第127話 アンファミリア・ファミリー
じゃり、じゃり、じゃり。小石の絨毯を歩く。八月の太陽は一年で最も暴力的だ。衣服に汗が染みて気持ち悪い。蜃気楼で景色がゆらゆらと揺れている。雑木林からはアブラゼミの鳴き声がうるさかった。
特にこの少年、田中ナツキは中二病なので夏でも黒一色の服装、加えてマフラーをしている。暑いに決まっている。そしてナツキの隣には、彼の担任教師にして恋人の空川夕華が一緒に歩いていた。二人の手にはそれぞれ手桶と柄杓、さらには線香や蝋燭、ライターの入ったコンビニ袋がある。
『田中家之墓』と彫られた石の前で立ち止まる。二人は柄杓で墓石に水をかけ、雑巾で拭いた。一通り汚れを落とすと蝋燭と線香に火をつける。
墓石の前でしゃがみ手を合わせた。静かに目を瞑る。
蝉の声が段々遠ざかっていった。これは生ける者が死者と対話する儀式だ。心を落ち着けて先祖たちと向き合わなければならない。
三十秒ほど経ちナツキが顔を上げるとちょうど夕華も終えたところだった。お互いに慣れたものだ。何せナツキの両親はナツキがまだ物心もつかないほど幼いときに亡くなっている。それから十年以上、毎年こうして墓参りに来ているのだから。
じりじりと短くなっていく線香から煙の良い香りがする。隣で夕華が言った。
「さあ。帰りましょうか」
「ああ。そうだな」
同じ道を再び歩く。今度は墓に背を向けて。
八月といえば盆。日本人が亡くなった人のために想いを捧げ、迎える期間だ。ナツキにとって八月は夏休みというよりも顔すら知らない両親と心を通わせる機会という印象が強いのだった。
〇△〇△〇
「それにしても、今年もハルカは来られなかったわね」
「まあ仕方ないだろうな。星詠機関の中でも特に優秀な幹部たち、二十一天の一人ともなるとやはり忙しいんだろう」
「今でも不思議な感覚だわ。能力というものが存在して、それを管理する国際組織があるなんて。そしてそのメンバーに私の親友と恋人がいるなんて」
「こ、恋人……。ククッ、そうだな」
いざ言葉にされると少し照れくさい。
墓場を所有する寺院の前を通り、下りの石階段にさしかかったところでナツキは夕華に手を差し出した。その意味を測りかねて困惑している夕華に対して顔を赤くしながらぶっきらぼうに言う。
「ク、ククッ、ここの階段は急で危ないからな。足を踏み外したら怪我をしてしまうから、その……手をつなごう」
「え、ええ。そうよね。怪我をしたら大変だわ」
二人とも目を逸らし合いながら手を取る。指を絡ませた、いわゆる恋人繋ぎだ。
(男の人と手を繋ぐなんて初めての経験だから緊張するわね……。手汗大丈夫かしら)
いつものクールで怜悧な表情を崩すことなく、しかしその冷たい表情の下では初めての恋愛にドギマギする乙女の顔もある。夕華にとって自身の人生はナツキを守るための日々だった。当然恋愛する時間的な余裕も心理的な誘因もなく、そのまま大人になってしまった。
本当なら年上の自分がリードしなきゃいけないのに、と思いつつも恥ずかしさが邪魔をしてそうも簡単にいかない。階段を降りる二人の間に沈黙が流れる。ここは年上らしく強引にでも話題を見つけようと試みる。
「それにしても今日は暑いわね……」
「そうだな……ッ!?」
返事をするため夕華の方を見たナツキはあまりの恋人の綺麗さに、そして色気に狼狽する。ベージュのセミロングヘアはいつもと違って凝った髪型ではなく後ろで結っているだけ。それなのに汗ばんだ首筋やうなじには視線を奪われる。
その上、普段のレディーススーツをかっちり着込んだ姿と違って夏特有の薄い生地の私服。ノースリーブの紺色のワンピースは涼し気で、だからこそ重量感のある胸が芳香と熱気を漂わせながら形と大きさをはっきり示しながらこれでもかと主張している。
「ちょ、ちょっとナツキ! どうしたの?」
突然ナツキは夕華の手を強く引き、階段を駆けるように降りた。
その顔は少し怖い。何か気に障ることでもしてしまっただろうか、と夕華はおそるおそる尋ねたが、返事はない。
階段を最後まで降りきったところで、ナツキは呟くようにぼそりと漏らした。
「見られたくないから……」
「え?」
「今の夕華さんはすごく綺麗で、きっとどんな男でも即座に一目惚れし近寄ってナンパしてくるに違いない! だから夕華さんが誰かに見られてしまう前に早く帰りたかったんだ!」
「はぁ……。もう」
言っていることが無茶苦茶だ。中学生にもなって子供のような駄々をこねて。でも恋人からここまではっきりと独占欲を向けられるのは悪い気はしない。それどころかますます胸の高鳴りは増していく。毎日が新鮮な感情の連続で、恋愛をするとこんなにも世界が明るく見えるのかと夕華は愛おしそうにナツキの頭を撫でる。
「そうだとしても私の愛情は一滴もこぼさずにナツキのものよ。ほら、おいで」
頭から手を離すと夕華は両手を大きく広げた。
(これは教師モードではなくて保護者モードだな……)
わずかな表情の変化から見抜いた。付き合いの長いナツキやハルカ、ナナでないと気が付かないほどの微笑。それは夕華がナツキやハルカを甘やかすときに浮かべるものだ。
遠慮してなるものかと飛び込んだ。夕華は広げていた両手で包み込み、背中を抱く。無意識の動作なのだろうが後ろから押されたナツキの頭は夕華の胸に沈み込み、顔面が柔らかく濃厚な香りのする世界にうずもれていった。
後頭部を撫でられている気がする。しかしそれ以上に、自分の顔の鼻や口といった凹凸に合わせて形を変える二つの大きな山の感触がたまらなく脳みそを刺激する。
(ククッ、見つけたぞ、この谷こそが俺の探し求めたティル・ナ・ノーグ、だったん、だな……)
アホなことを考えながら、ナツキは夕華の胸の谷間で意識を手放す。鼻血が滝のように止めどなく溢れてアスファルトの地面は殺人事件の現場のようにたちまち血の海と化した。
「ナツキ!? 大丈夫!?」
ぼやける視界の中で心配そうに覗き込む夕華の美しく整った顔を見ながら、幸福を噛みしめるように失神した。
田中ナツキ──黄昏暁は中二病にして最強の能力者である。
失神や気絶どころか細胞ひとつ残さない死からも帰還する無敵の能力を右眼に宿し、そんなナツキを一度は殺害した敵の能力すら無力化する能力を左眼に宿している。
ナツキの瞼の下では右眼が赤く、左眼が青く、淡く光を灯していた。
一等級「夢を現に変える能力」によって強制的に意識が取り戻されるのを、二等級「現を夢に変える能力」によって無効化しているのだ。
『いや、馬鹿だろ僕』
宙にぷかぷか浮く半透明の幼いナツキは、夕華の胸で窒息死するというあまりに幸せな状況を楽しむためにわざわざ自分の能力で自分の能力を縛るなんて真似をした本体のナツキを見下ろして溜息をつきながら呆れかえるのだった。