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第108話 この子を守るために生まれてきた

 夢を、見ていた。


 或いは砕けた記憶の断片が修復していっているのかもしれない。少なくとも、睡眠中の無意識の脳機能に関して彼女の自意識が干渉する術はない。



「行ってくる」



 そう言い残して、一人の少年が立ち上がった。

 ダメ。私を置いて逃げて。夢の中でどれだけ声を上げても彼には届かない。地を這って、手を伸ばす。だけど映像が勝手に再生されるようにその光景は無情にも流れていく。

 刀を取り出して戦うが、謎の爆発によって吹き飛ばされた。ボロボロになった彼の身体が目の前に転がって来た。

 悲鳴を上げる。彼の名前を叫びながら──



〇△〇△〇



 ナツキを守るためなら自分は死んでもいい。



 空川夕華には覚悟があった。

 十四年前、小学校の帰りに親友の家に寄ったとき。ゆりかごの中で眠る産まれたばかりのナツキと初めて出逢ったとき。人の気配で目が覚めたのに、泣きじゃくることなく、ゆりかごの中に手を伸ばした自分の指を小さな小さな手で握ってくれたとき。目が合って、ぽちゃぽちゃした真っ赤な顔をにこっと動かしたとき。


──ああ、自分はこの子を守るために生まれてきたんだ。


 十歳の少女が抱くにはあまりに凄絶な覚悟。彼の母や姉と違って血の繋がりもなければ義務も権利もない。それでも、幼き日の夕華はたしかに胸に誓ったのだ。強く優しく立派な大人になってこの子を一生守る。そのためなら自分は死んでもいいと。




 ハルカやブラッケストは人工的に能力者を生み出す手法を確立したグリーナーを存外高く評価していた。能力者はもれなく後天的である。故に、特定のプロセスを踏むことで能力の発現は再現可能であると彼は考えたのだ。


 その中で特に重視されたのが死の体験である。実際に死ぬということではなくて、死を強烈に意識するということ。そのような法則があると証明されているわけではないが、世界各国の能力者の証言から帰納的に導出されたのがこの心理的防衛機能とも言うべき死への意識。

 転落死しかけた者が壁を歩けるようになったり、川で溺れた者が水を操るようになったり、酷いイジメを受けていた者が透明になって誰からも見えなくなったり。多種多様な死への意識が彼らを後天的に能力者たらしめた。


 では空川夕華という女性にとってその死への意識とは何だったのだろうか。

 それこそが紛れもなく『死んでもナツキを守る』という覚悟である。世界の全てを敵に回してでも守りたいものができた女は強い。自然界において常に強いのは雌だ。百獣の王ですら狩りを行うのは雌なのだから。

 その日、夕華に宿った能力は単純明快なものだった。ナツキを守るにはナツキを襲う魔の手を跳ね除けなければならない。彼を取り巻く世界のあらゆる悪意から遠ざけるために。

 夕華は今でも自身の能力の正体を知らない。なぜなら大半の能力者のように当人の意思でもって能動的に発動するものではないから。あえて名付けるならば常時発動型。


 空川夕華には斥力を操る能力が効かなかった。空川夕華には傷を癒す能力が効かなかった。そして、空川夕華には世界の時間を停止させる聖皇の能力すらもこの世界でただ一人効かなかった。

 ハルカに言わせれば、あらゆる願望を叶えるほどの最強の一等級である田中ナツキの能力すらも効かなかった。


 そう。空川夕華の能力は実にシンプルなのだ。

 その正体は、あらゆる能力の無効化である。



〇△〇△〇



 その不思議な体験は子供の頃からだった。そして大人になった今でも変わらない。

 たとえばこうして中学校で英語の授業をしているとき。



「では次の文法問題は復習なので……。ああ、また」



 まるで一時停止ボタンを押したみたいに世界の時間が止まる。時計の針は動かず、生徒たちはまばたきすらしなくなり、窓の外を見れば体育の授業をしている生徒の手から放られたボールが空中に浮いたままになっている。


 時間停止はいつも突然だった。意思に関係なくいきなり止まる。自分以外にこの止まった世界を認知している人に会ったことはない。時間が止まっているというだけで物体は普通に動かせるので、教室の扉を開けて外に出ることだってできる。

 一つ困るのは止まっている時間を計測できないことだろうか。正確に測ってはいないがたぶん毎回止まっている時間の長さは違う。短いときは数秒。ひどいときは一時間を超えていたように思う。

 そしてまた脈絡なく解除されるのだ。時計の針は動き出し、生徒たちはペンをノートに走らせ、ボールはグラウンドでバウンドする。



(いつだったかナツキが言っていた、時間停止の能力? っていうのかしら。嘘みたいな話だけど、もう十年以上経験しているから信じざるを得ないのよね)



 これはまだナツキが中学校に入学する前、夕華が教師になって一年目のとある一日の様子である。



〇△〇△〇



 日本時間十二時二十五分 ロシア時間六時二十五分


 目を開けたとき、天井の高さに驚いた。いくばくかしてここが自宅ではなく、そればかりか日本ですらなく、ロシアの宮殿なのだと思い出す。

 シルクの寝巻はそのままの生地でドレスにリメイクできるのではないかと思ってしまうほどに高級品。それだけではない。ふかふかのベッドも金に刺繍されたカーテンも天井のシャンデリアも部屋のカーペットも、何もかも。


 どこか夢見心地の気分の夕華。しかし今日は日本に帰国しなければならない。シャキッとせねば。エカチェリーナは自分の家だと思ってくつろいでほしいと言ってくれていたがそういうわけにもいかない。まずは昨日世話になった挨拶をして、それからなんとか大使館に向かって……。

 今日一日の予定を頭の中で描いていたとき扉をノックする音が響いた。どうぞ、と返答するとメイドが恭しく頭を下げながら入って来る。



「おはようございます。ソラカワ様。お召し物をお持ちしました。私は外で待機しておりますので、着替え終えたらお声かけ下さい。エカチェリーナ様がお呼びですので、執務室まで案内させていただきます」


「え、ええ。わかりました。どうもありがとうございます」



 そうしてメイドは部屋を出て行った。手渡されたそのお召し物とやらは、これまた高級そうなドレスだ。鮮やかなドレスの青色は海を連想させる深いブルー。縦長のシルエットからノースリーブであることがわかる。肩ひもや胸元の生地の量からしてデコルテを非常に露出しそうだし、全体的に細身のシルエットなのでスタイルがもろに反映される。


 夕華自身としてはこんな派手なドレスが自分に似合うだろうか、と悲観的に考えているが、ドレスを選んでメイドに持っていかせたエカチェリーナからすると日本人とは思えないほどスタイルが抜群な夕華にはこれくらい気合の入ったドレスでも着こなせるだろうという期待と確信があったのだ。


 ひとまず脱いだ夕華は下着姿になり、寝巻は枕元に畳んで置いておいた。この下着というのもエカチェリーナに予備があるからと貰ったものだ。昨晩、大理石が敷き詰められプールと見まごう程に巨大な風呂場を独り占めして使わせてもらった後に上がったら脱衣所に用意されていたのだ。色こそ普段身に着けているものと同じ黒色なのだが、花があしらわれたような模様や柄は女性の夕華から見ても扇情的に感じてしまう。俗にランジェリーと呼ばれるタイプの下着だ。さらにショーツはガーターストッキングが一体となっており、下半身のラインをスマートにしている。


 ドレスを自力で着るのは中々に困難な作業であったものの、部屋には当然のように巨大な姿見が壁にかかっておりそれを見ながらどうにか着付けできた。姿見は金色の丸みを帯びた装飾で、世界で一番美しいのは誰かと尋ねたら今にも返事が聞こえてきそうなほどだ。


 着替え終えた夕華は部屋を出てメイドに声をかける。一つ深々と頭を下げたメイドの『では私について来てください』という言葉に従って、宮殿内を歩く。どうもメイドとのコミュニケーションには慣れない。自分が一般家庭の庶民の出身だからだろうか。

 前を歩くメイドの背中を眺めているとふとナツキのことを思い出した。そういえば以前、ハルカからメイド服が送られてきたな、と。ナツキは随分と熱心にそれを自分に着せたがっていた。やはり男性はメイドというのが好きなのだろうか。


 遠い異国の地で夕華はホームシック、というよりナツキシックになっていた。無事帰国できたら自宅のクローゼットの奥深くに封印したメイド服を着てあげてもいいかもしれないな、などと考えるくらいには。



〇△〇△〇



「エカチェリーナ様、ソラカワ様をお連れしました」


「入ってくれ」



 その言葉がメイドではなく夕華に向けてのものであることを証明するかの如くメイドは部屋に入らずに一礼して立ち去った、残された夕華はおずおずと部屋に入る。

 執務室、とさっきメイドは言っていた。なるほど言い得て妙だ。隙間なく本棚には軍事関係と思しき書籍や書類データをまとめたファイルが並んでいる。エカチェリーナは書斎机で何か書き物をしていた。ペンの近くには鉢があって、中では果肉植物が元気にその緑色の身体を力強く伸ばしていた。


 本棚の横にある古時計を見やると午前七時を示している。時差六時間なので日本は昼過ぎだ。今日から夏休みだからってナツキはダラけずに規則正しく起きただろうか。朝食はバランスよく作っただろうか。留守電はいれておいたが心配していないだろうか。ロシアの地にいてもなお夕華の頭の中はナツキのことでいっぱいだった。



「朝早く呼びつけてしまってすまないな」


「いいえ。エカチェリーナさんこそこんな時間からお仕事をされていて本当に立派だと思います」



 愛国の志だけが取り柄だからな、と自嘲気味に呟きながらペンの手を止め書類から顔を上げたエカチェリーナは青いドレス姿の夕華を見て満足げに頷いた。



「うむ、やはりよく似合っている! 私の見立てに間違いはなかったな。それにしても、宮殿に他の者がいないのが悔やまれる。皆きみをどこかの国の姫か世界的財閥の娘だと思うだろうからな。どちらでもないと伝えたらきっと目を剥いて驚くぞ?」


「エカチェリーナさん、本物のお姫様にそう言われては私のような庶民は皮肉だと受け取ってしまいますよ?」


「す、すまない。きみを貶す意図はないんだ。本当に、心の底から美しいと思って言ったんだ」


「ふふ、わかっています。冗談です」


「まったくきみは……。これがジャパニーズジョークなんだね。私も心臓が冷えたよ」


「え、ええ、まあ」



 ジャパニーズジョークってなんだ、というツッコミは胸の内に押し込み。夕華はエカチェリーナに尋ねる。



「私は今日中に帰国するつもりだったのですが、何かご用件でも?」


「……ああ、それなんだけどね。もしかしたら今日もロシアに残ってもらうことになるかもしれない」


「どうしてですか?」


「ロシア皇帝、クリムゾン。奴が今夜のパーティーにきみを招待したいと言っている。ロシア帝国で皇帝の言葉は絶対だ。奴がきみを帰さないと言ったら、どう頑張っても空港を通ることはできない。申し訳ないがもう一日だけ付き合ってはもらえないだろうか。私にできる精一杯のことはさせてもらう」



 てっきり今日で帰国しナツキに会えるものとばかり思っていた夕華にとって、正直なところパーティなど余計な手間でしかない。そもそもパーティーなんて参加したことがないし、どれだけ着飾っても相応しくない人間が居座っては場を壊してしまう。

 そんな不満げで不安げな夕華の表情を見たエカチェリーナが気遣うように言った。



「パーティーと言っても城の大広間で立食するだけだよ。それに、肩肘張る必要もない。というのも、だよ。おそらくきみが帰国する最も手っ取り早い方法は奴に気に入られないことなんだから」

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