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「…………っあ!」
私は雷に打たれたかのように身体を強張らせた。
本当に突然すぎる出来事だった。
何の前触れもなく、私は思い出してしまった。
いわゆる、前世の記憶というものを。
よりによって、なぜ今更思い出してしまったのだろう。
今の私にとって、もはや一切関係のないことなのに。
しかも、よりによって、兄様と睦合っている最中になんて最悪だ。
「摩耶、今日はどうしたんだ?」
事が済み、兄様の腕に抱かれて火照った身体を鎮めていると、兄様が心配そうに顔を寄せてきた。
精悍な野生の狼そのものの兄様のお顔は、とても美しく勲しい。
『いいえ。なんでもありません』
兄様に心配を掛けたくなかった私は、とっさにそう唇を動かした。
言葉を話すことができない私だが、兄様をはじめ、周囲の人々には読唇術の心得がある。
そのおかげで、意思の疎通にはそれほど不自由はしなかった。
「俺に嘘を吐くのは感心しないな。正直に言うんだ」
『どうして、そう思うのですか』
即座に看破されたことに少し動揺しつつ、私は唇を動かした。
「果てる時の様子がいつもと違っていた」
「―――っ!!」
「いつもなら、ぎゅっとしがみ付いてくるはずなのに、動かずじっとしていたからなぁ」
一瞬にして頭に血が上った私は、両拳で兄様の胸を何度も叩いた。
兄様は愉快そうに笑いながら、私にされるがままになっている。
「それで、本当のところはどうなんだ、摩耶」
私の髪を撫でつけながら、兄様は再度尋ねた。
琥珀色の目が僅かに細められ、縦長の獣の瞳が私を見つめる。
優しく諭すようでありながらも、一切の嘘や誤魔化しは許さないと語っていた。
兄様から一瞬目を逸らし逡巡した後、私は正直に打ち明けることにした。
『私、思い出したのです』
「思い出した? いったい、何をだい?」
『前世のことをです、兄様。いえ、先輩』
兄様は、目を見張った。
「……いつからだ?」
『たった今、です。フラッシュバックみたいに、唐突に思い出しました』
「……そうか」
それっきり、私達はしばし無言になる。
「俺を恨んでいるかい?」
兄様の言葉に、私は軽く首を傾げた。
恨む? 兄様を? 何故……?
「前世のお前は、俺のせいで命を落としたんだ。そのことは、恨んでいないのか?」
ああ。そういうことか。
死んだ直後から意識が続いていたのなら、もしかしたらそんな感情も生まれたかもしれない。
けれども、私は私として、この世界に生を受け、この世界の人間として生き、兄様と出会い結ばれた。
今の私に、前世の記憶なんて関係ない。
『兄様を恨むなんて、そんな気持ちは欠片もありません。それに、今は兄様に大事にしてもらっているし……』
「そうか」
兄様はどこかほっとしたように口元を緩めた。
『兄様は、あの後、どうなさったのですか?』
私が俺だったあの時、私は兄様――先輩を庇って命を落とすことになった。
先輩は無事に天寿を全う出来たのだろうか。その後、どのような人生を送ったのだろうか。
「俺もあの後、すぐに殺されたよ」
自嘲気味に口の端を釣り上げる兄様。私は息を呑んだ。
「あいつ、合鍵を持っていてね。お前を、まーくんを殺した後、押し入ってきたあいつに、凌辱されながらめった刺しにされてしまったのだよ。最後は人の形をしていなかったな。阿婆擦れだったあの時の俺に相応しい、自業自得の末路さ」
事も無げに言ってのける兄様に、私は呆然とするしかなかった
「だが、お前を巻き込んでしまったことについては、深く後悔している」
兄様は呻くように言った。
「だから、お前を見つけた時に思ったんだ。今度は、何があっても俺が護るのだと」
『兄様……』
「お前は、たった今、前世の記憶を思い出したと言ったね」
『はい』
私は頷いた。
かつて、前世で先輩に無理矢理付き合わされていたオンラインゲーム。
あのゲームで私が操作していたキャラクターと同じ容姿、同じ名前だ。
そして、兄様も。
何の関連性があるのかは不明だが、少なくとも私達の暮らすこの世界は、ゲームの世界とは全く別物で、共通点はどこにも見出せない。
「俺は、一度に全てを思い出したのではなく、徐々に思い出していった。俺達が初めて出会った時のことを覚えているか」
もちろん、忘れるはずがない。
あの時、兄様と出会わなければ、おそらく今の私は無い。
『もちろん、覚えていますわ。昨日のことのように』
この世界での私の出自はかなり特殊で複雑だ。
私や兄様の生まれ育ったこの津洲国は、幕藩体制時代の日本によく似ている。
帝から政権を委任された藩王の元、各藩主が自領を収める地方分権国家だ。
そのため、一部の為政者を除いて、統一国家としての概念自体が希薄だ。
私はその諸藩の一つ、隼人藩の藩主の孫娘として生を受けた。
藩主であるお爺様は、私の誕生を大層喜んでくれたが、成長するにつれて、私の異常性が浮き彫りになった。
私は言葉と表情を、母様の胎内に置き忘れて生まれてきたのだ。
ゲームの中で、チート能力と引き換えに課せられたペナルティと同じなのだが、当時の私には知る由もないことだ。
藩主の娘が、障害を持って生まれてきたという事実は、お爺様や両親だけでなく、家臣団にも衝撃をもたらした。
この先男児が生まれなければ、私が婿を取って跡取りを産むことになるが、障害を持って生まれた娘が母親となると、その子供も障害を持っているかもしれない。母親に男児を生むことを期待しようにも、また障害持ちの子供が産まれるかもしれないと。
父様と結婚する以前は、母様が孤児院上がりの侍女だったことから、血筋が悪いのではないかとまことしやかに唱える声もあった。
これ幸いとばかりに、有力な家臣団の中から、自分の娘を父様の側室に推す声が上がった。
次期藩主である父様は、誠実ではあるが優柔不断で押しの弱いところがあり、家老の娘に迫られてうっかり手を出してしまい、子供を孕ませてしまったのだ。
そして生まれたのは、男児が二人。どちらも、身体的な障害は持っていなかった。
このことが決定打となり、私たち母娘は、城内でもあからさまに軽んじられることとなり、私に至っては、感情を持たず口も利けぬ人形姫と陰口を叩かれる事もあった。
表情が無いだけで感情が無いわけでは無いし、言葉が話せないだけで声が出せないわけではないのだが、彼らにとってはどうでも良い事だったのだろう。どのみち、他者との意思の疎通が困難であることにかわりは無い。
私には全くそんな素振りは見せなかったが、母様も肩身の狭い思いをしていたに違いない。
母様がどこかの名家から嫁いできたのであれば、私を連れて実家に戻るという選択肢もあったのだろうが、孤児院出身の母様に帰るところは無い。
幼心に、私のせいで辛い思いをさせていることに忸怩たる思いで一杯だった。
そんな事情もあってか、城仕えの侍女達に心無い言葉を浴びせられたり、直接的な嫌がらせを受けても、私が我慢しなければ、これ以上、母様に負担をかけるわけにはいかないと必死に耐え忍んでいた。
言葉が話せないから告げ口される心配もない。さらに、何をされても表情が変わらない私は、日頃のストレスのはけ口としては最適だったのだろう。
兄様と出会ったのは、まさにそんな陰湿な苛めを受けている最中の事だった。