7-1
「千代子さん」
圭之進の声ではっとしたが一瞬遅かった。目の前で湯が吹きこぼれてガスが消え、白い蒸気と騒々しい音が立ち上がる。
「ぎゃー!」
とりあえず、ガスを止めたものの、そこは吹きこぼれで悲惨なことになっていた。
「ああー、ごめん圭之進」
私はがっくりと肩を落としながらまた細く火をつける。これあとで、綺麗にしないとだめだ。
「いいですよ、千代子さん、片付け俺も手伝います」
「いいよ、圭之進は仕事忙しいんでしょう?」
「行き詰まってまして……ていうか、千代子さん今日様子おかしいです」
かもね。本棚ひっくり返したり、洗濯しても洗剤未投入だったりね。
お互いに労わりあうにはもちろん根拠がある。圭之進は今、下書きの真っ最中で寝る間も惜しんで働いている。私は私で眠りたいのに眠れない。
そんなわけで二人とも屍同然だ。
麺を投入したはいいものの、私が考え事をしていたせいでかき混ぜなかったそうめんは、ことごとくくっつきあっていた。ベビースタービッグ。
「やっぱりくっついたところは固いんだね」
「でもそもそも茹ですぎになってますから食べられますよ」
こういうと、私と圭之進が常時そうめんを食べているみたいだが、実際常時食べている。
まあ私が作る以上はそれが一番問題ないからな。下手な考え休むに似たりだ。
「今日は失敗だ、ごめん圭之進」
「大丈夫です。良く噛めばなんでも食べられます」
そうだよね、顎使わないと人間は退化するよね。
固まったそうめんをよく噛みながら私達は、その日の夕飯としていた。あとはきゅうりとトマトが切られている。白と緑と赤の多色使いなのになぜこんなにもの寂しいのだろうか。
「それで、仕事の具合はどうなの」
「正直今木崎が来たら、間違いなく逆さ吊りです」
「血の巡りをよくするためかな」
「ちょっと過酷な治療じゃないですかね」
ああ、私も血の巡りが大変悪いかも。芽依と話してから三日くらいたつけど、あまり良く寝ていない。
芽依の言葉を気にしている、というのが正直なところだ。
私は鉄治を本当に好きなのだろうかという根源的な問い。そして今、私が好きなのは圭之進じゃないのかという新しい質問。それの答えを導く方程式を私は知らない。
たとえば海で二人が溺れています、あなたはどちらを助けますか。
なんていう質問があるが。なるほど、その状況なら確かにわかるだろう、しかしそんなぎりぎりでわかっても遅いんじゃ!溺れる前にわかっていないと二人とも溺死ではないか。そんな時に迷っている時間はない。
圭之進にはいいところがたくさんある。芽依が好きになっただけあって、温和で毒がなくって好きな人を本当に大事にしそうだ。自分が仕事で時間無いというのに、受験生に家事させるのは申し訳ないですから、とか言って、料理とか作ろうとしてくれる。まあ、おまえここほんとに自分の家なのか、くらい、キッチンの使い方わかってなくて、結局私がやることにしたけど。
うん、できないだけで気持ちの上では甲斐甲斐しい。
鉄治は。
多分鉄治も好きな相手にはきっと優しいんだろうな。芽依を見ていればわかるし。でも自分が好きじゃない相手にもきっと社交的な範囲で優しい。じゃあわたしはどっちだ。そして私はそんな相手に付き合いすぎて、自分の気持ちもわからなくなっているのじゃないだろうか。本当に私は今も鉄治を好きなのかな。
もっと私が素直に鉄治を好きだと言えばいいのだろうか。
素直?
それは食えるものなのか、同然に意味不明だ。いまさらそんなことできるかぼけー!
「どうしました、千代子さん」
一瞬ぼんやりしてしまった私に圭之進が声をかけた。
「なんか千代子さんがキツイ一言を言ってくれないとなんだか不安です」
「鞭鞭鞭鞭飴鞭鞭鞭のローテーションとかがいいのか」
「そうですね、通常がそれですから」
何!
私はどんだけSの人と思われているのだ。私は基本的には優しいんだよ、私が心底ぎゃふんと言わせてやりたいと思っているのは鉄治だけなんだから。
まて、そんなこと思っている場合じゃない。
「……圭之進は素直だねえ……」
「そんなことないですけど。ありがとうございます。えへへ」
皮肉だぞ?
「でも俺は普通に思っていることを言っているだけです」
圭之進は私の目を見て言った。
「中学のころ、学校でもうまくいかなくて、一体自分は何を話したらいいのかということがわからなくなっていたんです。それからずっと誰かと話すことが怖かったけど、でも『サツキ』さんにあって俺も少し自信がつきました」
「自信って」
「サツキさんは、俺の言葉をねじまげて解釈することがなかったから」
久しぶりに聞いた、サツキ、と言う名。それはやはり少しだけ私の良心を痛めたけど、それでも圭之進の言葉の続きのほうが気になった。
「俺が思っていることを言うと、いいカッコしいとか言われちゃってたんですよね。かといって皆に合わせても、今度はそんな風に思ってもいないくせにとか言われて。なんかそうなってくると、話すことか面倒くさくなってくるじゃないですか。そうすると今度は何も言わなくて気味が悪いとかね。どうしたらいいのかよくわからないじゃないですか。ああもう、人と会わなくていいやとか思いましたよ。もちろん俺が思ってることを相手にきちんと伝えられなかったのが一番ダメなんですけど」
「いや、それは……」
お前いじめられてたんじゃねえのかい、と聞きたくなったが黙っていた。今更蒸し返して傷つくこともないような気がする。
「でもサツキさんは、『そうなんだ』と言ってくれたわけです。自分と俺の意見が違うときでも、必ずそう言ってから、『でも私は』と続いたから。たとえ意見は違っても、言っていることを普通に受けてくれてもらえるのはありがたいことです。そうしてもらえて、やっと俺も、なんか黙っていることも疲れるんだって気がついた。ちゃんと言葉と言うのは、素直に口にしていいものだと思うのです」
無垢な目で私を見て言う。
「その場にあわせることも大事ですが、自分を偽るのもどうかなあと思います」
圭之進はそこで言葉を切るとまた、正直マズイそうめんを食べていた。彼がそこで終わらせたのはいまのその語りが、素直だねえ、と言った私に対しての反応だったからだ。私が素直じゃないことは、圭之進は見破っていると言うことか。
く……っ、恥ずかしい……。
私はいろいろ猫っぽい毛皮を各種取り揃え、シーズン、流行に合わせて着回ししているつもりだ。だから、「その猫の毛皮、あそこのブランドね」とばかりに私が素直じゃないことを当てられるととっても恥ずかしいっつーの。
今すぐ圭之進に掴みかかってとっつかまえて、誰かに言ったら許さないとばかりに脅せたら。
「そうかあ、素直か」
それなのに、私はそんな返事を返していた。
「そうですよ」
なんだかほのぼのだな……。どうして圭之進は泣く子はさらにギャン泣き級の怖い顔なのに、こんなにほのぼのなのかなあ。
でも、素直か。
感情の大革命だ。いままであまりそんなことも考えてなかった。
そうだよ、私が、鉄治に正直に好きだといった時、帰ってくる反応は、ずっと私が勝手に考えていたものばかりじゃないか。もし本当に言ったなら、今まで思っても見なかったことがおきるかもしれない。
僕も千代子さんが好きなんだ!って。
……って……
……って言われたらなんか、あいつ企んでるんじゃね、と思う私はそうとう人間不信だ……なんなんだこの病的なまでの不信感は。
本当に好きなのかと言われれば、ちょっと戸惑うこともあるのだけど、それでもこんなに私をいらいらさせるのも鉄治しかいない。
「圭之進は、私が結局婚約者のことを一番好きだって結論付けたらどうするの?」
「恐山に知り合いがいるので、そこに引きこもって修行します」
「これ以上の引きこもり先があること自体が驚きだ」
「まあそれは冗談ですよ」
圭之進はちょっと笑った。
「そこから先は、またその時に考えます」
あんたってさあ。
本当にいい奴なんだな……。
「圭之進、散歩でも行く?」
「そうですね。アイスでも買いに行きましょうか」
私は食器を片付けた後、圭之進と一緒にマンションを出た。ここ数日食事時しかあっていなかったから、圭之進となんとなくのんびりと話したくなったのだ。
そうか、うちには破天荒な姉ばかりしかいなかったからなあ、お兄ちゃん的なものに私も憧れているのかな。
でも圭之進が私に求めているものは、兄妹愛なんかじゃないんだろうけど。
そんなことを話しながら、私達が話しながら話題にしているのは、圭之進の部屋にある萌え系アニメのことだ。こんなもの見るつもりじゃなかったのに。くそう、面白い、とばかりにここ数日懸命に見てしまった。
誰それが可愛いなどと、どう考えても不毛度百パーセントなことを話しながらコンビニにむかっていた。くだらない話だけど、多分楽しかったのだ。
「圭之進の趣味はいつも同じだね。眼鏡ツンデレ先輩系」
「はあ……自分でもなにかのトラウマかなあとは思うんですけど」
どう考えても木崎さんだろ。
あまりにもはっきりしすぎて、当人に教えてやるかは思いやられることに、私が気がついたとき、その声は聞こえた。
「千代子さん」
「人違いです」
そう言って。私は高速で逃げ出そうとした。今ならきっと残像ぐらいのこると思われる素早さだった。どっこいそれ以上の速さで手をつかまれた。
圭之進のマンションからわずかに行った通り沿いのコンビニの駐車場。そこに車は止まっていた。見覚えのある車。
「千代子さん、いつまで道草を?」
鉄治はにっこりと微笑む。
「すねるなんて千代子さんらしくもない」
……人を型にはめるのよくない!
と、すねてすねてすねまくっている私は思った。




