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第141話 白い湯と黒い空

「あ、英雄」



 厨房から部屋に戻ってきたナツキが扉を開けると英雄が畳の上でうつ伏せにごろんと寝転がっていた。いつもの女性ものの袴ではなく水色のラインの入った白い浴衣だ。ボブの茶髪は湿り気を帯びていて、たまごのように白い肌は紅潮しポカポカと身体から湯気が出ている。

 声に反応した英雄が頭だけを上げた。ツヤツヤした顔はナツキと目が合うとパァっと明るくなる。



「黄昏くん! おかえりなさい」


「た、ただいま……?」



 旅館に宿泊する際も『おかえり』や『ただいま』を言うものなのか。そんなつまらない思案も一瞬にして消え去った。うつ伏せの状態から手をついて上体だけを起こしているので浴衣の胸元がはだけ、デコルテがちらちらと見え隠れしているのだ。

 赤面したナツキを見て英雄が不思議がっている。よもやその原因が自分にあるとは思うまい。



「えっと……黄昏くん、大丈夫?」


「あ、ああ。まったく問題ないぞ。まったくな。英雄は風呂にでも行っていたのか?」


「うん。ここの旅館は大きな露天風呂があってね、とっても気持ちが良いんだよ。一緒に入りたかったから待ってたんだけど、できれば一番きれいなボクで黄昏くんを出迎えてあげたくって」


「なっ……。いや、そうだな、うん。清潔で良いと思うぞ」



 少女のような外見をした英雄に満面の笑みで言われると『綺麗』という語の意味がわからなくなる。ナツキは一度咳払いをして頭を冷やした。



「コホン……じゃあ俺もその露天風呂とやらを体験してくるか」



 部屋に備え付けられた浴衣、それから自宅から持って来たタオルやシャンプー等を持ち、再び踵を返して廊下に出た。これ以上今の英雄を見ているのは目に毒だ。そんな贅沢な悩みを溜息とともに吐き出し、食事はともかく寝床も同じ部屋なのだということを思い出して気が滅入るのだった。



〇△〇△〇



「あ、(まどか)お姉ちゃんいらっしゃいなのです!」


「ああ。今日も桔梗は元気いっぱいだな」


「はいなのです!」


 

 円は桔梗のおかっぱ頭を撫でてやった。お姉ちゃんと呼ばれてはいるが実の姉妹ではない。家が旅館に近く、さらに今は亡き円の母親が恭子と仲が良かったために家族ぐるみでの付き合いがあったのだ。今でもこうして旅館名物の露天風呂を借りに足を運んでいる。



「この時間は恭子さんは厨房に?」


「新鮮な夏野菜がたくさん届いてママも張り切っているのです! 円お姉ちゃん、さっき桔梗がお野菜を運んでたらお客様とぶつかっちゃって、転んで足をけがしちゃって、そしたらそのお兄ちゃんが一瞬で治しちゃったのです!」


「治癒の能力なんてすごいな。私のような六等級の能力では到底及ばないよ」



 円は自身の橙の瞳を細めて自嘲気味に笑う。しかし桔梗は頬をぷっくりと膨らませてそんな円に言い返した。



「そんなことないのです! 円お姉ちゃんはとっても強くて桔梗の憧れなのです!」


「そうかそうか。ありがとうな」


「えへへ、やっぱり円お姉ちゃんに撫でられるのは気持ちが良いのです。今話したお兄ちゃんも桔梗の頭を優しく撫でてくれました! それにお野菜を運ぶのも手伝ってくれたのです。ママと円お姉ちゃんの次くらいには好きなのです!」


「初対面の子供にそこまで親切にできるなんて立派な志の人だったんだな。今度その殿方に会ったら私の方からも礼を言っておこう」



 ひとしきり喋ったところで桔梗は円を温泉へと案内した。円とて何百、何千回と訪れているので当然旅館の構造くらい把握しているのだが、桔梗が若女将らしく振舞おうとする姿が愛おしくて一歩後ろをついて行っている。


 そうして廊下を進んでいるときだった。ちょうど厨房の前を通ると、足音で気が付いたのか中から恭子が顔を覗かせた。


「いらっしゃい円ちゃん。桔梗、ちょっとニンジンの皮むきを手伝ってほしいんだけど……」



 桔梗は母であり女将でもある恭子からのお願いと、若女将として円を案内するのだという使命との間で葛藤していた。困った顔で恭子と円の顔を交互に見上げている。円が気遣って桔梗の背中を押した。



「私なら大丈夫だ。桔梗、母との時間は何よりも大切にした方がいい。いつ離れ離れになるかわからないからな」


「ママ、どこか行っちゃうのですか?」


「円ちゃん……」



 人の死をあまり理解できていない桔梗。それに対して恭子は、円を慮るように見つめた。彼女の母親をよく知る恭子にとって円は妹のようであり、娘のようであり。それを伝えたところで一時の慰めにしかならないことをわかっているから、恭子もかける言葉が見つからない。


 きょとんとしている桔梗の頭をくしゃくしゃ撫でながら円は『それじゃあ温泉いただきますね』とだけ恭子に言い残して廊下をすたすたと進んで行ってしまった。恭子はそんな円の寂しそうな背中をただ見ていることしかできなかった。



〇△〇△〇



「本当だ。かなり広いな」



 ナツキが浴場の扉を開けた瞬間、白い湯煙と熱風が全身を包んだ。黒い石床のザラザラした感触が足裏でくすぐったい。隅にはシャワーや鏡、桶などがある。

 そしてなんといってもメインはやはり露天の温泉だ。浴場の中心にある露天風呂は乳白色をした湯で、ただの水道水ではなく硫黄化合物が含有されている温泉水であることが一目でわかる。

 他に客がいないためか余計に広く感じた。貸し切りだから当たり前なのだが。ナツキは手早く頭と体を洗い、全身の汚れをしっかり落として温泉へと足先からそっと入っていった。



「ああああ染みる……」



 肩まで沈んだナツキは腹の底から声が出てしまった。まるでマッサージを受けている気分だ。温泉の湯が全身の隅々まで行き届き疲労や痛みを奪い去ってくれる。

 温泉の周囲を囲む縁石に頭を乗せて見上げるとそこは満天の星空。澄んだ空気と電気をあまり使わない京都の街並みが、星座まではっきり確認できるほど美しい景色を作り上げているのだ。白い乳湯と黒い夜空に挟まれて心身が浄化されていく。


 ガラガラ



「ん?」



 浴場の扉の開く音が聞こえた。今日は自分と英雄の貸し切りのはず。しかし英雄はさっき入ったばかりだ。じゃあ恭子か桔梗? いいや、客が入っている時間に清掃をするとは思えない。ここは男湯なので風呂に入る目的でもないだろう。では誰が何の目的で?


 白い湯煙にシルエットだけが写る。白く細い布のリボンでポニーテールに結われたロングヘア―に、スイカやメロンのような夏の果実を連想させる豊かな胸。くびれた腰のラインや張りのある尻。

 そのシルエットがナツキに声をかける。



「誰か入っているのか?」



 その声でナツキは確信し、困惑し、絶望した。

 円だ。温泉に入って来たのは、一糸まとわぬ円だった。

投稿が滞り申し訳ありません。本日は夕方頃にもう一話投稿させていただきたいと考えております。

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