第131話 知識とイメージは似て非なるもの
「それじゃあ行ってくるわね」
見送りに玄関に出てきたナツキは寝起きなのでパジャマ姿だ。それに対して夕華はいつものようにレディーススーツを身に纏い、お堅い印象を受ける。
「教師は夏休みも忙しんだな」
「今日だけよ。テニス部の顧問の先生が出張でいらっしゃらないから、代わりに来てくれないかって。部長の生徒さんに練習メニューは渡してあるそうだから技術的な指導じゃなくて現場責任者としての仕事ね」
「そうか。ククッ、それじゃあ気を付けて。空川先生」
「ちょっと待って。その、せっかくなら……」
「なんだ?」
「ナツキにとっての先生っていう肩書じゃなくて、ええと、その……あくまで恋人として見送ってほしいというか……」
普段からクールな人がデレるとここまで凄まじいのか、とナツキはその破壊力に恐れおののく。お互いに初めての恋愛なので何もかも手探りだ。
「わ、わかった。そうだな。ああ。夕華さんの言う通りだ。じゃあ、その、なんだ……。いってきますのチューのようなものをだな……」
「そ、そ、そういうことよ……」
二人して玄関でもじもじしている。だが内心考えていることはしっかりと同じだ。
ナツキが目を閉じてじっとしていると、唇に柔らかくほんのりと甘いとろけるような感触があった。ほんの一秒程度だったように思う。
目を開けば互いに顔を真っ赤にしていることがわかる。
「そ、それじゃあいってきます」
「ああ。いってらっしゃい……」
未だ甘美で心地よい触感を忘れられぬままナツキはリビングに戻った。顔がじんじんと燃えるように熱い。今まで片想いの感情を抱いていた相手と当たり前のように朝からキスをしている状況が恐ろしいほどに幸福だ。
「ククッ、これもきっと夏の暑さのせいだな……」
熱くなった顔を冷やそうとエアコンのリモコンを手に取ったときだった。いやちょっと待てよ、せっかくなら、と。
「玉屑の風花よ、気高き猩々緋の像を示せ」
詠唱しながらリビングのど真ん中に掌を向けると、ドンッ! と突如として床から巨大な氷塊が現れた。ただし普通の半透明で水色っぽい氷ではなく、まるで血を固めたかのような赤透明な氷だ。
天井に刺さるスレスレのところ。氷塊は氷山のような形というよりも、さながらファンタジーに出てくるようなクリスタルを思わせる。栗やウニのように先は尖り、棘だらけの花のようにも見えた。
「ククッ、冷たいな。今にも心まで冱てそうだ」
巨大な赤い氷に手を当てるとひんやりと気持ちいい。エアコンいらず、電気代の節約だ。
『でもそのためにリビングをぶっこわしちゃうんじゃ意味ないけどね』
「俺、俺のくせにうるさいんだな」
『まあまあ。一人くらいはそういう細かい奴が身近にいた方がいいでしょう? 細かいついでに言わせてもらうとさ、なんだよ玉屑の風花って。どっちも雪を指す言葉だから「雪の雪」って意味になってるよ。サハラ砂漠かよ。それに雪じゃなくて氷だし。ていうかどうして赤色? いくら想像の手助けになる言葉やイメージを利用した方が僕たちの「夢を現に変える能力」は使いやすいからってめちゃくちゃすぎる』
「……そんな毒舌キャラだったか?」
ナツキは少し鬱陶しそうに視界の右端でぷかぷか浮いている半透明の小さな自分を睨んだ。幼少期に分かたれた人格とはいえ一応は自分なので、ナツキとしても強くは言い返せない。
『それでもこれは進歩だね。あれから訓練を続けて来た甲斐があったってもんだよ。今まで僕は中二な知識だけを具現化するのに留まってたけど、最近じゃあこうやって中二なイメージの具現化までできるようになったんだから。特定の知識と自由なイメージとじゃあ再現の難易度は全然違う。その分だけ僕の存在濃度が薄まった気がするけど、良い傾向だよ。人格の統合が進んだ証拠だからね』
「ククッ、イメージや妄想は得意分野だからな。それに、だ。言葉によるイメージ形成、すなわち詠唱、そんなもの今まで腐るほどノートに書き殴ってきた」
『いやだから、玉屑の風花も意味わかんないし赤色なのも謎だし、ぶっちゃけダサいよ』
「なっ……俺にはこのカッコよさがわからないのか!?」
『わからないね。さっぱりさ。同じ氷なら普通の色でいいじゃないか』
「ククッ、何もわかってないな。中二病は人と違うことを好むんだよ。小さいときに塗り絵で変な色を使ったことはなかったか? それが中二の第一歩だ。氷は赤く、炎は青く、雷は紫に」
『あーうん。はいはい。そうだね。僕がイメージしやすいならもうそれでいいよ。夢を現に変える能力の肝になるのは「夢」の部分だから。存分に夢想し空想し妄想してくれよ』
ぶっきらぼうに言い捨てて幼いナツキの姿は見えなくなった。今はこうして独立した人格としてナツキにだけ見える形で時折姿を現している。まるで守護霊だ。
だがナツキの赤い右眼に宿る能力が現在のナツキの身体に馴染めば馴染むほど、その存在は希釈される。そのうち完全に溶け合って幼いナツキの幻影を見ることはなくなるであろうことは、どちらのナツキも直感的に理解していた。
「現を夢に変える能力」
ナツキは青い左眼に淡い光を宿し、リビングを占拠する赤い氷塊という現実を自身の夢想の世界に格納した。氷が消えたはいいが床のフローリングがびしゃびしゃに濡れている。
「さて、どうしたものかな……」
このままにしていては帰宅した夕華に怒られるのは目に見えている。最近は距離感がお互いよくわかっていないので一度怒られるようなことをしてみるのもアリかもしれないなどと思いつつ、いやいやだからといってわざわざ怒らせるのは自分に真剣だからこそ怒ってくれている相手に対して失礼だろう、とかぶりを振った。
「ククッ、気は進まないが仕方ないか。マクスウェルの悪魔。エントロピーを減少させる」
赤い右眼が淡く光る。具現化するのは、かつて敵として殺し合ったクリムゾンが用いたのと同じ現象。
水は沸騰する温度でなくても自然と蒸発する。洗濯物は室内でも乾くし、コップの水は放置しておくと量が減る。水温はあくまで水分子全体のエネルギーの平均であって、エントロピーを減少させ熱エネルギーに意図的な秩序と偏りを与えれば低温の状態からでも水分の気化は可能だ。
手をかざすと床の水分は綺麗さっぱりなくなった。水分子そのものが消えたのではなくて気化しただけなので、きっと測定すればリビングの湿度は少しだけ上がっていることだろう。
かくしてひとまず部屋の後片付けを終えたとき、ピンポンとインターホンが鳴った。
(夕華さんが忘れ物を取りに来たのか?)
ガチャリとドアを開けると、そこにいたのは女性ものの色鮮やかな袴をまとった少女……ではなく少年。
華奢な体格に色素の薄い肌や髪。ボブヘアの茶髪を今日は後ろで結んでショートポニーテールにしている。
「英雄! 遊びに来たのか? 連絡をくれればこちらから行ったのに」
「ううん、こっちこそ突然押しかけちゃってごめんね。ボクもいきなりのことで黄昏くんに迷惑になるからって言ったんだけど断り切れなくって……」
「迷惑? 断る? 何かあったのか?」
「ボクの一応上司にあたる人になるのかな……実はね、聖皇陛下が黄昏くんにどうしても会いたいって言ってて」
そう言って英雄がナツキに見せたのは京都行と書かれた二枚の新幹線チケットだった。