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「芽依!」
人ごみをかき分けて私は芽依と男を追った。
「千代子ちゃん」
芽依の困惑した声が聞こえて、私は一気にスパートをかけて、群衆から躍り出た。そのままわき道に入った彼らを追ってつんのめるように路地に入る。階段を降りるとそこで、渾身の力を振り絞って踏みとどまっている芽依を見つけた。
「ちょっと、あんた何やってんのよ!」
私は怒鳴ってから大股に近寄った。スカートが膝にまとわりついて具合が悪い。そのまま芽依の手をつかんで引き戻す。
「なんだ、お姉さんも一緒だったの?」
「友達だ」
私は男を睨んだ。へらへら笑っていたけれど、鉄治のそれと違って大変不愉快だ。
「そーなんだ。いやね、彼女がヒマそうにしていたからー、ちょっと遊ぼうって声をかけただけなんだけどー、なんか勘違いされちゃったかなー」
別に私はちゃらちゃらした男が嫌いというわけでもない。周囲にいないだけで、彼らなりのルールもあるのだろうし、道理もあるのだろう。だが、嫌がっている芽依を無理やりつれていくような輩にはどうしても共感できない。
「とにかく忙しいから」
「う、うん。ごめんなさい」
芽依も精一杯の勇気を振り絞って断る。そのまま引き返そうとしたのに何かにひっかかった。振り返れば、彼はまた芽依の手をつかんでいたのだった。
「ちょ……」
「君も来れば良いじゃん。俺のトモダチも居るし。そこに良い店あるんだー」
しつこい。
「知るか」
そんな押し問答をしていたら、間の悪いことにその店に来た彼の友人らしき男がもう一人来てしまった。しつこいなあとたしなめてくれるかと思いきや、芽依の可愛らしさに気がついたとたん、彼まで、一緒に遊ぼうと話に乗ってきた。日はだんだん翳ってくるし、男達はだんだん目つきが悪くなってくるくるしで、私は少しずつ怖くなってきていた。相手が一人なら、強引に振りほどけるし、自分が一人なら脚力には自信がある。けれど今はなかなか逃げにくい状態だ。
「サツキさん?」
妙に場違いなのんびりした声が聞こえた。はっと見上げると、そこには心配そうな顔をして階段の上から見下ろしているバニラがいた。
「あ、あの」
「すみません、心配だったんで、探しに来てしまいました」
それからバニラは私達四人を見る。
「お邪魔だったでしょうか」
このもうもうと立ち込める険悪な空気が読めないなんて!
「邪魔じゃないから何とかして!」
「なんだよお前」
多分、彼らはバニラのその体格と面構えを見て怯え、けれどその緊迫感のなさに舐めてかかった。それは一瞬の出来事だったけれど、彼らの逡巡は見えた。確かにバニラには「ケンカ慣れ」と言う言葉は遥か遠いもののようで。
「あの、お二人が嫌がっているなら無理やりは良くないですよ」
「うるせえよ」
一人が私達の前を通り過ぎバニラに向かって歩いていった。それを見て、困ったような顔のまま、彼は階段を降りようとする。でも勢いも気迫も全然足りない。どう考えても十秒後、バニラは一撃喰らうなと思った。これでバニラが目にも止まらぬパンチとか放てれば別だけど、それは一般人にはなかなか至難の技だ。
どうしよう、と思った私の前で、バニラは。
いきなりこけた。
ちゃんと降りたらかかる時間の半分で、しかも意表をついてバニラは相手の足元にスライディングをかましたのだった。いきなり加速してきた巨体にぶつかられた男はポーンと飛ぶようにして地面に転がった。
「ああ……すみません!……ってイタタタ」
これが酔拳とかそういったものの一種で、相手の油断を誘ってそこで会心の一撃!とかいう代物なら、バニラはかなりの使い手だと思うのだけど、多分その場合は自分も腰を打ちつけて立ち上がれなくなったりはしないだろう。骨を断ったのはいいけど、自分も肉切らせすぎ。
「ちょ……」
なんのかんのと奇声を発して近寄ってきた男を私をにらみつけた。相手が一人なら、なんとか。
私は一歩踏み出す。さすがにまともに向き合って勝てる気はしないから、相手がバニラに気を取られこっちの油断している今しかない。バニラしか見ていない相手の足元に私は自分の足を突き出した。嘘です、ローキックです、これ。
短い悲鳴が上がって男が転ぶ。私はあっというまにスカートからむき出しになった足を引っ込めて、芽依の手をひいた。
「バニラ!」
「サツキさん?」
何に驚いているのか、あっけにとられているバニラに駆け寄って私は無理やり引きこした。
「あいたたた、痛いです、サツキさん」
「気合だ!」
「あっ、あの人にも謝らないと、ぶつかってしまったし」
なにこのお人よし。
私は彼の大きな手と芽依の華奢な手をつかんで走り出した。階段を駆け上って人ごみにまぎれたまま別の路地へと走り抜ける。
住宅街の小さな公園に駆け込んだときには、芽依はもちろんだけど私も息が上がっていた。
「こ、怖かったよう……」
芽依が泣きそうな小さな声で言うから、私はなんだか言いそびれてしまった。私だってあんな状況、お育ちがいいから知らないよ。だから怖かったけど、芽依が怖いなら私も一緒になって怖がっていてもしかたない。
「まあ、なんとか逃げ切ったし」
私はにっこりと笑って見せた。
この予算は寮費として学校が認めてくれないんじゃないかな……と回りが心配していたのをむりやり通したときのあの笑顔で。
「なんとか逃げ切ったし、じゃないですよ、サツキさん」
バニラがへなへなとベンチに座り込んだ。
「俺腰痛もちなんです。ほんとしんどかったですよ」
「まあ、逃げられて良かったよね」
「大体『気合』ってなんですか!」
「大丈夫だよ、気合さえあれば空だって飛べるって」
「飛べませんよ!」
「地上三メートルくらいなら、なんとかなるんじゃない?」
「歩いた方が早いです」
頭の悪い会話をしているうちに、バニラも打ちつけた痛みから回復してきたようだった。
「まあでも、ありがとう」
私はベンチに座っているバニラの前に座り込んだ。彼の顔を見てお礼を言う。その言葉を吟味するような沈黙の後、バニラは首を大きく横に振った。
「いいえ、お礼を言われるようなことなんて」
「だって助けてくれたし」
「俺、客観的に見て、あれは偶然の産物だと」
まああの見事なスライディングはね……でも。
「でも助けなきゃって意志は持ってくれたし」
俺は、と曖昧な言葉を繰り返すバニラに、短いけれど意志を強く示す明瞭な言葉がとんだ。
「ありがとうございました!」
芽依のそんなはっきりとした言葉は久しぶりに聞いた。少し頬を紅潮させて、芽依はバニラに近寄った。
「あ、あの、ありがとうございました。バニラさんはカッコよかったです」
……芽依、それは惚れた欲目が大分出ているぞ、いやどっちかっていうとそれしかない、と私ははっきりと思ったが、言ったものかどうかは迷うところだ。人の恋路に首をつっこむとろくなことにならない。
けれどバニラはそのどこからみても妖精のように可愛い芽依を見ても、あまり大した反応は示さなかった。ただ怪訝な顔をしている。
「あの……サツキさん、彼女は」
サツキ、と呼ばれ、芽依がかすかに口を開きかけたが、それが自分自身のことでないのを気がつく。バニラの視線はまっすぐに私を見ていたからだ。
「あ、あのっ。ええと、私の友達。うん、友達。たまたまあのカフェから、あの男に無理やりひっぱられているのが見えたから、たまらずに飛び出しちゃったんです。ほんと偶然」
「そうですか、ええと……サツキさんは視力もいいんですね」
「そうなんです、すごく目がいいの!視力検査の表を暗記して私に教えてくれるくらい目がいいんです」
そんなどうでもいいことをいわなくてよろしい、芽依。
あの、とバニラはかすれるような声で、私を見た。
「あの、よろしければ、本名を伺ってもいいですか。あ、あのもちろん俺の名前も教えます」
いいえ、私にはそんなもの、かなり無用の長物です、と言ってこれ以上かかわりあいになりたくなかった。そういう自己紹介は芽依と二人でやるのがいいと思うのです。
「千代子ちゃんです」
にっこり笑って芽依が私を示していった。
「ハンドルネームサツキの名前は、山本千代子ちゃん。あ、あの、私は熊井芽依って言います。今日は本当にありがとうございました」
バニラはご丁寧にその二つの名を繰り返す。そしてもう一度呟いた。
「山本千代子さん」
うれしそうに、バニラは私を見つめる。
「俺は、姫宮圭之進と言います」
バニラ、姫宮圭之進は、サツキだと思っている私を妙に熱っぽい目で見た。なんだ、一体どうしたというのだ。
「千代子さんの、キックはかっこよかったです!」
嘘18歳男子大学生、プラタナスだけでも荷が重いのに、芽依から預かったサツキも、ずっしりと重みを増した気がした。




