1-3
私が中学二年生だったある冬の日に起きた事件、それをきっかけに私は彼と付き合うことになった。
あの日のことを思い出す。
私と鉄治の出会いには、芽依の存在が欠かせない。芽依は、私にはもったいないような出来た友人だ。
四年前、芽依は貧血で倒れて保健室で横になっていた。五時間目の体育の時だったし、そのまま疲れて本当に眠っていたのだろう。芽依はものすごい早産で生まれたせいか、いまでも少し病弱だ。
だから芽依が気になって、私はその日、保健室に行ったのだ。鉄治は鉄治で、芽依を心配して保健室を訪れたのだと思う。そしてその場には保健室の先生も他の生徒も誰もいなかった。
鉄治が芽依を見て、どんな気持ちになったのかは今でもわからない。ただ鉄治より少しだけ遅く保健室を訪れた私の前に、あの美しい光景があっただけだ。
私の立てた無粋な扉の音で鉄治ははじかれたように身を起し、こちらを見つめた。鉄治の混乱した顔を見たのはそのときが最初で最後だ。あの時中学二年生だった私にも、彼のしようとしていることはわかったし、その意味もわかっていた。
……逃げ出したのは私のほうだった。
そのまま放置すれば、私も幻を見たくらいで最終的には納得しただろうに、あろうことか鉄治は私を追いかけてきた。彼にも行動が幼い時があったなんて今思えば驚きだ。心臓にふっさふっさと毛が生えている鉄治だけど、それにも産毛期があったというわけだ。
廊下の隅で捕まった私を鉄治は見つめていた。私の腕をつかんで離さない手はものすごい強さだった。そのときにはすでに立ち直った鉄治は表情を微笑で固めていた。
「今、何か見た?」
「み、見てません」
先輩にも教師にも、そして親にも丁寧な口調でなんて話さなかった私が、ひさしぶりに使った言葉だった。でも鉄治は私の答えなんて信じてもいなかった。鉄治はその綺麗な顔をまっすぐに私に向けて、目を覗き込む。
「言ったら許さないよ」
「だったら」
負けず嫌いの私はそこで睨み返せた自分に少し満足した。
「だったら、私と付き合って!」
私は震えそうになる声を押し殺すようにして強い言葉を吐き出す
「は?」
鉄治は目を点にしていた。
「……君は僕を好きなの?」
「全然」
私は詰め寄っていた彼を押し戻すようにして、前に出た。
「でも、あなたならちょうどよさそうだから」
鉄治の食えなさと私の見栄っ張り具合はきっと同じくらいの強さをもっていたのだ、そのころから。
多分、似たもの同士と言って差し支えない。
「私の父親が、私の婚約者を勝手に決めようとするの。まだ私はそんなものと係わり合いになりたくないのに」
「……それは災難だね」
「だから誰かを恋人にしてしまいたい。でもそんじょそこらの人間じゃ、父は納得しないわ。でもあなただったら、結構文句つけようがないと思うから」
「僕のうちは、家柄はそんなによくないよ?」
「いい。うちだって昔は海賊だもの」
今思えば、鉄治が謙遜したのは家柄だけだ。自分自身については欠片も謙遜しなかった鉄治の本性にとっとと気が付くべきだった。
でも私は、そのころから気取っていて、他人からの目をかなり恐れていた。
クラスの女子の「熊井先輩ってすっごいかっこいいよね!」という噂と、なにかにつけて鉄治に向かってあがる黄色い声。それにまざることが出来なかった代わりにひっそり憧れていた。
だから、彼のその弱みは渡りに船だったのだ。本当に言いたい言葉を口に出せず、私が言えたのはあんな取引だけだった。
「山本さんと熊井先輩かあ……」という納得じみた周囲の女の子の諦め。そんなものに興味がないふりをしていたけれど、実は内心得意満面だった自分のウルトラ馬鹿がいやになる。
まもなく彼は全寮制の男子高校に行ったけど、遠距離という形で交際は続いた。
今思えば、なんて穏やかな三年間だったんだろう……。一月に一回会って、近況報告しなければならなかったけど、それも今に比べたら全然問題じゃない。
だって今、毎週だし。
彼が自宅を出て、結構不便な場所にあるそんな高校に行った理由。それを知っているのは私くらいなものだろう。自分に関係なければ少し同情してやってもいい。
「どうなの、寮から帰って実家住まいは」
「楽だね。寮は二人部屋だったから気をつかうことが多かった」
貴様が気を使うタマか。
気を使わせたの間違いだろう、どう考えても。
「僕だって、気をつかうんだよ」
「ちょっと、人の考えていることを読むのはやめてよ」
「できないよ、そんなこと。千代子さんは僕をなにか化け物とでも思っているの?」
思っていないといえば嘘になる程度には……鉄治は絶対人の気持ちの一つや二つ読んでいる。
鉄治はいつだって、まるで五輪聖火のごとく絶やさぬ微笑を浮かべている。けれど、中で考えていることはかなり悪辣だ。
私と鉄治しか知らない話だが、こんな怖いことがあったのだ。
かつて鉄治が美少女じみた美少年だったことは言ったけれど、繰り返す。本当に可愛かった。普通の女子より全然。
そんなわけで、高校に入学直前の春休み、鉄治は変質者に襲われたことがあったのだ。向こうの性別勘違いだったのか、その手の趣味がフリーダムだったのかはわからないが、うっかり男の鉄治に手を出した。
たまたまその時すこしだけ遅れて鉄治に追いついた私が叫んだから、変質者は何をするわけでもなく慌てて逃げ出し、何事も無かったのだが、鉄治は許さなかった。
公にするわけでもなく、何かを考えていたけれど、翌日からとっとと行動を開始したのだった。彼曰く「適切な報復」に向けて。
逃げ出したときの車、そして方向を覚えていた彼は、時間と行動を照らし合わせて犯人探しを始めたのだ。一体あいつの頭の中で何が起きていたのかは私は知らない。そして知らない方が幸せだ。多分、知ったら常識とかそういったことからはじかれてしまうと思うの。凡俗歓迎。
そして首尾よく犯人を見つけた鉄治は、私が必死にやめろというのもかまわずに、反撃を開始したのだった。
奴の職場への、なんというか口にするのをはばかられるような怪文書の送付から始まり、最終的には警察への垂れ込みまで。結果的に奴に家からそういった行為の画像が見つかって、わいせつ罪でそいつはしょっぴかれることになったが。
「もしこれで、警察が動かなかったらどうしようかと思っていた」
まだ真新しい高校の制服を着て、鉄治はなにかの時に言った。
「まあそうしたら、僕が女装でもしておとりになればいいだけの話だけどね。そうしたら現行犯だ。ああその時にはもちろん千代子さんにも手伝ってもらおうと思っていたんだ、目撃者Aあたりで」
私は貴様ほど人生に自棄になっていないので、そんな暴挙に出るのは勘弁してほしい。犯罪に関わってトクすることなどない。
なんでお前はそんな涼しい顔をして好戦的なのだ。鉄治ならはぐれメタルだって逃すことはないだろう。
そんな鉄治なので、私は話をもちかけたことについては、後悔している。
たくさん反省もしている。
あんな外道と知り合ってしまった自分もたくさん嘆いた。
鉄治と嘘でも付き合うくらいなら、父親の持ってくる話の誰かの方が、よほど心温まる日々だった。
鉄治は基本的にはとても優しい。鉄治は芽依が一番で、私の事は特別に好きじゃないといっても、それでも二人で映画を見に行ったり食事をしたりする。彼が寮生活だった高校三年間もそれは変わらなかった。
鉄治はきっと私を好きだと思う、そこそこはね。少なくとも嫌いではないだろう。
けれど、それで終わりなのだ。
私は鉄治にしてみれば付き合いやすい友人というだけで、鉄治の心を動かす人間にはなりえない。けれど、そもそもがそういう約束だったのだ。
私は彼氏がいるということで、親への牽制。
鉄治は自分の秘めた恋心へのカモフラージュ。
メリットデメリットで始まった関係なのだから、それはそれでいいのだ。鉄治には鉄治なりに抱えている苦悩があるはずだけど、私にはそれを愚痴ったりしない。私もそれを聞いたりはしない、互いの都合のために互いがあるだけだ。
いつか……いつだって終わっていい繋がり。
どうでもいけど、鉄治は女装はまだ似合うと思う。そもそもの造りがはんぱなく端正だから。
普通に信号待ちしている今も、校門の前と同じように人の視線を集めている。誰も車の中の会話にまで聞き耳は立てないだろうけど、私はなるべく平静に見える顔をするように心がけて。
周囲には、普通に語らう恋人達に見えるのだろう。
きっとニセカップルには見えまい。
熊井鉄治は、恋をしている。もう彼にも何年間の片思いかわからないくらい長く。その相手は私ではないのだ。
その子こそが私の友人の芽依。
少し色素の薄い肌は真っ白で、でも差し込む頬の薔薇色は淡く美しい。長いまつ毛、そして柔らかに波打つ豊かな髪は日本人ばなれした優美さ。ぱっちりした目はいつも優しい。その華やかさはまさに八重桜。
おっとりしていて、彼女が人の悪口をいうところなんて聞いたことがない。
八重桜の宮というのが、聖モニカ高校で芽依が影でひそやかに呼ばれている呼び名だ。まあ当人が知っている時点で果たしてひそやかといっていいのか。
私は高校で寒椿の君と呼ばれている。冷ややかな表情に憧れている後輩も居るらしい、ごめん、それはただぼんやりしているだけだ。片思いも何年も続けば疲れもするのだ。終電のサラリーマン中年男性(家のローン残り15年、大学生中学生の子ども有り、妻とは冷戦中)くらいには疲れている。
私の話はどうでもいい。問題は、鉄治と芽依だ。
芽依も、鉄治のことは好きだ。大好きだと思う。
でも彼女はけして彼を恋愛対象としては見ないのだ。鉄治がどんなに男として優れ、芽依に優しく愛情深くても、彼女はその彼の気持ちに気づくことはない。
芽依は、フルネームを熊井芽依という。
鉄治にとって、芽依は、確実に血のつながった一つ違いの妹だ。