8-2
まさに拘束状態だ。
やれやれ、と私はソファに座った。別に手錠かけられようが簀巻きにされようが、鉄治に押し倒されることだけはないからまあいいか。女に暴力をふるう男が大嫌いだからそれもないし。
精神的にいたぶられそうな気はするが……。おっと私、それはいつものことだ。免疫ありまくり。
私は両手にかかった手錠をちゃりちゃりいわせるだけの余裕はあった。音を立てて手持ち無沙汰を解消していると、鉄治は自分もソファに座る。一瞬だけどこに座るか迷ったようだけど、めずらしく向かいでなく横に座った。
「なんで姫宮の家に入り浸ってるの?」
淡々と尋ねてくる鉄治、その顔を拝んでやったが妙に平板な表情をしていた。何を考えているかわからないというよりは、彼自身も何かを決めかねているような。
「だって居心地いいんだもん」
「芽依と僕がいるここよりも?」
「正直……」
私はここ数日の出来事ではじめてちゃんと語る気分になっていた。圭之進のおかげ、と言ったらなんだけど、鉄治にばかりしがみ付いていなければならない理由はないと思って気が楽になったこともあるかもしれない。
「正直、この場所はしんどい」
驚いたことに鉄治はその言葉にわずかに肩をふるわせた。
「もうばれているから言うけど、私は本気で鉄治のことを見ていたよ。だから他の人を見ているあんたのところを見守るのがだんだんつらくなってきた」
「千代子さんは姫宮を好きになった?」
「……それはよくわからない」
「千代子さんは僕のどこが好き」
「……もう今となってはわからない」
正直に語ろうと思った時には、語れることなど何もない。
ふと気がつくと、鉄治は私の横顔を見ていた。するりと彼の長い指が伸びてくる。私の首筋を一瞬滑ったかとおもうと、それは細いチェーンを引っ掛けていた。胸元からヘッドにしている指輪が出てくる。緑の光が部屋の壁にゆらめいた。
「三人でうまくバランスとってやってきたのに」
鉄治は呟いた。
「今になって思えば、君が姫宮に会うよりも、芽依自身が会ったほうがよかったか。まさか君がこんなにも動揺するなんてなあ」
「浮気上等、って婚約の条件だったわね」
私は鉄治の言葉を改めて言ってみた。
「鉄治がよくても私はやっぱりだめだわ、それ。鉄治だけじゃないし、圭之進だけじゃない、自分自身を裏切り続けるのはつらい」
鉄治の指は指輪を放した。ことんと胸にさがる。
「鉄治は私をどう思っているの」
ずっと聞きたかったことは、あまりにも素直に口をついて出た。今まで冗談か非難まじりにしか言えなかったことなのに。
どうか、好きだと言って欲しい。嘘だってわかるから。
どうでもいいと言ってほしい、それなら私も諦めがつく。
あえて言うなら。
とにかく私は五年に疲れ果て、ケツまくって逃げる気満々だったのだ。敵前逃亡は恥じゃないぞ、山本二等兵。
それなのに。
「……よくわからないんだ」
鉄治とは思えない言葉だった。
「……昨日、実はこの家には芽依がいた」
「……………………はあ!?」
私は呆然とした後、叫んだ。そういえば、あの寮の子も『今日はいない』とは言ってなかった。昨日はもう寮にいなかったのか!それじゃあ今日私がここにきたところで、あとの祭りを堪能することぐらいしかできないじゃないか!
「ももももも、もうすでに手遅れで取り返しがつかない事にー!」
予想外のことに私は見事に思考停止だ。
「でも何もなかった」
なに?
「芽依のことよりも、千代子さんと姫宮のことが気になってイラついて、どう仕返ししてやろうかと思案に暮れていたら、夜が明けていた。ここしばらくずっとそんなくだらないことを考えている」
「ちょっとまて、別の意味で不健康」
仕返しって……おい。
「私は善良な一女子高校生に過ぎません。仕返しとかされることは何もしていないのですが」
「……姫宮はとてもいい奴だね」
ふいに鉄治はそんなことを言い始めた。
「一度しか彼と話をしていないけれど、ものすごくまともないい人だと思う」
そうか?まともの定義、どこの棚に乗せた?
「何一つ混乱しないで、自分の好きな相手を思いやれる相手だと思う。束縛とか独占とかそういうことじゃなくて、相手を幸せにすることを望んでいるよ」
自分とはかけ離れたもののように、人の誠実さを鉄治は語る。私はそこにようやく反論の糸口を見つけたのだが。
「僕とは違う」
鉄治は無言で私との距離をつめてきた。窓の外ではとても近かった雷が、今や光と同時に音を轟かせていた。鉄治の手は私の頬に伸ばされる。そして私は今、尋常じゃなく鉄治が不気味だ。
何一つ嫌味を言うこともなく、嘘もなく(多分)、ただ鉄治は自分の中のなにかわけのわからないものを探っていた。
「鉄治」
内省的な鉄治なんてもの、どうやって取り扱ったらいいんだ。
「鉄治、あのさ、手錠いいかげんはずしてよ」
「不安になる」
さくっと会話不成立。
「不安ってなにが」
「人を好きになるって言うのは、契約書もなく取引するみたいな気分だ」
鉄治の取引って、パソコンで打ち出されたビジネス文書じゃなくて、羊皮紙に血文字で書かれたものを連想するのは何故だろう。
「好きって……そもそも妹を好きになるんだから、不安事項のほうが多いに決まっているじゃない」
「芽依の話じゃない」
まさか。
圧し掛かってきた鉄治に、私は目を見開いた。どうも会話がうまく成立しないと思ったが、鉄治はまだ、私が先ほど投げかけた問いについて答えているのか。
「鉄治あんた、私を好きなの?」
「わからない。どうしてみんな目に見えないものを信じられるんだろう。千代子さんが僕を好きだというその言葉は嬉しい。君がいないと僕は本当に落ち着かない。でも君がどれくらい僕を好きでいて見捨てないでいてくれるのかがわからない」
見捨てる?
それは愛の言葉としては、あまりにも場違いだった。
好きとか嫌いとはそういう話にどうしてそんな言葉が出てくるんだろう。
「そんな実態のわからないものを僕は信じられない。信じられないものは理解できない。理解できないことは指摘できない。だから今まで君に指摘しなかったけど、でもあの時」
言いかけた言葉を鉄治は途中できった。
あの時、と言うのは鉄治に対して私がはじめて鉄治を怒った朝のことだろう。あの時に鉄治は何を思って口にしたんだ?
言葉の続きを待っていたが鉄治はそれを口にする事はなかった。一瞬目をそらしてから別の話にかえる。
「とにかくものすごく不思議だ。僕は君の『好きだ』という言葉と態度をいくら貰っても信じられなくて、どこまでも奪うことしか出来ないのに、姫宮は君からなにも貰ってなくても信じて、君に何かを与えていた。冷静になると自分が惨めだよね」
「鉄治が惨めって」
「どう考えても、彼のほうが恋人として正しい。与えることも待つことも何も惜しまない彼のほうが、恋人して立派に決まってる。僕だってそう思う。ちゃんとわかっているんだ。なのに僕は出来ないんだ。目に見えないものを信じることが出来ない」
「私の気持ちが信じられないってこと?」
「そのとおり」
鉄治は私を責めているわけではない。私が信じられないことは彼にとっては問題ではなく、ただ他人を信じられない自分が問題なのか。
「あいつのほうが正しい」
鉄治は少し笑った。いつもどおり綺麗で、ラファエロのマリアのようなリボソームをお持ちだろう鉄治の顔、でもそこに寂しさを見つけた。
「別に千代子さんが姫宮のところに行ってもすぐに戻ってくると思っていた。だって千代子さんは今は僕を好きなんだし」
改めて断定されるとよりムカつくなあ、もう。
「正直、姫宮が千代子さんに無理やり何かするならそれはそれでかまわないと思っていた。それなら千代子さんは戻ってくるだろう?『恋なんて、結局誰かの気持ちが誰かに押し付けられるだけのものなんだ、姫宮も僕と同じでひどい人間だろう』と言えるしね」
……私が圭之進を押し倒したことは一応秘密にしておくか……。
「でも千代子さんは戻ってこないし、話をした姫宮はそういうタイプじゃなかった。それでようやく考えたんだけど、千代子さんも僕を好きだからと言って僕になにかを要求したことなんてなかったなって」
「鉄治」
私は今まで見たこともないくらい、寂しそうに見える鉄治の背に腕をまわしたかった。でもバカ鉄治は手錠なんぞはめやがったのでそれもできない。
それでも、鉄治は私を意識してくれはじめたのだろうか。もしかして好きだって言ってくれるんじゃないだろうか。これからは優しくしてくれるんじゃないかって。
なんて期待した。
と。一度、カーテン越しにも十分わかるくらい激しく稲妻が走った。ほぼ同時の音はガラスを振動させる。
そしてぶつんという音と共に家中の電気が消えた。
「停電……」
ちぎられるように暗闇となったリビング。
目が慣れる前に、何かが唇に触れた。
鉄治の手は私の頬を壊れ物でも扱うように丁寧に押さえつけている。
以前は、キスするフリ、と言うまったくもって屈辱の極みな出来事があったというのに、それをうっかり忘れて水に流してしまいそうになるほど、優しい口付けだった。鉄治の手は、少しだけ強い力で私の肩を押す。鉄治がごろごろして本を読んでいても十分ゆとりある大きさのソファの上に背が触れた。それで鉄治の重みが。
「ままままって鉄治」
手錠をちゃりちゃり言わせながら私は鉄治を押し返した。うわあああ、予想外の発言に驚いている間にさらに予想外な事が。
「でも僕は君や姫宮みたいな誠実さとはどうもとても縁がない性格みたいでね」
鉄治の顔はまだ闇にまぎれて見えない。
「待つことも、与えることも性にあわない。奪うことでしか、信じられないんだ。奪ったその一瞬は少しだけ信じられる。そして僕は僕の方法を押し通すことしか知らない」
鉄治の行動はいつだって、私の予想外だ。お前何と意外性を張り合っているのかと問いただしたい、が。
まて、今は人生最大級に焦るべきところだ、私よ!




