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 その日は、初春のまだ肌寒い日だった。

 私は城の中庭にある池の傍にいた。

 別に何か特別な理由があったわけではない。ただ、なんとなくだ。

 僅かに揺らぐ水面には、能面のような生気の無い私の顔が映っている。

 そんな自分の顔が気に入らなくて、足元にあった小石を水面に投げ込んでいた。

 突然背後から加えられた衝撃と共に、私は池の中に突き落とされた。

 城の中庭にあるその池は、大人にとっては大した深さではないが、当時十歳にも満たなかった私にとって、全身ずぶ濡れになるには十分な深さだ。

 パニックになりながら身体を起こした私の目に飛び込んできたのは、私の醜態を指さし大笑いしている城仕えの侍女達だった。


「姫様~? 水遊びには少し時期が早いのでは無いですか~?」

「あはははは!」


 すっかりずぶ濡れになった私は、哄笑する二人の侍女を呆然と見上げていた。

 表向き、私の御付ということになっている侍女達だった。

 彼女達に池に突き落とされたのだと気づくまで、少し時間がかかった。


「むかつくわ。ここまでされても顔色一つ変えやしない」

「ほんとに人形なんじゃないの、こいつ」


 そんな冷笑を浴びせられるのはいつもの事だった。同じようなことが何度も続くうちに、疑問や恐怖は希薄になっていき、まるで他人事のように、半ば考えることを止めていた。その頃の私は、表情だけではなく、感情も失くしかけていたのかもしれない。

 その時も、怒りや恐怖を感じるよりも、寒くて冷たいし、早く上がりたいという感情しか湧き上がって来なかった。

 特に、表向き私の御付の侍女ということになっているこの二人からは、日常的に陰湿な嫌がらせを受けていた。

 無視して池から上がろうとしたが、そんな私の態度が気に入らなかったのか、身長だけではなく横幅も広い二人の侍女は、厭らしい笑みを顔に張り付けたまま、池から上がろうとする私を足蹴にする。

 私が再び池に転落し、水飛沫が上がるそのたびに、周囲からは笑いが起こった。

 まだ春先で肌寒い季節だったうえに、全身ずぶ濡れの状態で腰まで水に漬かっていた私の身体は、急激に冷えていった。

 自分の肩を抱いて寒さで震える私を見下ろす彼女らの蔑んだ目は、数年経った今でもはっきりと覚えている。たぶん、死ぬまで忘れることは無いだろう。

 暫くの間そうしていると、不意に潮が引くように嘲笑の波が引いていった。

 何だろうと顔を上げると、廊下の向こうからのそりと姿を現した大柄な人影があった。

 それは、 二本足で立ちあがった狼のような外見と身体能力をもつ種族。狼人だった。

 狼人は、人間とは異なり、産まれてからほんの数年で、人間でいう青年くらいに成長するので、実年齢が分かりにくい。もしかしたら、それほど年長ではないのかもしれない。服装からすると、お爺様の小姓か供回りだろうか。

 衣服に覆われていない部分から覗く、黒曜石のような漆黒の毛並に包まれた美しいしなやかな体躯と、こちらを見つめる琥珀色の瞳に、私は水の冷たさも忘れ、魅入られたように、彼の精悍な顔をぼうっと見つめ返していた。

 突然の闖入者に侍女達は戸惑うように互いに顔を見合わせている。

 狼人の男は、ゆったりとした足取りで彼女らの間を抜け中庭に降り立つと、大股にこちらに歩み寄って来た。


「な、なによ、あんた……」


 侍女達よりさらに頭一つ分ぐらい高いその姿に、私を池に突き落とした侍女は、顔をひきつらせた。

 次の瞬間、その侍女は、身体を「く」の字に折り曲げるような体勢で、軽やかに宙を舞った。

 綺麗な放物線を描きながら私を飛び越え、池の中ほどへと落下する。形容しがたい悲鳴と、激しい水飛沫が上がった。

 私は呆気に取られて、その所業を仕出かした人物の顔をただ見上げていた。


「ひっ! い、いきなり、何を……ぶぐおっ!」


 もう一人の侍女が鉄砲玉のように飛んだ。

 達磨のような体を綺麗な「く」の字に折り曲げ、狙いすましたかのように、池の中ほどでようやく立ち上がろうとしていたもう一人の侍女と派手に衝突した。

 再び激しい水音と悲鳴が中庭に響き渡った。

 立て続けに起きる出来事に頭がついていけない私は、一部始終を阿呆のように眺めていることしか出来ないでいた。

 それは私だけではなく、周りで成り行きを見守っていた侍女達も同じだった。


「おい。笑わないのか」


 狼人は居並ぶ侍女達を見渡し言った。


「おい、お前。笑えよ。何故笑わないのか」


 そう言いながら彼は、たまたま目が合った侍女の一人にずかずかと歩み寄って行った。ひっと息を呑み、不運なその侍女は身体を竦ませている。

 私はその隙に、ようやく池から這い上がることが出来た。水を吸った着物が、重く冷たく身体に張り付いて気持ち悪い。


「なぜ笑わない。お前達はこの娘が池に突き落とされるのを見て笑っていたじゃないか。同じことをしてやったんだぞ。さあ、笑えよ。さっきみたいに。欠伸する黄金絹毛鼠みたいに大口開けてよう」


 上背のある狼人に上から()め付けられて、先程まで私を笑いものにしていたその侍女は、気の毒なぐらい震えていた。

 狼人の面差は、まごうことなき野生の狼そのものだ。

 そんな凄みのある顔に間近に迫られれば、大抵の人間はこの侍女と同じような反応になるだろう。

 ちなみに、黄金絹気鼠とは、新しもの好きのお爺様が、外国(とつくに)より取り寄せた、尻尾の短い黄金色の毛皮の鼠だ。頭が裏返りそうな大きな欠伸をする。見た目は、前世ではペットショップでもよく見かけるゴールデンハムスターによく似ている。


「なあ、何で笑わないんだ。なあ。教えてくれよ、なあ」


 それを知ってか知らずか、狼人の彼は、息が掛かるほどに顔を近づけ、なおも執拗に尋ね続けた。


「ああ、そうか」


 突然何かに気付いたように声を上げるや否や、再び中庭に降り立った。

 私の傍を通り過ぎると、池から上がろうとしていた侍女二人を池の中に蹴落とした。

 再び悲鳴と激しい水しぶきが飛び散る。


「これでどうだ。さあ、笑え。この娘と同じようにしてやったんだぞ。笑え。笑えよ」


 当然、誰も笑わない。恐怖に顔を引き攣らせて震えている。

 私は泣き叫ぶ侍女を機械的に池の中に突き落としている狼人の元に歩み寄った。

 彼の手を引くと、侍女を足蹴にするのを止め、私を振り返った。

 縦長の琥珀色の瞳が、とても綺麗だと思った。

 その瞳をじっと見つめていると、今まで感じたことのない不思議な感情が湧き上がってくる。


「お前も笑っていいんだぞ」


 私はゆっくりと(かぶり)を振った。もういいです、十分です。という意味を込めて。


「いったい、何事だ。騒々しい」


 低いがよく通る声が廊下の向こうから響いた。

 供の者を引き連れて現れたのは、私のお爺様だった。

 隼人藩現当主であるお爺様は、猛禽のような鋭い眼光で中庭を睥睨した。

 齢七十に達しようとしているお爺様だが、未だに隠居せずに藩主を務めているだけあり、その威圧感は半端ではない。

 視線に射すくめられた侍女達が、怯えるようにその場に畏まるが、狼人の彼は全く意に介さず、泰然としていた。


「摩耶! その恰好はいったい何だ!」


 濡れ鼠状態の私に視線を止め、お爺様は目を丸くした。次いで眦を釣り上げると、足早にこちらに歩み寄って来た。


「ん? 摩耶……? もしかして、お前が摩耶姫か?」


 私の顔を覗き込む彼を見上げ、しっかりと頷いた。


「なるほど。お前さんが噂の人形姫か。道理で不愛想だと思った」


 狼人の言葉に揶揄するような響きは無く、悪意や哀れみは感じられない。ただ自分の思ったことを、そのまま言葉に出しただけという感じだった。

 一応は藩主の孫娘である私に対して、随分とぞんざいな口の利き方だったが、不思議とあまり気にならなかった。


「三笠。何があった。説明せい」

「ああ、御屋形様。詳しい話はそこの力士共に聞いてください」


 三笠というのが、この方の名前らしい。

 三笠様は顎をしゃくった。

 力士というのは、私を池に突き落とした二人の侍女の事らしい。確かに横幅はかなり広いが、力士呼ばわりはあんまりだと思う。


「わしは、お前に説明しろと言ったのだ」


 ぞんざいな態度に、お爺様は苛立ったように三笠様を睨みつけた。

 並の者なら震え上がるような鋭い眼光を全く気にも留めず、私に視線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。

 三笠様はおもむろに私の着物の襟に手を掛けた。

 いったい、なにをするのだろうとぽかんとしていると、突然着物を引き裂き始めたのだ。

 侍女達が悲鳴を上げ、お爺様が目を剥いた。

 私もどう反応して良いのかわからず、呆けたようにされるがままになっていた。

 水を吸って重くなった着物だけではなく、その内側の襦袢も引き裂かれ、私は殆ど裸同然のあられもない姿にされてしまった。


「み、三笠! 貴様、何をしているのだ!?」

「何って。水を吸った着物をいつまでも着ていたら、風邪をひいちまうでしょう」


 詰め寄るお爺様に事も無げに言い放つと、自分の上着を脱いで私に被せた。

 ただ被せるだけでなく、濡れた髪を乾かすようにわしわしと頭を拭いてくれた。


「んん……?」


 三笠様は、何かに気付いたように、私の身体を凝視した。

 殿方にまじまじと肌を見つめられるという初めての経験に、私は気恥ずかしさを覚えた。


「怪我してるじゃないか、姫様」

「なんだと?」


 お爺様が眦を釣り上げた。


「青痣や擦り傷が結構あるな。昨日今日つけられたものじゃない。治りかけのものもある」


 私の手足だけでなく、胸や腹などに無遠慮に手を這わせ、独り言のように呟いた。

 確かに、私の身体は傷だらけだ。

 侍女からは、言葉だけではなく、今回のように直接的な暴力を振るわれることも少なくなかった。

 口が利けないこと、城内に味方が居ないことを良いことに。


「これは、火傷の痕じゃないか」


 脇腹のあたりに手を這わせた三笠様が、呻くように呟いた。

 そういえば、過去に焼け火箸を押し付けられたこともあった。

 それをやった侍女は、痛みに悶える私を見下ろし、無表情に転げまわって気持ち悪いと足蹴にしていた。


「御屋形様。そいつらには、色々と聞くべきことがあるようですな」

「そのようだな。だが、まずは摩耶を着替えさせねばなるまい」

「そうですね。俺が風呂に入れてきましょう」

「たわけが!」


 どこまで本気なのかわからない三笠様を一喝し、お爺様は供をしていた年嵩の侍女に、私の湯浴みと着替えを命じた。


「ささ、姫様。こちらへ」


 侍女は三笠様をキッと睨みつけた後、私を促した。

 肩越しに後ろを振り返ると、私を池に突き落とし、池に突き落とされた二人の侍女が、彼を指さしながら何か喚き散らしているのが見えた。

 これが、兄様と私の出会いだった。

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