1-5
さて。
疑問でならないのだけど。
どうして私は熊井鉄治に、こんなにもゾッコンLOVEなのでしょうか。
聖モニカの山本千代子といえば、いささか色気は足りないものの、殺人サーブが売りのバレー部エース。立っているだけでなんだかプレッシャーを与えると評される気迫の持ち主。
相手に威圧されるより、威圧する方がよほど好きなのだ。
それなのに、熊井鉄治にはいつだって振り回され続けで、振り回されてなんていませんよ、ホホホという余裕を見せるだけで精一杯。
私は実家の自分の部屋に入ってため息を付いた。
最初は鉄治を嫌っていた両親だが、今じゃすっかり「娘にはもったいないくらいの好青年」と思っている。そんな簡単に騙されるぐらいうちの両親が善良だったことに驚く。
今日も父親は仕事でいなかったものの、母親がしつこく鉄治を夕飯に誘っていた。あいつの身につけている仮面は私のものよりもかなり性能が良いらしい。それどこの縁日で売っているんだ。
「せっかくですが、この後用事があるもので。また今度ぜひ」と実にあたりさわりない返事をして帰って行った。これであいつは意気揚々と芽依を迎えに行くのだ。
どこからどうみても、私を好きなわけではない相手。でも私は彼を好きだ。
「疲れないの?」
何かのはずみで鉄治にそう聞いたことがあった。
どこまでも出来る男で、いつだって微笑んでいて、そうして誰にも言えない恋心を抱えていて。しかもそれを何年間も崩れることなく支えている彼が一瞬だけ弱々しく見えたことがあったのだ。
あれは確か私と芽依が高校に入学した頃。芽依が病院に行くのに付き合って、デートがてら私は鉄治と病院の中庭にいた。定期受診の芽依を待って、二人だけだったのだ。
「なんで?」
鉄治その答えはどこか上の空だった。
「なんでって」
「わりといろいろ慣れるものだよ」
「だけど、別に私を好きなわけでもないのに、周りを安心させるためだけに付き合って」
「千代子さんの優しさは神だね」
アホか、と私は鉄治の横のベンチに腰を下ろした。なんだか視線を正面から合わせているのがつらかったから。鉄治がなにやらごそごそと身じろぎすると、ふと煙草の匂いが漂ってきた。
「ちょっと鉄治、煙草なんて吸わないでよ!大体背が伸びなくなるわよ!」
そのころの鉄治は高校二年生になったばかりだった。
「僕ね、去年一年間で、十五センチも身長伸びたんだよね。なんかまだ伸びそうだ。二メートルとかになったらどうしよう」
「靴履くのに大変なんじゃない?」
「まあ、慣れないこともある」
ぽつりと鉄治が呟く。かすれた声だった。
「なんで、僕があんな山奥の全寮制の男子校なんかに行ったかわかる?」
「そりゃあ、実らぬ恋の相手を毎日見ているのは嫌でしょう。それくらいわかるわよ」
「千代子さんは、いいよね、叙情的で」
鉄治は喉の奥で笑ったみたいだった。
「なによそれ」
「……僕が中学三年の夏休みの話なんだけどね、一晩中、芽依の部屋の前にいたことがある」
「は?」
その声はいつになくぼそぼそとして抑揚がなかった。
「なんていうか、もういっそ、やってしまったほうが僕としては楽になるんじゃないだろうかって思ってさ」
その意味を理解して、赤面したのは私のほうだった。
「あ、あのさ」
「多分僕がいろいろ言いくるめれば、芽依は僕になにをされたか親には言わないだろうし、多分僕を好きだって思わせることも可能だと思うんだ。こうやって、毎日芽依と顔を突き合わせて、どうにもならない思いに悩んでいるなら、押し倒しちゃったほうが断然楽だよなあって。自分の良心と葛藤するくらいなら、芽依を自分のものにしたほうが毎日楽しいだろうし。その日は、両親が海外出張で、家にはお手伝いの耳の遠いおばあさんしかいなかったんだ」
そ、そうか。ものすごく綺麗な顔をして、お前もそんなことを考えていたのか……。そうだな、ウサギだって、可愛い顔して交尾くらいするしな……。
「ほんと、馬鹿すぎる」
聞く者の背筋を凍らせるような自嘲だった。
「一晩考えて、自分の部屋にひっこんだけど、本当にそれでよかった。恋なんてうんざりだよ。一番好きな相手を、一番傷つけかねないことを、まるでなにか綺麗なことであるかのように考えていた自分が怖い。だから寮に入った」
その言葉に私はなにも反論できなかった。
「ほんと、誰かを好きになるなんてなんて不幸なことなんだろう」
鉄治はその綺麗な薄い唇に、長く煙草をくわえていた。ゆるく立ち上る煙は淡く目に焼きつく。未成年で煙草なんて吸っているなんて不届き千万なんだけど、その光景をきれいだと思ってしまった。
多分、悲しいから綺麗なのだな。
鉄治のそのやりきれないぼやきこそ、私がはじめて聞いた鉄治の真意だった。そしてその恋の不毛さをなじる鉄治に私は恋に落ちたのだ。
なんだこの不毛王決定戦。一等賞は育毛剤一年分か!
鉄治はあきらめ切れない上、届くことのない恋をしている。
そんな鉄治に私は惚れているわけか。
それが、二年前の話で、そして今も変わらない日々だ。
私は、鉄治を好きな事によっていろいろ不愉快な日々であることは確かだ、でもそれだけじゃないんだよなあ。突き詰めれば『報われない』の一言だけど、それでも鉄治を嫌いになれないし、好きでいてよかったなあとも思う。
だから鉄治にも、誰かを好きなその気持ちを、不幸だなんて思って欲しくない。できれば鉄治にも幸せになってほしい。
かといって、私では鉄治の恋愛対象になれないし……まさか一応長い付き合いで親友と言っていい芽依に、GO!近親相姦、と爽やかな笑顔で親指をたてることもできない。
……育毛剤をダース単位で追加したい。
私は部屋の椅子に座って携帯電話を鞄から出した。なんとはなしにウェブにつなぎSNSにログインする。
鉄治……テディからの書き込みがあった。ちょうど書き込んだばかりなのは、学校に戻って芽依を待つ間に書き込まれたものだからだろう。
テディ<ありがとう。プラタナスは写真はとったりしないの?>
鉄治の趣味は写真撮影だ。風景から人物、モノクロフィルムからデジカメのカラー補正、スナップから浮気の証拠写真まで、それは多岐にわたる。当人は下手の横好きとか言って趣味に収めている程度だし、確かに厳密にみたら荒い部分もあるだろう。でも私は本当に鉄治の写真が好きだった。
普段面と向かっては褒めることなんて、こっぱずかしくてなんだかできないから、プラタナスとして賞賛できることはとても嬉しい。
SNSでの最初のきっかけも鉄治の写真だった。
プラタナス<あまりそういう才能はないみたいなんだ。それに何撮ったら良いのかわからない>
私の返事にしばらくしてまた書き込まれる。まだ芽依は出てこないのか。
テディ<なんでも撮りたいものを撮れば良いのに。僕も見せてばかりじゃなくて、プラタナスの写真も見たいよ>
社交辞令として間違いない言葉だとはわかっている。
でも嬉しかった。芽依に関する問題の相棒としか思っていない鉄治が、山本千代子自身にふと目を向けてくれたみたいで。
もちろんテディが話かけているのは十九歳男子浪人生、プラタナスなのだけど。写真に興味があるふりをしているだけのこの状況がふと罪悪感になった。
私は落ちてく日を長く見た後に書き足した。
プラタナス<今、バイトしているので、お金がたまったらデジカメでも買いたいと思います。いきなり一眼レフはなんだか荷が重いなあ。こんなでもよければ、またアドバイスください>
そう書き込んだ。返事は来なかった。多分ようやく芽依の用事が終わったのだ。
しばらく待って返事が書かれないことを沁みるように理解した私は現実に引き戻された。結局鉄治は芽依が一番なのだ。
そんなつもりはなかったはずなのに、思うのは告白のことばかりだ。もし、私が鉄治を好きだといったら、彼はどんな反応を見せるのだろう。
僕も千代子さんを好きだよ、と言ってくれる確率なんてものを考える。冷静な私は、それはありえないと知っている。ミートソーススパゲティを食べたら服にはねる、くらい確実だ(あれは一体なんでなのか)。それでも私の中のなんだかわからない何かは、もしかしたら、ちょっとは可能性あるんじゃないか、なんて無責任に考えている。
ほんと、二人して仕方ないなあ。
優しさが神だね、という鉄治の言葉。
どんだけ作った優しさだと思っているのだろう。私は鉄治を思い通りにしたいから、優しくしているのだ。『北風と太陽』の太陽の暖かさが意図的だったように。あの太陽だって効き目があれば、SPF50だって太刀打ちできない強烈紫外線をたたきつけることだってできただろう。
ほんと、あいつ、殴りたい。
それでもまだ、私は鉄治に向かって「このド変態、死んじまえ!」と暴言を吐くことも、「いや本気で好きなんだけど」となんか若干気持ち悪い告白をすることもできない。きっかけが見つからない。
もういっそ、嵐でもくりゃいいのにと私は願う。
自分を突き放すように考えて、私は携帯電話を置いた。夕飯にはまだ早いけど、階下のリビングに向かう。
静まり返っている携帯電話を見つめているなんて、嫌だった。