ったら嘘になる。だがそれを直視することで相手を傷つける方がもっと嫌だ。そして自宅にて待ってくれている恋人の夕華を裏切っているようで嫌だ。
「お、男!?」
円はタオルで身体の全面を隠しながら咄嗟に温泉へ視線を向ける。ナツキの背中は間違いなく男性のものだ。剣の鍛錬を積んでいる円は肩や腕の筋肉のつき方から一目でそれを見抜いた。
警戒を解かないままナツキの背中に声をかける。
「……今は女湯の時間だぞ」
「は?」
温泉、特に露天風呂の男女分けは少々特殊だ。銭湯のように常に男湯と女湯が別の部屋になっているわけではない。全国的に温泉地や旅館は、仮に男湯と女湯があっても一日ごとに暖簾を入れ替えるし、そうでなくとも基本的には男湯と女湯と分類せず『男性用の時間』『女性用の時間』と時間で分けて一部屋の浴場を使い回す。
その理由は非常にシンプル。景観の違いで差を作らないようにするためだ。男湯と女湯で分けてしまうと、一方からは見えて他方からは見えない景色が生じてしまう。観光地としては最大限のサービスを提供できないのは損だから、あの手この手でできるだけ多くの人にせっかくの素晴らしい景色を楽しんでもらおうとする。
恭子の旅館の場合、名物の露天風呂は一か所しかないので時間ごとに区切っているのだ。まさか男しか入れない日と女しか入れない日、と分けるわけにもいくまい。
何度もここを訪れていた円にとっては当たり前のことで、知らずに女湯の時間帯に入ってしまったのはナツキの方というわけだ。尤も、本来はナツキと英雄の貸し切りということになっているので、いくら家族のような存在とはいえ円を旅館に上げてしまった恭子らにも責任の一端はあるのだが。
とはいえナツキは最大限に気遣いながらこの場の対処を試みる。
「まず身元の保証をさせてくれ。俺は不審者じゃない。今日は貸し切りだと聞いていたんだ。それは後で桔梗たちに聞いてもらえればわかる。その上で、だ。俺とて故意に犯罪まがいのことをしたかったわけではない。すぐに出るから、一旦脱衣所に戻って服を着てもらってだな……」
(子供か……?)
不審な物を持っていないことを示すため、後ろを向いたまま両手を万歳したナツキの提案を聞きながら、円は相手が体型や声からして自分よりずっと年下であろうこと、そして貸し切りということは彼が唯一の客であり桔梗から聞いた親切な男性であろうことを推測した。
「桔梗はさっき怪我をしたが、通りすがりの能力者に治してもらったらしい。その部位はどこかわかるか?」
「足首だろう? 俺の目の前での出来事だったから見間違いじゃないはずだ。それがどうした?」
「いや、なに。きみが信頼に足る人物だとわかっただけだ。どうやら貸し切った旅館に押しかけてしまったのは私の方のようだからな。きみはそのまま温泉につかっていてくれ。良い湯だろう? 私も大好きなんだ」
背後からシャワーの音や桶に張った湯で身体をかけ流す音を聞きながら、ナツキは両手を降ろしてばつが悪そうに顎まで湯に身体を沈めた。それからしばらくして、全身を清め終えた円が入浴する。
互いに背中合わせだ。円はいつもポニーテールにしている黒髪を後頭部でお団子にして赤い簪を刺して止めている。
「きみ、年齢は?」
「じゅ、十四だ」
「やっぱり。まだ子供じゃないか」
いきなり背中越しに声をかけられたナツキはビクッと驚きながらもしどろもどろに答える。
異性と一緒に風呂に入る経験など、未だ夕華とすら経験していない。実際は幼稚園児だったナツキを中学生だった夕華が風呂に入れてやったことがるのだが、十年も前のことなど覚えているはずもなかった。
「私の名前は高宮円。十七歳だ。きみは?」
「たそが……」
黄昏暁。いつものように自然とその名を名乗ろうとしたところで、急ブレーキをかけた。
やはり彼女はさっき寺子屋の外で見かけた円に違いない。凛とした声で薄々気が付いていたが名前を聞いて確信した。ただ、『どうして助けた!』と怒鳴ってきたときとはくらべものにならないほど穏やかに、優し気な声色だ。
弟でもおかしくないほど年齢が離れているから、というのもあるし、円としては妹のような存在である桔梗を助け親切にしてくれた、今時珍しい紳士的な少年と思って接しているからというのもあるだろう。
しかし。となると一つ面倒なことがある。秀秋からは寺子屋に生徒として潜入するよう言われた。それが聖皇からの指令だと。それはいい。だが、円もまた寺子屋において秀秋の受け持つ生徒だ。つまり明日からナツキは円とクラスメイトになる。そんな相手に今この場で『黄昏暁』と名乗ってしまったら、明日以降の活動に大きく支障をきたすだろう。
「俺の名前は田中ナツキ。平安京に……いや、京都に来たのは今日が初めてだ」
「そうか。授刀衛に入るんだな。だったら私の後輩だ」
円はにこりと笑いながら、ちらりとナツキの方を振り向いた。そのせいで、温泉の白い湯で互いにすべすべになった肩と肩が触れ合う。二人とも異性と肌を合わせたことなどないので突然の接触に緊張し瞠若した。
「ナツキは……、その、とても素晴らしい能力を持っていると桔梗から聞いた。どうして授刀衛に?」
照れくささを遠ざけるように会話の流れを強引に変えた円の問いかけにナツキは再び困ってしまう。能力について正直に暴露するわけにもいかないし、授刀衛に入る気はさらさらないし、ここで何を答えても嘘になってしまう。
訂正はしない。その円への不誠実を心の中で謝った。だからこそ嘘偽りのない、純度の高い言葉を選りすぐって紡ぐ。
「……一つには憧れたからだ。能力を使って戦う強くてかっこいい自分。そんな理想の自分になりたかった。そしてもう一つ。大好きな人たちを守りたい。平安京に訪れる前から変わらない二つの軸が俺をここまで成長させてくれたんだ」
「そうか……」
円は空を見上げた。満天の星空だ。煌々ときらめく星々に亡き母の姿を重ねながら円はぽつぽつと話し始める。
「ナツキ、きみの志は私によく似ている。私も母のような立派な剣士になりたくて、その憧れを今でも追い続けているんだ。……到底追いつけそうにないがな」
「だから能力を使わないのか?」
「どうしてそれを……」
「年下の俺がこんなことを言うのは生意気に聞こえるかもしれないが、少しだけ耳を傾けてくれ」
ナツキはそう一言断ってから、目を瞑り、能力を得ようともがいた日々や中二病であることをやめようとした経験を思い出しながら語り出す。
「円、自分のこだわりを捨てるな。お前の周りには勝つためなら能力でも他の剣術でもなんでも使えとアドバイスする人がいるだろう。もちろんアドバイスを全て無視しろとは言わん。だがな、譲れないものは絶対に守り抜け。折れちゃダメだ。その線引きは狂わせちゃいけない。幼い日の自分が何に憧れて、今の自分がどうしてこの場所に立っているのか。常に自問自答を続けるんだ。結果が出ない時期は苦しいだろう。でもその答えを見失わなかったらきっといつか道は開ける。俺が保証する」
「……」
円はしばらく黙りこくって考え事をするように俯いた。湯から右の掌だけを出す。そこには夥しい数の血豆があった。剣を握った者だけに浮き出る名誉の負傷、努力の勲章だ。
白いもち肌も、艶のある黒髪ポニーテールも、スタイルの良い身体も、同年代の女子より大きい胸も。円は誰より美しく女の子らしさが満ち満ちている。ただ一点、掌だけは傷だらけ。
今も湯に染みてズキズキと痛い。今日は、いいや今日も男子にこっぴどく敗北し屈辱にまみれ、自宅で悔しさを噛みしめながら強く固く拳を握った。血豆が潰れるほど握った。
しかしナツキの言葉を聞いた今の円はその痛みが心地よかった。熱くなりすぎて視野狭窄になっていた頭が痛覚によってクリアになり、幼い頃に抱いた母への憧憬がありのまま胸いっぱいに広がっていく。
いずれは母のように日本を脅かす数多の能力者を斬り伏せられるような女剣士にならねばならない。そんな遠くにある目標までの道程で、ただの同年代の男子に負けるという躓きはあまりに痛手。
だからってただ悔し涙を流すだけではいつまでたっても目的地は近づかない。一歩一歩、ゆっくりと、それでも確かな歩み。どれだけ道に迷っても、胸の中のこの憧れの灯がある限り行先を見失うことはない。
円は血豆まみれの掌をそっと自身の大きな胸に添える。心の音と温度を痛みと一緒に受け取った。
「……ありがとう。ナツキ、本当にありがとう。きみの言葉はしっかりと私に届いたよ」
「だったらよかった」
「どうかナツキの顔を見せてはくれないか? きちんと目を見て礼が言いたい」
「いや、俺たち裸だぞ!?」
「私は構わない。ナツキは心の恩人だからな。それに、私のような剣しか知らない女などきみにとっては魅力不足だろう」
「そんなことはない。……自信を持て。剣でもなんでも、大事なのは自分を信じ切る強い心だ」
「そう、心だ。どうしてかな。私はナツキとこうして話していると胸が熱くなるんだ。自分の心と同じくらいにナツキの心を知りたいと思ってしまっている」
湯にさざ波がたった。円が体ごとナツキの方を向いたのだ。背中合わせの状態から、円がナツキの背中を見つめる状態に。
ナツキの肩の上から円の手がぬっと伸び、ナツキの胸板に触れた。後ろから抱き着くような姿勢だ。息が耳たぶを揺らすほどの近さで囁かれる。
「これがナツキの心なんだな……。私と同じだ。とても熱い。ナツキみたいに……自分の夢に、目標に、憧れに、あの日抱いた理想の姿に、私もたどり着けるだろうか……」
ナツキは自分の胸板のあたりに出された円の手を取り、掌を眺め、さすった。まさか触り返されると思っていなかった円は、さきほどまでの凛とした様子から想像できないほど小さく可愛らしい悲鳴を上げる。
「ひゃっ……。す、すまない。ごつごつとした汚い手で、ナツキを不快な気持ちに……」
「綺麗だ」
──不快な気持ちにしてしまった。そう言おうとした円の自虐をナツキはぴしゃりと遮った。
ナツキも長年、自宅の庭でアニメのキャラに憧れて木刀を振り回してきた。茶色い木刀の柄が潰れた血豆で赤黒くなるほど振ってきた。だから円の努力を文字通り痛いほど理解できる。
(俺と同じだ。理想を諦めることなく剣を振るう)
どんな宝石よりも、ナツキには円の掌の血豆が美しく思えたのだ。
「剣士の血豆は努力の証だ。俺はそんな円の手を何よりも綺麗だと思うし、尊敬する」
カーッと顔を赤くした円は決心したようにナツキの背中に身体を押し付け後ろから抱き締めた。
咄嗟に、裸体を見てしまわないようにナツキはギュッと目を瞑る。そこまで考えていたわけではなかったが、おかげで偶然にも円がナツキの赤と青のオッドアイを見ることはなかった。
「何度でも言おう。ありがとう、ナツキ。きみの言葉がすごく嬉しいよ」
背中に押し付けられた胸が形を変えて押しつぶされる。ナツキは懸命に目を閉じて見ないようにしているが、先端にあるこりこりとした二つの感触が否応なく背中をくすぐる。
「お、おい! もうよしてくれ! たしかに色々と言ったが、俺が円を騙して誑かそうとしているかもしれないだろう! 女性がそう簡単に肌を晒すべきじゃない!」
「ナツキは誠実な人なんだな。私より若いのに立派だ。わかった。今日のところは私はもう上がろう」
円の胸が、腕が、ナツキから離れていく。石床に水滴のしたたる音が聞こえた。温泉から出たようだ。
ナツキは依然として円の裸体を見ないように背中を向けたまま尋ねる。
「どうしてそこまで俺に……」
「平安京に訪れたということはナツキも能力者だ。だったら話していいだろう。……私の能力は六等級。とても微弱で、リスクや条件の割に役に立たないちっぽけな能力だ」
能力は最上の一等級から六等級まであり、瞳の色は赤、青、紫、黄、緑、橙となっている。似た能力でも等級が違えば発動の規模や速度、強度が異なる。
「私の能力は、『肌で触れた相手が嘘をついているかどうか判別できる能力』なんだ。ありがとうナツキ。きみの嘘偽りない言葉はたしかに私の胸に届いたよ」
主人公の血豆云々の話は第三話にて描写したものです。