瓢箪の巫女 ~ 釣り
くんっ、と引きを感じ、うたた寝から覚めた。
「おお、いかん」
危うく大切な釣竿を持っていかれるところだった。
数回瞬きして眠気を追い払うと、釣竿を握り直し、ぐいっと竿を引いた。
魚が暴れ、ばしゃり、と水しぶきが上がる。そこで無理をせず、逆らわず、しかし確実に引き寄せて、網でひょいとすくい上げた。
「ふむ。まあまあじゃの」
「巫女様、すごーい。うたた寝しながら、お魚釣っちゃった」
「……なんじゃ、そんなところにおったのか」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、十になるかならないかの少女が、目を丸くして拍手をしていた。
「危ないから、降りておいで」
「平気だよぉ」
明るく笑いながら、少女はぴょんと飛び降りてきて、魚籠の中をのぞき込んだ。
「夕餉は、お魚?」
「そうなるの」
「えへへー、楽しみー。巫女様って、ほんと釣り名人だよね」
「長年の研鑽のたまものじゃな」
「子供のころから上手だったの?」
「いやいや。大人になってからじゃ。十五になるまで不自由ない暮らしをしていたからの。釣りなんてしたこともなかった」
おかげで、旅から旅への生活が始まってから苦労した。
狩りも釣りも苦手だったので、木の実や山菜で飢えをしのいだが、これがなかなかにつらく、人里で供される肉や魚は本当にありがたかった。
「旅の途中で、釣りを教えてもろうたのじゃ」
釣りを覚えると、食事の苦労がだいぶ減った。もしも釣りを教えてもらわなければ、つらい旅が続いていただろう。
「教えてくれたのって、男の人?」
「まあ……そうじゃの」
「一緒に旅をしていたの?」
「……まあ、そう、じゃの」
「ふぅーん、そうなんだぁ、男の人と一緒に旅してたんだぁ」
少女の目が好奇心で輝いた。
やれのう、と肩をすくめる。
最近お付となった近侍の影響か、妙に恋愛事に興味を持ち始めた。まだ子供っぽい好奇心が勝っているが、遠からず恋愛への憧れに変わっていくのだろう。
「ねえねえ、どんな人? かっこいい? 強い?」
「さて、どうじゃったかな」
「むぅ。教えてよぉ。巫女様、とっても美人なんだもん。素敵な恋をしてきたんでしょ?」
「美人と素敵な恋は、関係ないがのう」
「もぉ、ごまかしちゃダメ。おーしーえーてーよー!」
「わかったわかった。ほんに、おませさんじゃのう」
ため息交じりに微笑み、甘えてはしゃぐ少女の頭を撫でてやる。
「まだ九つというのに。珍御子も、そういうところはただの女の子じゃの」
◇ ◇ ◇
りん、と鈴の音が聞こえ、旅の巫女・玲は目を覚ました。
膝に抱えた瓢箪の鈴が、ゆらゆらと揺れているのが見えた。
川沿いに立つ大木に寄りかかり、いつの間にか眠っていたらしい。
(何やら、夢を見ていたような……)
眠気の残滓に揺れながら、玲は首を傾げた。
夢を見ていたことは覚えているのに、内容は日を浴びた雪のように溶けて消えていく。どうにかそれをつかもうとしたが、溶けて流れ落ちた夢は、そのまま流れ去ってしまった。
ぱしゃり、と水音がした。
その音に、玲の眠気がきれいに消えた。
視線を向けると、大柄な男が魚を釣り上げているところだった。
「大漁、大漁、と……おう、巫女殿。起きたか」
「すまぬ、うたた寝してしもうた」
「疲れているのだろう。無理しなくていい。今日はここで野宿しよう」
男は釣り上げた魚を、石に囲まれた水たまりに放り入れた。
のぞくと、十匹ほどの魚がひしめいていた。なかなかの釣り果だ。
「多々良殿は、釣りも得意であったか」
つい先日、山中にある泉で出会った旅の剣士・多々良。
大柄で豪快な男だが、意外に器用で、万事をそつなくこなす。どうやら文字も解するようで、一介の傭兵というわけではなさそうだ。
「必要に駆られて覚えたが、意外にハマってな」
「たいしたものじゃのう」
「どうだ、巫女殿もやってみるか?」
「妾が? いや、それは……」
「なんだ、巫女の掟か何かで、殺生はダメか?」
「そういうことではなくての……」
首をかしげる多々良に、玲はため息交じりに言葉を続けた。
「その……下手での。釣れた試しがないのじゃ」
「はははっ、なんだ、そういうことか」
「わ、笑わんでもよいではないか」
「いや、すまん。では俺が教えよう」
多々良が持っていた釣竿を玲に差し出した。
差し出された竿を見て、玲はどうしたものかと戸惑ったが。
「釣りが得意だと、道中の食事が豊かになるぞ」
「……うまい誘いじゃな」
旅に暮らす身として、日々の食事は切実な問題だ。確かにできるようになって損はない。
玲は多々良から竿を受け取り、川岸に腰を下ろした。
その隣に、多々良が座る。その大きさと存在感、まるで岩のようだな、と玲は感じた。
「では、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げる」
「任せておけ。すぐに巫女殿も、名人と呼ばれるようになるさ」
「うむ、がんばるとしよう」
では、まずは竿の振り方からだな。
多々良の言葉にうなずき、その身振りを真似て、玲はゆるやかに竿を振った。
釣り針が軽やかに宙を舞い。
狙った場所にちゃぷりと落ちて、水面に波紋を描いた。
「おう、うまいではないか。これならすぐ上達するぞ」
「乗せるのがうまいのう」
「何事も、楽しくなければ続かんだろ?」
「確かにの。多々良殿は、よい先生になりそうじゃ」
多々良の言葉に、玲はクククッと喉の奥で笑う。
まるで乙女のように心が弾んだ、久々の一時だった。