第139話 森の羊羹
燃え盛る炎のような夕陽が窓から差し込む。古めかしい木造の校舎は、ナツキが通う中学校の旧校舎を連想させた。いいや、それよりもはるかに歴史は長いのだろう。それなのにカビ臭さがないのは管理している者の腕が良いからに違いない。
教室で机を突き合わているナツキと秀秋。他に誰もいないので、狐面は外している。
英雄は先に泊まることになっている旅館に向かい、いつもと違ってナツキという追加人がいる旨を伝えに行った。一応聖皇を通じて連絡は入っているだろうが、まさに先ほどの秀秋のように何か手違いや行き違いで齟齬が生じているかもしれないために、念には念を。それが英雄の主張だった。
秀秋が淹れた緑茶を啜りながら茶菓子の羊羹を口にする。艶やかなあずき色の見た目通りにしっとりとした上品な甘みが広がっていった。
「少し恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
夕陽に目を細めながら秀秋は窓の外を、さきほど円と竜輝が争っていた場所を見つめている。
ナツキは『恥ずかしいところ』という曖昧な言葉が何を指すのか測りかねていた。それは同時に虚宿秀秋という人間をまだ掴み切れていないことと同義だ。
聖皇から直々に招聘され派遣されたナツキの立ち位置は平安京において非常に高い。そんなナツキに寺子屋の未熟な部分を見られてしまったことを卑下してそう言っているのだろうか。
或いは、純粋に教育者として生徒である円をあんな目に遭わせてしまったことを、竜輝やその取り巻きたちを正すことができていないことを申し訳なく思っているのか。
秀秋はナツキに視線を戻し、口を湿らせるために茶を軽く含んでから話し始めた。
「日本国内において能力に覚醒した人は、授刀衛から能力者の世界や勢力について説明を受けた後に二つの選択肢が与えられます。一つはこれまで通りの生活を続けること。普通に学校に通ったり、仕事をしたり。ただし、申し訳ないですがそういう方々にはいくつもの制限が課せられます。国外に出てはならないとか、亡くなった際に遺体を遺族に引き渡せないとか、資産の流れを細かくチェックされるとかね」
(美咲がどうしても星詠機関に入りたがっていたのはこの縛りのせいだもんな)
「私が授刀衛の人間だから言うわけではありませんが、聖皇陛下はこの国の民を想うが故にここまで厳しくされているんです」
「なんとなく想像はつく。能力者は高位であればそこらの軍隊より強いし、低位であっても武器を持たせるよりずっと警戒されにくいからテロなんかにも利用されかねん。血みどろの世界では引く手あまただからな」
「ええ。その通りです。そうした魔の手から守るためにも制限は存在するんです。そしてもう一つの選択肢が、我々授刀衛側につくこと。つまり平安京に移住し、聖皇陛下のもとお国のために励むのです」
「円や竜輝も、そしてお前もか」
「はい。もちろんその二つの選択は本人に委ねられています。ですから大抵の場合は皆が一つの志で高めあうのですが……」
ナツキは羊羹を割りながらチビチビと食べ進めている。それもあと一切れになっていた。最後のひとかけらを口に放り込む。
「もぐもぐ……ごくん。……頭の回る奴はこう考える。『制限を受けて今まで通り暮らすより、完全に支配下に入ってしまって合法的に能力を振りかざせる方がいい』とな」
「いやはや、何もかもお見通しなのですね」
羊羹を一気に食べたせいで喉を詰まらせかけたナツキは冷めた緑茶の残りを呷る。秀秋は空になったナツキの湯呑に急須で追加の緑茶を注いだ。今度は湯気が立ち上っている。
「別に竜輝くんも悪い子じゃないんですけどね。向上心も愛国心も人並以上にあります。ただ少し粗暴というか能力に酔っているというか……。それでも私は確信しています。我ら寺子屋に在籍する十五歳から十八歳までの三十名のうち、悪い子は一人もいません」
それにしては円に対して服まで破くのはやりすぎではないか、と顔を顰めた。ナツキは女性を辱めるような行為を何より嫌う。別に、道義や社会通念という次元の話ではない。
ふと置き換えてしまうのだ。もしその女性が自分の好きな人だったら。夕華だったら、と。
きっとこの見知らぬ女性も他のどこかの誰かにとって恋の相手に違いない。そう思うと途端にやり場のない不快感が湧き出てきてしまう。
能力が覚醒する前。いいや、中二病になるよりも前。格闘技や武術を吸収していた時期に実戦練習がてら人助けじみた喧嘩をよく吹っ掛けていた。カツアゲしている不良のときもあれば、路地裏に女性を連れ込もうとしている輩とか、嫌がっているのにずっと付きまとってくるナンパ師とか。
今回、円と竜輝の戦いに割って入ったのもそれと同じような理由だ。互いに事情も誇りもあるだろうから、最初から介入することはしなかった。それどころか円がもし半裸になってもなお獣のように竜輝へ食らいつこうとしていたら、ナツキは最後まで傍観を決め込んだだろう。
そんなナツキの表情から意図を察した秀秋は困ったように笑いながら続けて言った。
「おっしゃりたいことはわかります。しかし竜輝くんもウンザリしていたんでしょうね。あまりにしつこく円さんが挑んでくるものですから。私が確認している限り、ここ一年と半年間ずっとあの調子なんです。だから竜輝くんも円さんの心を徹底的に折るためにああいうことをしたんでしょう。あ、心配しないでください。竜輝くんは後でそれはもうひどく叱っておきますから」
ナツキは机に頬杖をつき窓の外を眺める。そして目を瞑り、さきほどの円と竜輝の戦いを思い出していた。
「一年半もねぇ……。竜輝という奴は寺子屋じゃかなり強いんだろう。あの能力は対人でこそ刺さる。だが円って女の方は……」
「言葉を選ばずに言えば、最弱。能力無しで剣術勝負をすれば一番なんですけどね。能力はさほど強くありませんし、そもそも円さんは能力を使いたがらないんです」
「それはまたなんでだ。剣士としての矜持か?」
秀秋はまた一口茶を飲んでから続ける。教室の時計の秒針のカチ、カチ、カチ、という音だけがうるさい。
「さきほど説明した通り、授刀衛は能力に覚醒した普通の日本国民が自分の意思で所属します。そしてこの平安京で暮らします。でも、一つだけ例外があるんです」
「……平安京の中で生まれた子供、か」
「ご明察の通りです。平安京とて街である以上は物流や交通のようなインフラが必要です。料理をする人も、建物を直す人も、服を織る人も必要です。平安京で生まれた子供たちはそういう能力に関係のない仕事に従事します。だって、能力者が産んだ子供というだけでその子供本人が能力者なわけではありませんから。能力者への理解はありますけどね」
「でも能力に目覚めるケースもある。それが円か」
「はい。そして円さんの母親は二十八宿入りに最も近いと言われた能力者でした。いいえ、剣士と言った方が正確でしょうね。彼女の母親は、能力を一切使わずに剣技だけで授刀衛最強とまで謳われた人でしたから」
「でした、ということは……」
「随分前に外の任務で。外国から日本に進入してきた能力者と戦闘し、相討ちの末に亡くなったと聞いています。それからです。円さんが頑なに能力を使わなくなり、剣の腕だけで二十八宿に入ると誓ったのは。亡くなった母親の代わりに夢を叶えようとしたんでしょうね。寺子屋に入学した一年半前の時点でもうあの調子でした」
(なるほどな。これはまた……)
厄介な箱庭に放り込まれたものだ。
ナツキはまだ温かい茶を一口で飲み干した。秀秋が三杯目を注いでやろうとするが急須からは数滴のしずくが垂れるのみだ。秀秋は一言断って急須を手に持ち席を立った。
おそらく給湯室に行くのだろう。教室を出る背中を見送り、ナツキは一つ大きく溜息をつく。
「はぁ」
〇△〇△〇
「はぁッ!」
円は自宅の庭で刀を振るう。夕陽を睨むように険しい表情だ。抜刀し、真横に振るい、振り返りざまに袈裟切りをし、刺突をし、足捌きのみで反転しながら斬り上げる。
ポニーテールが揺れる。身体に染みついた型だ。それを暗くなるまでずっと続ける。
前髪と額が汗でくっついて気持ち悪い。今日はここまでにしよう。納刀した円は手ぬぐいで汗を拭き、風呂に行く支度を始めた。