きみにはなそう ながいながいたびのはなしを
ベネットはなぜ、皆がこれほどに怯えているのかが実感できなかった。魔族の存在も知らなかった、魔獣や魔物も見たことがなかった。盗賊に出会ったことも、なかった。いやむしろ盗賊の噂も届かないような生活を送っていた。だから話し合えるのではないか、誠意をもって語り掛ければ分かってくれるのではないかと。
「コンパスが……」
「なんなのですか、これは」
中央にはめ込まれた水晶がぎらぎらと強い輝きを放つ。針は震えながらずっと同じ方向を差していた。
「敵襲コンパスです、敵意のある存在を知らせてくれるんですが……光がどんどん強くなってる……」
あまり見つめていると目の奥が焼けそうだった。ふっと顔を逸らし、しんと静かなままのトランシーバーを見つめる。自分だったらトーマたちのいる場所に移動魔術ですぐに駆けつけることが出来る。怪我をしていたら治癒だって……。けれどこの場にいる民たちを置いてはいけない。だからと言ってアオイはトーマたちに加勢するつもりはなさそうだし、避難をするということもなさそうだ。
『ベネット様! お逃げ下さい!そちらに敵がまっすぐ』
掠れたトーマの声、トランシーバーから聞こえたそれはぷつりと途切れてしまった。拾おうと手を伸ばしたのに、その手が見えなくなる。辺り一面が砂に覆われ、息を吸い込むにも砂が喉にはりついて思うように声が挙げられない。目も砂が入らないように閉じるしかできなかった。耳が拾うのは怯える民たちの悲鳴。けれど突然の砂煙に驚いているだけのようで、誰かに襲われているというわけではなさそうだ。
「な、なに……?」
ようやく目を開けば、どこに誰がいるかも分からない中、『その色』だけがやけに際立つ。
「なん、で」
マテウスは自分の隣に立っていた。砂に咽ながらも腕で顔を覆い、その隙間から同じ色を見ていた。
真っ赤に染まったヒトが、近付く。
「……そこを、どけ」
子供のような声だった。少年とも、少女とも区別できない声色。それは、何かを抑えるように震えていて。
わずかに耳が拾った音は刃物を擦ったものだろうか、赤い色を切り裂くように銀色が煌めいて空中に線を描く。
「い、嫌なのです! アオイ様! はやく、はやく逃げてくださいなのです!!」
マテウスとてアオイの強さを分かっている。けれど後ろにいるアオイを庇うように盾になろうとしたのは本能ゆえだ。同じ獣人として、目の前にいる小柄な赤い狼はどんな力を以ってしても倒すことのできない強さを秘めている。逆らえば、殺される。
「どいて、くれ」
やはりその声は、震えていたのだ。必死にアオイを守ろうとするマテウスが、なぜこの子をこれほどに脅威と見なしているのかがベネットには理解できなかった。この子はマテウスを攻撃しようとはしていない、けれどアオイへ今にもその刃物を突き立てるのではないかと直感がざわつく。
あの子供とマテウスの間に移動魔術を展開して、どちらかの場所を移せば……。
「アオイさん! マテウスさん!」
ベネットの手に魔術陣の光が浮かび上がる。ベネットの声に気を取られたマテウスは、体勢を崩して倒れ込んだ。あの子供に攻撃されたのでは、ない。
アオイが、突き飛ばしたのだ。
一瞬のことだった。刃物を握る子供の細い腕を、アオイは微動だにせず握りしめ受け止めている。そしてようやく子供の全貌が明らかになった。否、明らかというには足りない。なぜならその顔は仮面で隠されていたのだ。見たことのない装束をまとい、長く滑らかな赤い髪。アオイのように頭部全てを覆い隠しているわけではないが、大きな布のようなもので首周りをすっぽり囲っている。
「なんっ、だ、これは」
ベネットには見えていた。あの子供は、攻撃しようなどとは思っていなかったはずだ、と。刃物を握る右腕を抑えているのはアオイだけではない、子供自身が左腕で右手の動きを封じようとしている。傍から見れば両手でアオイに抵抗しているようにも見えるだろう。
「やっぱりアラシだ、やっと来てくれたね」
「それどころじゃないだろ……っ」
右手が刃物を手放したかと思えば逆に握り直す。アオイの腕に切っ先が当たるか当たらないかのところで拘束は解かれた。まるで右手だけが別の生き物のよう。腕から胴体とその残りが引っ張られるように、子供はアオイへの攻撃を止めない。目で追うこともできない早さだ。
「アオイ様ぁっ!!」
「アオイ!?」
上がった息もそのままにトーマが駆けつけた。ベネットたちの無事を確認して強張った顔が綻ぶ。しかし状況が掴めなかった。アオイは苦戦しているどころか、まるで自分たちと初めて出会ったあのときのようにただ攻撃を受け流している。小柄な赤い狼の動きもどこかぎこちなさを感じるのに、繰り出し続ける攻撃は目で追えるかどうかといった速度だ。
逃げ続けるアオイの背後に壁が迫る。吸い寄せられるように背を壁にくっつけたアオイは避けることを中断しぴたりと制止した。鈍い音を立てて刃物がアオイの肩にめり込む。
「くそっ……なんで、こんな」
「そんなにつらそうな顔しないで、だいじょぶ、刺さってないよ」
刃物はその切っ先をアオイの外套を巻き込んで石壁に突き立てていた。もはや動かすこともできないだろうと思われたのに、するりと引き抜く様子を見せられてあの細腕にどれだけの怪力が、とトーマは唖然とする。アオイは子供に壁へと体を押し付けられているだけで、反撃をしようともしていない。両手が空いているなら拘束もたやすいだろうに、なぜ。
アオイの左胸をめがけて刃はまっすぐ進む。今にも走り出しそうなマテウスをベネットとトーマの二人がかりで引き止めた。飛び散った血飛沫は石畳に点々と模様を描く。髪の色と同じ、赤い血が。子供の腕を伝い落ちていった。
「あのヒト、どうしてっ!?」
右手に握られていたはずの刃物は、いつの間にか左手に持ち替えられ痙攣する右腕を刺し貫いている。
「……なに、してるの」
「ようやく止まったな……チッ、あの時か」
さすがのアオイも、それには驚いたのか言葉を失っているようだった。いや、ようやく怒りという感情が出てきたと言った方が正しいのか。傷口からどす黒い煙のようなもやが浮かび上がる。以前にも見たことがあった。
「それ、ジェロシアの呪術? そんなものに、なんでかかってるの?」
両腕を掴み、子供を見下ろしながらアオイは動き出す。のっそりと壁から背を離し、子供の顔を覗き込むように近付く。とは言っても一人は頭部を覆い隠す頭蓋骨、もう一人は仮面だから互いに表情など窺い知れないだろうが。
「俺を狙うならともかく……アラシを傷付けるなんて、許せない」
背筋が凍りそうなほど低い声。奴隷という存在を許せない、そう言ったあのときのような。
「いたぞ!! って、あいつ、何してんだ!?」
バタバタと盛大な足音を響かせてドレアスたちも戻ってきた。傷一つない様子にベネットは喜ぶ。さらに続けて後ろからぞろぞろと城内に踏み込んできた赤い狼たちに、再び皆が悲鳴を上げたのは言うまでもない。
「あの小さい方が自分で自分の腕に刃物を刺したんですよ」
「あれは……ジェロシアの呪いなのだよ、腕に術式が浮かんでいる」
ジェイソンはベネットの目元を隠して見せないようにしているつもりらしいが、既に遅すぎる。
「だから止めたぞ」
「いや、頭目なんも言ってないっすよ」
取り囲むように、皆がアオイと子供の動きを固唾をのんで見据えていた。アオイが先ほどから語っている内容を鑑みるに、あの子供とは旧知の仲のように思える。だからこそアオイは一度も反撃しなかった。ベネットは、ジェイソンの指の間から見守ることしかできない。
―――パリン。
薄い硝子が割れるような音が小さく鳴る。何が落ちたのか、と見回そうとしたが『割れるはずのないもの』が真っ先に目に入ったことで視界は動きを止めてしまった。
「……は?」
「うそだろ……魔術陣が、割れるなんて、あり得るかよ」
目を疑いたくなる光景に否定の言葉しか出てこない。ジェロシアの呪術の解除でさえ至難の技のように思えていた。それだというのにこうもあっさり呪術を打ち消してしまうなんて。
ふと視線の端に映ったコンパスを見れば真っ赤な光は消え、針は行先を見失ってカラカラと回っている。
「敵意の素になってた呪術が消えたからね、光も消えたでしょう。俺はちょっと、この人の治療してくるね」
「え、あの、治癒魔術なら」
私が、と続ける言葉はひゅっと息をのんだ拍子に吸い込んで消えてしまった。アオイが軽々と赤い狼の子供を担ぎ上げたからだ。
「なんで呪術にかかったか経緯も聞きたいし」
「はぁ……」
借りてきた猫……もとい狼はすっかり大人しくなってアオイの肩の上で硬直している。子供は先ほどの威勢のよさも何も残ってはいない。
「なぁ……あの頭蓋骨、実はあんたらの仲間とか、ねぇよな」
「あんなやつ知らん知らん」
ドレアスが首を軋ませるようにゆっくり振り向いて赤い狼の一員に問い掛ける。しかしたれ目の男もきっと、自分と同じ表情をしていた。後ろではボソボソと狼達が話しているが、指差す先を見るに間違いなくアオイのことだろう。また一つ、あの男の謎が増えてしまった。
そんなやり取りが行われていることなど気にも留めずアオイは子供を抱えたまま自室に姿を消したのだった。
「ア、アオイ様! 危ないのです! マーもご一緒に……っ」
ハッと我に返ったマテウスは走り出したが、大きな壁に行く手を阻まれる。どいつもこいつももさもさボサボサしているものだから顔が全く見えない。
「いやいや、お嬢ちゃん、それは無粋ってもんだ」
「んだんだ、やめとけやめとけ」
身を守ろうと構えたのにそれは無駄に終わった。肩をすくませて立ちはだかる二人の狼たちは大きく頷いている。思っていた印象との差が大きすぎてマテウスは思考がごちゃ混ぜになってしまっていた。ここが血の海になるわけでもない、阿鼻叫喚の場面になるわけでもない。赤い狼たちが何をしに来たのか全く分からなかった。
呆然と立ち尽くす顔ぶれを眺めているうちに扉が閉まったことで辺りは光を失う。暗いままを担がれたまま移動し螺旋階段と廊下を何度か通り、久しく感じなかった紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐってくる。ぽっと灯された炎はとても小さく穏やかだった。いまだに肩から降ろされないままずっと無言のままである。
本と紙しかないような部屋だ。ここで生活している雰囲気もない。椅子や寝具すら存在しないのだから。机の上で乱雑に広げられた書物を片腕で寄せて、ようやく腰を下ろす。
一言も話さないまま右腕を引かれ、ゆっくりと刃物を引き抜くと装束の膝に血が付着した。腕を覆うように円環が重なる。この世界で魔術と呼ばれるものだったか。徐々に痛みは引いていき傷口は痕も残さず消えてしまった。
「……で? なんだその頭」
開口一番、聞きたいことはそれじゃなかった。しかし目の前にどっしりと頭蓋骨があれば聞いてしまうのは仕方がない。
「俺も同じこと聞いていい? なんで顔かくしてんの?」
「色々事情がある」
同じように事情があったとしても、頭蓋骨はない。趣味が悪すぎる。そしてでかすぎる。
「へえ~? ねぇ……『あの子』は見付かった?」
「……まだだ」
「そっかぁ」
再会するたびに必ず聞くことだった。それも、いつもと同じ答え。
「お前を探すのに30年かかったんだ。そうすぐは見付からないだろ」
「30年、か。どおりで俺はアラシを探せなかったわけだ」
「なに?」
頭蓋骨の顎の部分に指を引っ掛けて、血色の悪そうな肌は灯りを帯びて浮かび上がる。ぱらぱらと零れ落ちる髪は『あの子』と同じ色。秋の陽射しのような、夏の夕暮れのような。
「ゆっくり、簡潔に話そうか。この世界の消え続ける歴史と、消された存在。そして異物たち。この世界で消すべきもの……魔族か、オートマタか、それとも転生者……」
独り言のようにぽつぽつと語られる単語は、自分自身も違和感を覚えたものも含まれていた。
伏せられた目蓋はゆっくりと開き、アオイは変わらない表情で語る。
「独りで考えてみたけど分からなくなっちゃって、だから聞いてくれるかな。俺の、1500年の旅を」






