前編
無重力空間。白い世界。何もない世界。
桐生政宗は虚空を見ながら漂っていた。
『勇者マサムネ。魔王討伐ご苦労様でした』
反響する女の声。
政宗を異世界に喚び、勇者に仕立て上げた元凶。
女神マティアス。
その声を聞いた政宗は、忌々しげに舌打ちをする。
異世界に召喚されるまでは、神に対して何の興味も抱いてなかった政宗だったが、異世界に召喚されてから今日日までの体験の結果。
神なんて滅んでしまえ。と言う考えに落ち着いた。
『あらあら、だいぶ嫌われたようですね』
「なんだ。好かれていると思ってたのか?」
『神ですからね。嫌われるよりは、好かれる方が良いです。信仰は神の大切なエネルギー源です』
「――1つ言わせて貰えれば、オレがお前を信仰することはない」
『そうですか』
女神マティアスは、気にした様子も無くそっけなく答えた。
勇者とはいえ元々別次元の存在である少年の1人である政宗に、信仰されようが、信仰されまいが、女神マティアスにとってはどうでも良いことである。
「……魔王が言ったことは事実なのか」
『ええ。事実です』
魔王が死に際に語った。
大小合わせて数百を超える国家が存在する世界において、戦争は日常茶飯事の出来事があった。
そんな日々の中で、人々は神へと祈りを捧げた。
祈りは信仰。それは神のエネルギーへと変わる。
戦争は人々が絶望の中において神に祈りを捧げるため、女神マティアスにとってエネルギーが定期的に補充されるイベントであった。
ただ、大戦争に発展すると話は変わってくる。
人が多く死ねば、女神マティアスへ送られる信仰というエネルギーはその分減ってしまう。それは本意ではない。
だから、大戦争が起こらないように、人類共通の敵として魔王を造りだした。
魔王は魔物を創造して、人間達を襲った。
圧倒的な力を前に、人間達は争いを止め、腹の内に色々と抱えながらも、手を取り合い魔王に立ち向かった。
俗にいう人魔大戦の幕開けである。
IFではあるが、女神マティアスの試算では、人魔大戦における総合死者数は、大戦争における死者数の半分程度に抑えることができたらしい。
女神マティアスは言う。
『人間は森林を育むために、伐採と植林をするでしょう。同じですよ』
ただ、女神マティアスに誤算が生じた。
魔王軍が予想よりも強く、人間達が予想より弱かったことだ。
魔王や魔物達は神を信仰しない。どちらかと言えば敵対者。そう女神マティアスが造りだした。
そのため、魔王軍が優勢に立ち勝つと都合が悪い。とはいえ、下手に国に肩入れして、魔王討伐後に権勢を振るい、大戦争に発展されても困る。
そこで女神マティアスは、この世界とは関係ない別次元の別世界にいる者を、この世界に召喚して、魔王軍と戦わせることにした。
それが桐生政宗であり、勇者マサムネである。
強大な魔王軍に対抗するため、女神マティアスは神器や能力を与え、政宗は元の世界に戻るために、魔王軍と戦い、数年後、見事に魔王を討伐した。
そして魔王を討伐を果たした政宗は今。
女神マティアスの領域である神域にいるのだった。
『勇者マサムネ。貴方のお陰で、魔王は滅び人類は平和を享受するでしょう』
「……どうせ束の間だろう」
『ええ。人は争う生き物です。必ずまた人類同士で戦争を起こすでしょうね。そう遠くない未来に。そして私はまた大戦争に発展する前に、また魔王を造り出します』
結局の所。
あの異世界は、人間も、勇者も、魔王も、ありとあらゆる生き物は、この女神マティアスの掌の上で動く駒でしか無い。
政宗は溜息を吐いた。
魔王を斃した時点で、勇者としての役目は真っ当した。後の事はあの世界の住人がどうにかするべきことだ。所詮、政宗は別次元の存在でしかない。
「もういい。それよりも、魔王を斃したんだ。約束通り願いを叶えてくれ」
『いいですよ』
「オレの願いは3つだ。約束の時、1つとは言わなかったんだ。それぐらいは良いだろ」
『……まあ良いでしょう』
「1つ。今後一切、オレが生きている間は、一切干渉しないでくれ」
『わかりました。ただ、私はあくまであの次元のあの惑星の神でしかありません。他の次元の、或いは別の星の神が干渉かる可能性は0.000000001%以下ですが、あることには変わりありませんので、その際は私を怨まないで下さい』
つまり同等の神がどうするかまでは、分からないと言うことだ。
政宗としては、こんな異世界で大冒険などという体験は、一生に一度あれば十二分だ。
女神マティアスが干渉しなければ、厄介事に巻き込まれる事はないと考えた。
「2つ。オレがお前に召喚された同日同時間に戻してくれ。ただ戻されて別時間軸で、浦島太郎状態にされるのは御免被る」
『承知しました』
神――と言うか、女神マティアスの好い加減さは、身に染みている政宗は、きちんと確約させる。
万が一、同じ世界に戻されたとして、それが100年先、1000年先、もしかしたら某漫画のように世紀末のようになった所に戻されたら目にも当てられない。
「最後……3つ目。魔王の娘――魔王令嬢を、オレの義妹にしてくれ」
『――は?』
それは政宗が初めて訊いた、女神マティアスの呆気にとられた声だった。
******
「――さん。兄さん」
朝日が閉めてあるカーテンの隙間から差し込む。
ベッドで眠っている政宗の身体を揺すって起こそうとしているのは、義妹である桐生澪華。
黒い髪は腰の所まで伸ばしていて、頭にはカチューシャを付けている。
「……れいか?」
「はい。おはようございます、兄さん」
目を覚まし、上半身を起こした政宗は、ベッド脇にある小さな台の上にあるスマートフォンを取って時間を確認する。
「ゲ。もうこんな時間か」
「珍しいですね。兄さんが寝坊するなんて」
「……イヤなヤツの夢を見てたからなぁ」
「イヤなヤツ、ですか?」
誰か想像がつかないのか、可愛らしく首を澪華は傾げた。
政宗は苦笑いをすると、澪華が手に持っている物が気になった。
「……レイ。その手に持っているのは」
「母さんが、兄さんを起こしに行くなら、これを持って行きなさいって渡してくれたの」
澪華が手を広げて持っている物を政宗に見せた。
それは薄い正方形の用紙。中央に丸い物が入っているのか凹凸が出来ている。早い話がコンドームである。
(あのババア。何を考えてるんだ!)
母親に対して悪態を付く政宗。
スマートフォンでSNSアプリ「LIFE」を開いた政宗は、母親である桐生美咲に向けてメッセージを送る。
MASAMUNE
【おい。レイに何を渡してるんだ!!】
MISAKI
【政宗。澪華は義理とはいえ妹よ。生でするなんて許さないわ。ただ、するなとは言わないから、するならコンドームをつけてしなさい】
MASAMUNE
【するか!!】
怒りのスタンプを送り、アプリを閉じた。
スマートフォンを思いっきり投げたい衝動に駆られたが、最近、二年契約で機種変更したばかりなので、流石に投げて壊すわけにはいかなかった。
政宗は顔に手を当てる。
「……大丈夫、兄さん」
「あ、ああ」
早朝から頭が痛くなる事が起きたものの、政宗は大きく深呼吸をして整える
「あー、レイ。それは待っていろ。好きな人が出来たら、まぁ、使うことになるだろうからな」
最近の中学生の保健体育は、割と進んでいると政宗は耳にしたことがある。
特にSNSの進化と共に未成年者が性犯罪に巻き込まれる事が多くなった事で、性に対して防衛を身につける観点だとか。
学校によって教える内容は違ってくる。
政宗が通う私立皇華学園は保健の授業に手を入れているが、生粋のお嬢様校である澪華が通う私立有栖川学院はそこまで本格的には教えてはいなかった。
「――好きな人。兄さんなら、こんなもの付けずに、そのままでも」
「レイ。何か言ったか?」
「…………なんでもない」
ちょっと拗ねたような声を出した澪華は顔を背ける。
「それじゃあ着替えるから出て行ってくれ」
「私達は義理とはいえ兄妹。別にいいと思う。昔、一緒にお風呂にも入った」
「――それは捏造された記憶だ。分かってるだろ」
「……」
澪華は何も言わずに黙る。
桐生澪華。
本名、レイリア・カレンドスター。異世界において魔王の娘、魔王令嬢。
政宗が小学2年生の時に桐生家に養子として来て以来、ずっと一緒に本当の兄妹のように育ってきた――という因果改変が行われた。
そのため政宗と澪華及び家族を含めた関係者には、因果改変によって発生した事象が記憶させられていた。
確かに政宗にも、幼い頃に澪華と一緒にお風呂に入った記憶は朧気ながらはある。ただ、そんな事はありえはしない。
政宗とレイリアがこの世界に戻ってきたのは半年前。レイリアが澪華として、政宗の義妹になったのも、その時からだ。
澪華は無言で立ち上がると、背を向けて部屋のドアまで歩いて行くと言った。
「……そろそろ支度しないと遅刻する。待ってるから早くして」
政宗の返事を訊かずに、ドアを開けて出て行く。
そして政宗は、起きてから何度目かになる溜息を大きく吐いた。
「色々と難しいよなぁ。難聴系主人公の真似事をするのも。――まぁ、最近の肉食系主人公を真似るよりは全然マシだけど」
耳は悪くないので、至近距離で言われた言葉はしっかりと聞こえている。ただ、政宗は澪華の気持ちに応える気はなかった。否、応えられないと言った方が正しい。
政宗は異世界で、澪華の父親である魔王ルシファレム・カレンドスターを斃した。澪華――レイリアの目の前で、だ。
(家族なんだ。敵意よりは、好意を向けられた方がいいに決まってる)
ただ、政宗はたまに思わずいられなかった。
「魔王ルシファレムを卑劣な手で殺した殺人者」と、罵られた方が、まだマシだと思える時がある。
澪華に好意を向けられる度に、そんな資格は自分にはないと、政宗は思わずにいられない。
レイリアを澪華とした義妹にしたのは、魔王ルシファレムの遺言だったのと、政宗自身が澪華に対しての贖罪と澪華から罰を受けたいというエゴがあった。
しかし異世界から帰還して半年が過ぎた今でも、澪華は政宗を責めるどころか、たまに先ほどのような義妹の一線を越えた好意を向けてくる。
(オレには澪華と恋人になる資格はない。……恋人でも作れば、澪華も義兄離れするかもしれないな)
政宗はレイリアを澪華として義妹にした時に決めていた事がある。
自分の倖せなんかよりも、必ず澪華を倖せにしてみせる、と。
しかし、他者を倖せにすると言うのは中々にして難しいものであった。
(……とりあえず制服に着替えるか。澪華を待たせて、機嫌を悪くするのも気が引ける)
ベッドから起き上がると甚平を脱ぎ捨て、制服に着替えるのだった。
******
私立皇華学園。
全校生徒が3000人を超える幼稚園から大学院まであるマンモス校。
かつては貴族・士族を教育する学校であったが、時代は流れ、今では一般庶民も数多く通うようになっていた。
この学園の理念は、「常に子供に新鋭・最新の学問を学ばせること」
学校の授業の8割はタブレットかノートパソコンが使用され、黒板もチョークではなくタッチペンで記入する仕組みになっていて、それを授業に出席している各生徒の端末に送信する事ができた。
また、現在でも親が権威を持つ子供が多数通っているため、学園のセキュリティーは国内屈指であった。
校内のいたる所に監視カメラや、様々な種類のドローンが見回りをしていた。
更にインターネット社会であるため、イジメ対策として専門の弁護士が常駐したり、裏サイトやSNSを監視する専用のサイバーセキュリティ部署まである。
広大な敷地の一角に立つ建物。同好会棟。
地上10階建で部屋数は100近くあるものの、ほとんどが埋まっている状態であった。
私立皇華学園は正式な部活動として認める条件として、顧問の確保と部員数10名以上である事と決められていた。多くの生徒数がいるとはいえ、その両方をクリアー出来る部活或いはサークルは無く、結果として同好会が溢れる事になっていた。
その溢れた中でも、正式な部活動認定条件のどちらかをクリアーする事が条件だが、どちらかの基準を満たすことが出来れば、同好会棟を使用できた。
正式な部活動は、部費が支給されるが、同好会には部費は支給されない。また同好会に限らず部活動は、活動報告を月末に提出する形になっている。
政宗が所属している同好会もまた同好会棟にあった。
10階の左端にはる部屋の前には、『武闘同好会』と書かれたプレートが飾られていた。
『武闘同好会』は部員数は、10人に満たないが、顧問を用意出来たため、同好会棟の使用を許可されている。
顧問は百鬼萃。私立皇華学園の用務員をしている男性だ。
異世界から帰還した春。
これまでの約五年を異世界で魔物達と死闘を繰り広げていた政宗は、身体を動かす機会の無い日常に退屈を感じていた。
そんな時に、実家が道場で武術を教えている幼馴染みの九頭竜拳志郎に誘われて、『武闘同好会』に入った。
ルールという縛りがあるとはいえ、闘うという行為は、退屈していた政宗にとって十分に退屈凌ぎになるものだった。
初めはグランドの脇に集まって活動をしていたが、雨天の時などは活動中止になるため、同好会棟が欲しいということになる。とはいえ、新入部員は中々に集まらない。剣道部、柔道部、ボクシング部などの正式な部活に入っているからだ。
人数10人以上を達成できない以上、顧問を用意するしかない。
ただ、これも難航を極めた。元々、ほとんどの教師は顧問を引き受けていて、顧問になつていない教師は、事情があって引き受ける事は困難だからである。
行き詰まっている時に、出会ったのが萃だった。
異世界でさんざん修羅場を潜ってきた政宗は、萃が強いことを確信して、勝負をしかけた。「勝ったら同好会の顧問をして下さい」と。
結果。政宗が勝った。――萃はある人物のボディガードをしている事もあり確かに強いが、魔王を斃した政宗には及ばない。そもそも互いに本気は出してはいなかったが。
生徒会長の花京院涼香の許可も下りた事で、『武闘同好会』は同好会棟の部屋を1つ手に入れる事が出来たのだった。
閑話休題
政宗は学校指定のジャージに着替え、拳志郎と組み手を行っていた。
本気ではなく、軽く身体を温める程度。
だからか、政宗は拳志郎に対して訊いた。
「なあ、ケン。彼女ってどうすれば出来ると思う?」
「――ッ。思いっきり拳を放ちながら訊いてくる事かよ!」
「これも練習だ。会話してて、実力が発揮できませんでしたって言うのは格好悪いだろ」
拳志郎は政宗の攻撃を紙一重で避ける。
(政宗のヤツ。本当、いつのまにこんなに強くなったんだ!)
政宗と拳志郎は幼馴染みだけあって付き合いは長い。
だが、そんな関係でも政宗は「異世界に行って魔王を斃した」と言うことは言えていない。言ったところで冗談だとされるのがオチである。
5年近く魔王軍と常に死と隣り合わせの死闘をしてきた政宗は、戦闘経験値をかなり得ている。もしステータスが存在する世界なら、転移前レベル3ぐらいだったのが、転移後レベル90ほどに上昇している感じだ。
政宗も転移前から身体を鍛える意味合いもあって、拳志郎の所の道場へ通っていた。
だからこそ、拳志郎は政宗の急激に強くなった事に驚きを隠せなかった。政宗本人は力を抑えているつもりだが、所々でどうしても達人張りの動きをしてしまう。身体に染みついた習性みたいなものだ。
「そもそも俺に訊く事か。自慢じゃないが、俺もお前と同じ、年齢=彼女居ない歴なんだぞ」
「……そうだよなぁ」
「第一、なんでいきなり彼女が欲しいなんて言い出したんだ?」
「レイがブラコン過ぎるから、彼女が出来たら少しマシになるかと思ったんだ」
「ああ。澪華ちゃんか。確かずっとお前の側にいるもんな。それでついた渾名が「シャドウシスター」だったか」
「…………ああ」
小学校のころ、政宗がいる所にずっと影のように付いていく事から、澪華は「シャドウシスター」と呼ばれていた。政宗の両親が思うところがあったのか、中学校からは別々の所に通うことなったのだが。
ただ、それは女神マティアスがした因果改変による偽の記憶。
否定する気は起きないが、逆に肯定する気も政宗には無かった。
「それに澪華ちゃんの事をブラコンみたいに言うけど、お前も重度のシスコンだからな? まずは妹離れをしないと彼女はできねぇぞ」
「――そんな事はない」
「それじゃあ訊くが、もし澪華ちゃんが彼氏をつれてきた時、お前はどうする?」
「普通にバトって実力を確かめる。オレより弱いなんて論外も良いところだ」
「……十二分にシスコンだな」
拳志郎は溜息を吐いた。
どこの世界に、妹の彼氏に闘いを挑んで実力を確かめる兄がいるのかと問い詰めたいが、政宗が澪華の事を大事に思っている事は知っているので、ツッコミはいれない。
「それは置いておくとして、彼女か――。姉貴はどうだ?」
「龍姫さん、か」
九頭竜龍姫。
拳志郎の双子の姉。双子と言うことで、どっちが姉か兄かは、昔は言い争っていた。しかし、色々とあり高校入学した辺りから拳志郎は、龍姫を「姉貴」と呼ぶようになった。
また格闘センスに優れており、拳志郎は秀才型だが、龍姫は天才型。
並の男では相手にすらならないほどの強さがあった。
「弟のオレが言うのもなんだが、家事全般は出来るし、同年代の女子と比べると巨乳でまぁ美人の方だ。しかも、今まで浮ついた話は無かったから、たぶん処女だ!!」
「……お前、俺にシスコンって言ってなかった。十二分にお前も」
「外面は完璧だけど、家だとぐうたらしてるし、弟のオレをパシリ扱いするし、弟のオレからしたら迷惑極まりない内弁慶ぶりだけどな!!!」
「け、ケン。分かった。とりあえず黙った方がいいぞ?」
「外では格好いい女子で通ってるみたいだが、部屋を見た事あるか? かなりファンシーだぜ。特にベッドにある熊の抱き枕を抱いてないと寝られないみたいで」
「ほう、我が弟くんは、どうやら少し口が軽いようだ。矯正する必要があるみたいだな」
拳志郎は背後からする声に身体を震わし、地面を蹴り、政宗の後ろに隠れる。
部室に気配遮断して入ってきたのは、拳志郎の姉、龍姫だった。
上半身は白の体操着で、下半身はジャージではなくスパッツを履いている。曰く、ジャージよりもスパッツの方が動きやすいから、らしい。
髪は運動するためか纏めてポニーテールのようにしていた。
顔は笑顔だが圧が凄く、漫画なら「ゴッゴッゴゴゴ」のような擬音が出ておかしくない感じだった。幼馴染みの政宗から見ても、怒ってるな、と感じられた。
「い、いや、弟として、姉貴にも恋人の1人ぐらい居てもいいんじゃないかと思う、健気な弟心でな!」
「そうかそうか。私は姉思いの弟をもって倖せだ。――感謝の気持ちを込めて、たっぷりお礼をしようじゃないか」
「あ、おい、政宗、助けろッ。そもそもお前が彼女欲しいなんて言い出した、」
「あ、悪い。バイト先からの電話がかかって来たみたいだ」
政宗は壁際の長椅子の上に置いてあるバックから着信音が鳴っていたため、龍姫から盾にされている拳志郎の元を離れた。
着信音は政宗が週末に、たまに駆り出されるバイト先からの連絡に設定してある音である。
そのため平日にかかってくる事はほとんど無く、連絡がある場合は、何かしらのトラブルが起きたものと考えて間違いなかった。
どんな厄介事かと思い政宗は、バックからスマートフォンを取り出して応答しようとした矢先に途切れ、代わりにSNSアプリ「LIFE」に受信された。
「――ケン、龍姫さん。悪い。急用が出来た!!」
政宗は慌てていたためか、鞄を持たずにスマホだけを手にして部室を出て行った。
部室から出た政宗は、スマホの電話帳を開いて電話を掛ける。
「百鬼さん! 大変だ。神奈お嬢様と、――澪華がコンビニ強盗に出くわした!!」
*******
政宗が花京院神奈から緊急通知を受ける30分ほど前。
賑やかな大通りから脇に逸れた路地裏は、建物と建物の隙間のため、日中でも薄暗い。
50近い年齢の男は煙草を吸っている。足下には30近い男が踏みつけられていた。柄のついたシャツの隙間からは入れ墨が僅かに覘いている。
「や、まじさん。勘弁して下さい、よ」
「こっちも仕事なんでね。さっさとゲロッちまいなよ」
「……」
「別にお前達を逮捕しようって訳じゃねぇさ。こっちの目的は、逃走中の男――悪津重護なんだ」
宮永山路。警視庁刑事部特殊犯捜査第五係に所属している巡査部長である。
第五係は他の特殊犯に係る重要特異な事件や特命事件の捜査を遊軍的な行う部署であり、山路も今回の件で駆り出されている身であった。
逃走犯、悪津重護の捜索だ。
一ヶ月ほど前に起きた百鬼萃を誘拐して、花京院涼香を誘き出して殺そうとした事件。
特殊合成ドラッグ『CHIMERA』が使用された事と、三大財閥の一つ花京院家の次女を殺害しようとした事の主犯とした逮捕されたのが、悪津重護であった。
『CHIMERA』の後遺症で無気力状態だった重護は、突如としてトイレの壁を破壊して逃走した。
報告によればトイレの壁を破壊した時の重護は、化物のような姿をしていたという。抜けきったと思われていた『CHIMERA』の効果が、まだ残っていたようである。
「上からも必ず捕らえろって言われてるのさ。花京院を殺そうとした相手を、まんまと逃がして、また花京院家に被害を与えてみな。――どうなるか」
「ぐっがぁ、ぁっっぁぁあ」
「だからさ。なんで、天網会が、悪津重護を探しているのか、吐いてくれよ。――暴対法とか色々とシノギが厳しくなっている中で、警察と衝突は避けたいだろ」
「わ、わかっ、た。言う。言うから、足を、除けて、くれ!!」
山路は男を踏んでいる足を外した。
例え態勢を立て直して逃げようとしたも、捕らえる自信が山路にはあった。
男は苦しさから解放されたのか、ゲホッゲホッと咳をしながら背中を壁に預けた。逃げる気は更々無い。もし逃げたりしたら、余計に痛い目に遭うのは想像に難くない。
「――悪津のヤツは、組の取引を邪魔したんッスよ」
「天網会のか?」
「ええ。悪津が所属していたのは、天網会直系の組だったので、取引に関する場所はだいたい分かってたんでしょうね」
男は言う。
悪津重護が警察署から脱走してから数日後に、天網会とある組織との取引が行われる場所に、重護が襲撃をかけた。
その場にいた天網会組員は死者と重体の者ばかり。更に取引先の組織にも被害が出たことで、その組織から突き上げもあって、天網会は重護を捕らえようとしていた。
「――取引か。重護は取引のブツを取ったんだな」
「……」
「おい」
「ええ。そうです。オフレコにお願いしますよ。悪津のヤツは、端っから取引のブツを強奪するつもりだったようッス」
「何が取引されてたんだ」
「――山路さんも取ってるでしょう。オレは天網会の中でも末端。何が取引されているかなんて」
「お前なら知ってるだろ」
「…………噂程度なら」
「それでいい」
「噂では、取引していた組織は『CHIMERA』の最新作を卸すようにしていたようで……」
特殊合成ドラッグ『CHIMERA』は様々なヴァージョンが存在する。
その成分は不明な部分が多く、科捜研でも鑑定が困難であり、警察庁の科学警察研究所ですら不可能であった。
そこで山路は知り合いの何でも屋、阿頼耶識輝夜に鑑定を頼んだ。正直に言って、出来るだけ関わり合いになりたくないが、科学警察研究所でも困難であれば、非科学的な物である可能性が高く、そういう物の鑑定は輝夜に頼るしか無かった。
『えーと、成分は「ローヤルゼリー」「蜂蜜」「砂糖」「カフェイン」』
『お前に頼んだのは、栄養ドリンクの鑑定じゃねぇぞ?』
『最後まで訊きなよ、これだから50過ぎのおじいちゃんは』
『まだ40代だ』
『四捨五入すれば50代じゃん。続きだけど、「オーガ」「コカトリス」「ゴブリン」「ワーム」などなど多種多様なモンスターの血肉と骨。それから効果が最大限に発揮できるよう術式が組み込まれてた』
正直、山路はオカルト方面の知識は乏しい。
輝夜曰く、『CHIMERA』を服用した者は、術式によって含まれているモンスターの細胞が活性化され、服用した人物の細胞と融合。人体を『CHIMERA』に含まれている素材のモンスターに作り替える作用があるとのこと。
ただ一時的とはいえ、人体を別生物に作り替えるのである。副作用も多い。無気力化や、自我暴走など、様々なデメリットが確認されていた。
それが俗に言われるヴァージョン1.0。
ヴァージョン1.5は『CHIMERA』の効果が薄められている分、副作用も限定的。
現在、主流なのがヴァージョン2.0
人体変化は肉体の一部に限定され、何かしらの異能が付与されタイプだ。付与される異能はランダムであり、服用する度に変わるというデメリットもある。またヴァージョン1.0と比べると副作用は軽減されたものの、ヴァージョン1.5に比べると高い。
重護が奪ったのは、まだ出回っていない最新作だと言うことだ。
山路は男から更に聞き出そうとした時、スマホが鳴った。山路は懐からスマホを取り出して、相手を確認すると電話に出た。
「もしもし」
『山路さん! 今、何処にいるんですかッ』
「野暮用だっていったろ」
電話の相手は、山路が相棒として組まされている女性、白雪冬月。
まだ20歳半ばでありながら、優秀な人物。山路のお目付役兼監視役を任されている(押し付けられている)。とはいえ、倍以上生きている山路からすれば、まだ小娘の域。多少は手間取るが、捲く事はそう難しくはなかった。
『大変なんです!』
「この世で起こる事は大抵は小事って言ってるだろ」
『いやいや、本当に大事なんですってば。悪津が、悪津がですね。コンビニに立て籠もりました!』
「悪津が、コンビニに立て籠もり?」
『はい。特殊第1係からの要請で、私達も臨場するようにとのことです。――まだ公にはされてないですが、人質に花京院家のご令嬢がいるようです』
「……あー、確かに大事だなぁ。分かった、直ぐに向かうから、住所を送ってくれや」
『了解です』
山路は通話を切ると、直ぐに地図付きの住所が送られてきたので見る。
ここからだと走って1時間ほどの場所にあるコンビニのようだ。
大きく溜息を吐くと、山路は男を一瞥することなく目的の場所へ向けて走り出した。
山路の背中が見えなくなった事を確認した男は、ダメージがないかのように立ち上がり、ズボンのポケットに入れたスマートフォンを取り出してどこかへと電話をかけ始めた。
「あ、もしもし、俺です。悪津のヤツ、コンビニで立て籠もりをしたそうです。『CHIMERA』案件ッスから、情報統制はされるでしょうね。え、俺も、そこに行って、情報を逐一報告しろ? あーはいはい。人使いが荒いッスね。あ、いえ、分かってますってば」
男はスマホの通話を切ると、再びズボンのポケットに戻す。
そして両手を顔面に当てる。すると肉と骨が音を立てて変化していく。
僅か1分足らず。両手を顔面から外すと、そこには別の顔をした男が立っていた。
通称、ニャルラトホテプ。
その男は無貌故に千の貌を持つとされる神の名を取り、そう呼ばれていた。