第109話 なみだのみさお
日本時間十五時三十分 ロシア時間九時三十分
首都サンクトペテルブルクの王城、謁見の間にて、エカチェリーナは夕華を連れて参上していた。眼前の階段を何十段も見上げればそこには赤銅色の短髪を立ち上げた荘厳たる一人の男がいる。皇帝クリムゾンである。鷹揚とした様子のクリムゾンはエカチェリーナから見ればいつも以上に機嫌がよく見えた。
「やはり美しいな。アンナ、どう思う?」
「ええ。とっても。妬いちゃうくらいに綺麗ですわ。それにドレスもよく似合っています。選んだのはカチューシャね?」
「はい。エカチェリーナさんに選んでいただきました」
いくら皇帝といえでもドレスを着た女性に膝をつかせるような無粋な真似はしない。立ったままクリムゾンとアンナに相対する夕華は、にも拘わらず精一杯に足に力を込めていなければならなかった。
今朝、小宮殿の執務室でエカチェリーナに対して感じたオーラに近い。立場や肩書や血筋以上に、本人が放つ威圧感。或いは格。人の上に立つべくして立っている者のみが持つ特有の雰囲気。クリムゾンと話していると自分が小さくなったような錯覚すらおぼえる。
かと言ってアンナが劣って見えるかというとそうではない。さすがは世界の重鎮相手に外交を展開し社交界でも活躍していただけあって、おっとりした態度の裏側には底知れぬ恐ろしさがある。その裏腹さはどこかハルカを連想させた。
エカチェリーナの今朝の談ではパーティーは夜からとのことだったが、クリムゾンが一目見ておきたいということで午前中から首都の王城まで召喚された。わざわざ迎えのリムジンを寄越すくらいにはクリムゾンの関心も高いようだ。
夕華としては自分が大国の国家元首にそうした扱いを受けるほどの価値があると思っていないので、誉れよりも困惑が先行してしまう。
「ユウカ・ソラカワ。貴様は時を止める能力があると聞いている。それは本当か?」
クリムゾンの問に驚いた夕華はわずかに身を強張らせる。その話はナツキ以外にはしていない、夕華にとっては長年胸の内に秘めていたものだ。よもやナツキがロシアの皇帝と付き合いがあるとも思えない。ならば、クリムゾンは少なくともあの現象について何らかの知見を持った上で問いかけてきている。
時間が止まるあの不思議な現象を解明するチャンスであると同時に、自分が想像もつかないほど大きな事態の渦中に巻き込まれているのではないかという恐怖もあった。だから自信なさげに、断定は避ける形で返答する。
「そうなのではないかと私は考えています」
「……そうか。だとするとエメラルドのように美しい貴様の瞳はますます疑問をもたらすな。俺たちにもわかるように試しに能力を使ってみてくれ」
「畏れながら皇帝陛下、私のその能力……というのでしょうか。時間が止まる不可思議な現象は私自身の意思ではありません。普通に生活している中で突如発生するものなのです」
「ちょ、ちょっと待て! クリムゾン! 貴様はさっきからユウカに何を言っている!? 時間を止める能力だと? そんなわけがないだろう」
「どうしてそう思う?」
「彼女には私の能力が効かなかった。あらゆる生物の傷を癒す私の能力が生まれて初めて治癒できなかったんだ。おそらく能力の無効化ではないか?」
「能力の無効化か……。ハッ、なるほど、そういうことか! わかったぞ、貴様の能力の正体が。ハッハッハッ、面白いッ! 思っていたものとは違ったが充分だ。よし、俺は改めて強く決意した。ユウカ・ソラカワよ。今日のパーティーは俺とお前の結婚発表の場にしよう。いいや、いっそ披露宴に変えさせてもいい」
「待て! ユウカは日本の民だ。それを勝手に娶るなどあの聖皇が許すはずがないだろう!」
「いずれは衝突していた相手だ。早いか遅いかなど俺にとっては些末な問題でしかない。それに俺が誰を求めようとエカチェリーナには関係がないだろう?」
まずいことになった、とエカチェリーナは唇を噛む。このクリムゾンという男は世界が自分のためにあると本気で考えている。傲岸にして不遜。そのクリムゾンが夕華を『貴様』ではなく『お前』と呼んだ。これが意味するのは、クリムゾンが夕華をいたく気に入ってしまっているということだ。
クリムゾンの後宮には数十名の妻がおり、特に寵愛を受けているのがアンナとはいえクリムゾンは全員に愛を注いでいる。そうなっては夕華の帰国はまず叶わない。彼女の希望を事前に聞いていたが故にエカチェリーナは危惧していた展開になったことに焦りを感じていた。なんとかしてクリムゾンの気を変えなければ、自分はまた友を不幸な目に遭わせてしまう。
だがしかし。それまで威圧されおどおどしているようにすら見えていた夕華が、眉をひそめながらクリムゾンに返答する。躊躇も畏怖も遠慮もなく、当然のことのように。
「陛下、光栄な話ではありますが丁重に辞退させていただきます。私には一生を捧げた相手がおりますので」
さっきまでとは打って変わって一歩も引かず堂々とした振舞でクリムゾンに否を突き付けてみせた夕華にエカチェリーナは目を見開く。それに、まさか一生を捧げたとまで言い切れるほどの相手がいるとは思わなかった。同じ女として、そして同じくらいの歳頃として友人にそのような相手がいることは心から嬉しく感じていた。
「ハッハッハッッ!! 俺の求婚を断るか! エカチェリーナ以来だな。そうか、雄として世界で最も優れているこの俺よりも大事な男がいるとは驚いた。だが、それが良い。そういう女こそ余計に欲しくなる。決めたぞ。お前は絶対に俺の妻にするッ! 衛兵! ユウカを俺の部屋に閉じ込めておけ! くれぐれも丁重にな。俺はこのあとのパーティーの変更部分について調整をせねばならん。指揮官こそ現場に立つべき、これはお前の言葉だったよなぁ? エカチェリーナ」
エカチェリーナが自分と夕華の婚姻に反対しているのを理解している上でクリムゾンは嫌らしい笑みを向けてくる。だが! と声を荒げて言い返そうとしたエカチェリーナに対して、クリムゾンは一睨みするだけで黙らせた。クリムゾンと委縮したエカチェリーナとの間に割って入るように夕華は一歩前に出る。
クリムゾンの視線から解放されたエカチェリーナには夕華の背中が大きく見えた。それは強者の証、まぎれもなく、彼女は自分と違ってクリムゾンに対して屈していない証明。
「私の友人を甚振るような下品な相手のために操を立ててきたわけではありません。いくらあなたが一国の皇帝だとしても、私はあなたに靡かない。あなたのものにはなりはしない」
自分を睨む夕華を見てクリムゾンはむしろ笑ってみせた。そして掌を向けると、一瞬にして炎が夕華の全身を包む。回避不能、そしてなおかつ人間など容易く灰にしてしまうほどの威力、夕華の身体はたちまち燃え上がる……ことはなかった。
まるで炎が体の内側に吸収されるかのように徐々に消えていく。小さくなっていく炎の渦の向こうで依然として夕華はクリムゾンに厳しい視線を送る。自分は日本に、ナツキのところに帰るのだという絶対的な意思。それは強者を前にしてなお一切失われない。
「良い眼だな。能力だけじゃない。お前は本当に良い女だと俺は心底感じている。ますます欲しくなった」
夕華の背後から、衛兵の槍が振り下ろされる。気配に気が付いたエカチェリーナが立ち上がりざま抜刀して剣で受け止めるが脇からもう一人の衛兵が出てきて槍の石突を夕華の鳩尾に突き立てた。肺の空気が全て押し出され、脳に酸素が供給されず視界が真っ白になりそのまま気絶する。
「ユウカ!」
エカチェリーナは膂力でもって槍を押し返し、夕華の意識を奪ったもう一人の衛兵に剣を振り抜く。全身を甲冑で覆っている衛兵には当然刃が通らず害することはできないが、夕華から遠ざけるには充分だった。
玉座からクリムゾンの舌打ちが聞こえる。
「チッ……。丁重に扱えと言っただろう。そいつの腹……胎は後々俺の子を宿すんだぞ。意識くらいもっとスマートに奪ってみせろ」
衛兵がその場で跪き謝罪しようとするも間に合わない。一瞬にして衛兵を炎が包み銀色の甲冑を丸ごとドロドロに溶かしていく。金属の溶ける独特な酸っぱい匂いと、人体の焼け焦げるくすんだ香りがエカチェリーナの鼻をつく。
クリムゾンが顎で指示を出し、燃やされなかった方の衛兵が意識のない夕華を担いでいく。エカチェリーナは静止の声を上げようとするがクリムゾンの視線によって動きを縫い付けられてしまった。生物としての決定的なまでの上下関係は一度植え付けられるともう抜け出すことはできない。捕食者と被捕食者の関係性。文字通りの蛇睨み。
(所詮私の反骨心を面白がって泳がさせているに過ぎないということか……)
いつでもエカチェリーナの心を完全に破壊することはできる。そうでなくとも、国民すべての生命を人質にして言うことを聞かせることだってできる。それをしないのはこうして抵抗をしながらも力及ばず友が連れ去れていくのを見届けるしかない自分の情けない姿を愉快に思っているからだろう。エカチェリーナは悔しさと情けなさで自分を呪う。その場でへたりこむエカチェリーナにもはや姫の威厳など存在しない。