第113話 ミサイル・ロックオン
ロシア時間十六時三十分
王城の大広間ではパーティーの準備がほとんど完了していた。まもなく招待客たちは訪れるだろう。少しだけ衛兵の一人が気を抜いてしまったのも仕方がない。だが、クリムゾンに呼び止められたことで身を強張らせる。緊張感が走った。同僚がクリムゾンの気まぐれで燃やされている姿はよく見かける。自分もそうなったっておかしくないと想像してしまったのだ。
だが、クリムゾンから命じられたのは最上階にいる夕華を連れてこいというシンプルなものだった。
王城の螺旋石階段をのぼりながら衛兵はほっと溜息をつく。王家の方々のすぐ側で仕えることができると決まったときは家族総出で祝ったものだが、蓋を開けば外からやって来たネバードーン財団の御曹司にこき使われる日々だ。それも、ヘマをすれば灰にされるという最低最悪のオマケつきで。給金は以前よりも上がったが、やりがいという点ではどんどん削れていっている。
最上階のフロアにつき、カーペットの廊下を進む。一番奥の部屋に夕華は軟禁されていた。衛兵は金属製の輪っかにジャラジャラとつけられたいくつもの鍵から一個ずつ鍵穴に合わせていく、ようやく六つ目で開錠できた。扉を開ける前に一応はノックする。本妻、つまり王妃の称号は持たないとはいえ、相手は皇帝の妻として後宮に入る人物だ。ただの衛兵が無断で侵入することは許されない。
「クリムゾン様がお呼びですのでお迎えに上がりました。開けてもよろしいでしょうか?」
「ええ。どうぞ」
凛とした力強い声だ。この衛兵は普段は皇帝の最も近くにいる近衛兵ではなく王城内の警備を担当する内衛兵だったので、今朝の謁見の間での夕華を見ていない。情報としては知っていたがその姿は知らない。
そのため夕華が婚姻を嫌がっているなど想像もしておらず、声を聞いて他の妻たちがかつてそうであったようにクリムゾンと関係が持てることを誇りに思っているのだろうと判断してしまった。
ひとまず許可は出たのでドアノブに手をかける。こちらに背を向けてベッドに腰かけていた青いドレスの女性が振り返った。ベージュの髪に翡翠色の瞳。女性の割に身長は高く、ドレスから北半球がはみ出ている胸はロシア帝国最大とゴシップで噂された王妃アンナのそれよりも大きい。目があった衛兵は思わず顔を赤くする。
(これが今回の陛下が娶られる女性か……。どこかの王家の血でも入っているのか。これほど芸術品のごとき美しさをもつ女性を見たのはアンナ様以来だ……)
尤も、美しさの同率一位にわざわざ王妃アンナを挙げるくらいにはこの衛兵も愛国心に溢れているのだが。
夕華は静かに立ち上がりこちらに歩いてきた。座る姿、立ち上がる姿、立っている姿、全てが気品に満ちていて麗しい。まさに立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
案内をしてくださるかしら、という夕華の言葉に、鼻息が荒くなるのを我慢しながら衛兵はなんとかクリムゾンの下まで送り届けるのだった。
そして、その衛兵は魅了されてしまったが故にいちいち気にすることはなかった。そもそもどうして夕華が鍵のかかった部屋に閉じ込められていたかなど。
〇△〇△〇
「陛下、奥様をお連れしました!」
「ああ。ご足労だったな。時にお前、外の警備はどうなっている?」
「はっ! 能力者はエカチェリーナ様とその部下の少年少女が二名、それから衛兵は非番の者も含めまして百人体制で巡回・監視をしております! ネズミ一匹通すことはありません!」
「ハッ、良い心意気だ。下がっていいぞ」
再び安堵の息を漏らした衛兵は城を出た。客たちがまもなく来るというタイミングになったら門周辺の警備を強化するのが通例になっていたからだ。
クリムゾンは夕華を引き寄せるように肩を組み、耳元で囁くように言った。
「もうすぐ招待客たちが来る。さっきみたいな反抗的な目をするお前も俺は好きだが、客を傷つけるような真似はしてくれるなよ」
「ええもちろん。わかっています」
「ん? ほう、やっと俺のものになる気になったか。嬉しい反面、もうあの強い目が見られないのは残念ではあるな。まあ良い。俺に反抗する子猫にはエカチェリーナがいる。あいつでもう少し遊べばいいか」
クリムゾンはそうボヤきながら夕華を離した。夕華の青いドレスはパーティードレスなので肩は素肌が全て出ている。直接触れたとなれば、今朝の調子なら嫌悪感や反発を言葉にしてきそうなものだと考えていたクリムゾンは拍子抜けした一方で、そのような変化をきたすだけの雄としての魅力が自身に備わっていると信じて疑っていない。
「聞こえるか? いくつものエンジン音。リムジンだな。そら、早速一人目だぞ。きちんと挨拶しろよ。……これはこれはイワン氏! 先日の反皇帝デモへの素早い報道規制、非常に助かりました」
「ご機嫌麗しゅう陛下。私は一人のテレビマンとして当然のことをしたまでです。おや、隣におられる美しい女性は新しい奥様でいらっしゃいますか」
「マスメディア界の裏のドンが一人のテレビマンとは、なかなか謙遜をされる方だ! さて、ご紹介が遅れましたな。こちら私の新しい妻、ユウカ・ソラカワと言います」
「ごきげんよう、イワン様」
「ほう、また陛下はどこかの姫君を攫いでもしたのかな。いやはや、罪作りな男だ。それじゃあ私のような老体は先に中に入らせてもらせていただきます。寒さが堪えますので」
クリムゾンは大広間へと入っていくイワンを見送り、首をゴキゴキと鳴らした。国内の公的機関ならば皇帝と明確な上下関係が生じるが、メディアや金融などの業界のトップたちはあくまで私人。ネバードーン財団の長男坊という肩書も持つクリムゾンにとってはビジネスパートナーという側面もあり、慣れない敬語が要求され負担がかかるのだ。
それからも様々な業界の有力者がパーティーに参加するため来訪し、大広間の入口で一人ずつにクリムゾンは応対した。そしてその都度、夕華を新しい妻だと紹介するのだ。
夕華とて本当なら嫌悪感と不快感で逃げ出したい。でもそれをナツキへの愛情で抑え込む。ここでこうして自分が我慢することこそ日本にいるナツキを守る唯一にして最善の手段だと信じて。
心に降り注ぐ哀しみの大雨は大地をぐちゃぐちゃに汚していく。ナツキへの愛だけが傘のように広がって夕華の身体を覆うのだった。
〇△〇△〇
「ご機嫌麗しゅうエカチェリーナ姫」
「ええ。ご機嫌麗しゅう。それでは招待状を確認させていただきます。……はい、確認いたしました。中で陛下が待っておりますので、どうかごゆっくりとお過ごしください」
エカチェリーナは寒空の下、王城の門の前で招待客の招待状のチェックと出迎えの挨拶を担当していた。血筋的に充分な上に荒事が起きても対象できるので人材としては申し分ない。
パーティーは立食形式で夕食を兼ねている。そうなると午後の五時あたりが訪問のピークとなる。陽が少しずつ傾き始め、まさに黄昏時。あたりは夕陽に照らされオレンジ色に染まっている。
そんなエカチェリーナのもとに部下の一人が走ってやって来た。続々と招待客たちが訪れるこの忙しいときに、と思わないでもないが、それがわからない部下ではない。つまりそれだけ急を要する報告があるということだ。
「お忙しいところ申し訳ありません! 軍本部より入電、急ぎ報告することがあります!」
「どうした?」
「ロシア領空に侵入する小型飛行物体があり、救難信号等は出ておらず、管制塔の通信にも応答がありません! 進路はどうやら首都ではないかと」
エカチェリーナはロマノフ王朝の姫であると同時に軍部大臣であり、皇帝であるクリムゾンを除けば軍事的な指揮の最高権力者になる。今回は姫としての彼女ではなく軍人としての彼女への仕事だった。
本当に応答はないのだな? と確認したエカチェリーナはいくばくか逡巡した後、決心をして部下に伝えた。
「対空迎撃ミサイルを使え。撃ち落として構わない」
「了解いたしました」
そうして部下は立ち去った。クリムゾンのパーティーは頻繁に開催しているのでそれをピンポイントに狙った犯行とは考えにくいが、どうも今のロシア帝国はクリムゾンのせいで情勢がきな臭い。首都に向かっているということは一般の国民を狙ったテロの可能性もあるし、再三の通信に応じないとなれば撃ち落とされても文句は言えまい。
この情報はクリムゾンの耳にも入れられた。その反応はエカチェリーナとほとんど同じで、彼女が迎撃の指示をしたと聞いても「そうだろうな」とこぼすのみ。隣の夕華も招待客とのちょっとした会話で忙しく、そんなものは耳にも入っていない。
午後五時を少し過ぎたころ、予定していた招待客は全て王城の大広間に入城した。
〇△〇△〇
『スピカ様! ロシア軍の管制塔より通信が入っております!』
突如機内のスピーカーから若い男の声が響く。その音量に驚いたのか英雄と美咲はビクッと身体を強張らせながら目を覚ましナツキの膝から起き上がった。
「ロシアの領空には入ったからそろそろ来るとは思っていたわ。無視しなさい。先にアカツキに手を出したのはあっちなんだもの。言うことを聞いてあげる道理はないわ」
スピカがぶっきらぼうに返答すると、どこかに集音機材があるのかしっかりと相手にそれは聞こえていたようで、スピーカーから困ったような声色で『わかりました』と返事があった。ナツキがスピカに問いかける。
「今のは?」
「パイロットよ。管制塔から通信が入ったみたいね。もしかしたらこの飛行機、撃ち落とされるかもしれないわ。無断入国だから当たり前と言えば当たり前だけど」
「ちょっと、あんたは案内人なんでしょう! なんでそんなことになるのよ!」
美咲が食ってかかるのも仕方がない。飛行機に乗っている者にとって墜落より怖ろしいものはないのだから。英雄も不安そうにナツキの腕をぎゅっと抱き締めている。スピカその青い眼に光を宿しながら、くすりと笑って言った。
「大丈夫よ。対策はしてるから」
〇△〇△〇
つくづく無茶な上司だ、とパイロットは悪態をつく。彼は普段はスピカの運転手としてニューヨーク中を走っているし、時にはアメリカ国内をこうしてプライベートジェットで飛ぶこともある。星詠機関の中でも特にエリートである二十一天の一人であるスピカともなるとお付きの運転手にも飛行機操縦の技能くらいは軽く要求される。
それはいい。それはいいのだ。
まずアメリカから日本、そして少しして日本からロシア西部。おおよそ地球を半周。明らかにフライト日程が常軌を逸している。
その上、乗っているのは全員が能力者で、スピカと同等程度の強さの者やそれ以上、つまり一等級の者すらいるという。無能力者の彼にとってはもはや遠くの存在すぎて想像がつかない。一歩も進んでいない者にとっては五十歩も百歩も違いはないものだ。ただただ乗せるVIPが増えたという認識で彼の胃痛を増やすのに充分な材料というだけのこと。
そして今度は管制塔を無視しろときた。彼は航空機の免許を取る際にパイロットの国際法や国際マナー、信号、そうしたものは一通り学習した。だからスピカの指示がいかに無茶苦茶かよくわかる。
(万が一撃墜でもされたらどうするんだ……)
そんなパイロットの不安を的中させるようにコクピットの機材の一つからアラーム音がけたたましく鳴り響く。同時に赤いランプもチカチカと点滅していた。これが示すのは、『ロックオンされた』というもの。
奥でくつろいでいるであろうスピカとの回線を開き、悲鳴に近い声で叫ぶ。
「ミサイルで狙われてます! このままじゃ堕ちて海のもくずですよ! 俺たち!」
『そう。わかったわ』
あまりにあっさりとしたスピカの反応に冷や汗が止まらない。
(うちのスピカ様は事態の深刻さがわかってんのか!?)
コクピットの座席からフロントガラス越しに雲海が広がっている。どこまでも白い雲。だが、いくつか黒い点のようなものが見えはじめた。その点は徐々に大きくなっていく。違う。徐々にこちらに近づいている!
黒点がミサイルの先端だとわかったとき、彼は死を覚悟した。田舎のお父さんお母さんごめんなさい、先に逝きます、でも敬愛するスピカ様と一緒に散ることができるのは本望です。目をきゅっと瞑って胸の前で十字を切りながらそんなことを考えていた。
だが、いつまで経ってもミサイルは到達しない。ジェットエンジンの轟音がうるさいだけで、爆発の気配がまったくない。もしかして気が付かないほど一瞬で自分は死んだのか? とおそるおそる目を開ける。
龍が並んでいた。青みがかった半透明の龍。翼を持った西洋のドラゴンではなく蛇のように細長い東洋のドラゴン。それが飛行機の真横に並んで飛んでいて、大きく口を開いたと思ったら飛行機を追い抜きながら加速し迫り来る数発のミサイルを丸ごと飲み込んでいく。
スピカからの音声がコクピットの響く。
『オホーツク海を通過したときに海水を持ち上げてここまで一緒に飛ばしていたの。ずっと機体の下に隠してたから気が付かなかったでしょう? 一千万リットルよ』
平均的な二十五メートルプールが約五十万リットルなので、二十面分。それだけの量の水をオホーツクからここまで、ずっと? 能力者とは皆こんなに常識外れなのだろうか、とパイロットの男は開いた口が塞ぐことができないまま、その後も立て続けに放たれたミサイルが飛行機より巨大な水龍のエサになっていく様を絶好の席で眺めるのだった。