5-4
『サツキ』の抹消。
それはすなわち、芽依と圭之進の連絡手段の全ての断絶だ。
「だ、だって芽依!」
翌朝のリビングで慌てたのは私。特に表情を変えなかったのは鉄治。
「もういいの」
芽依は短い言葉を発しただけだ。私にも鉄治にも何も発言を許さない。
「部活、行って来るね」
芽依は脹れた目でそれでも笑って出て行った。玄関の閉まる音が、芽依の拒絶そのものみたいで私も青ざめる。
なんだかものすごく、間違ってしまったんじゃないだろうか。
出発点が間違っていたことは認める。芽依は圭之進に嘘をつくべきではなかったし、私もその尻馬に乗って身代わりとして会うべきではなかった。でも。
でもこれでこの一件は終わりなんだろうか。間違ったまま、何も修正できないで終わりなのか。最初が間違ったら補正は二度と効かないのか。
「結果オーライ、かな」
鉄治はコーヒーを飲みながら静かに言う。
静かに。
「オーライなわけないでしょうが!」
私が鉄治に本気で怒鳴りつけたのは多分、今が初めてだ。
「千代子さん?」
私の剣幕にさすがにぎょっとした顔で鉄治がこちらを見る。私はその勢いで詰め寄った。
「近親相姦などそんなことはどうでもいい!私はそんなことで鉄治を見損なったりしないけど、今更だし」
ガチャピンは緑でムックは赤い、そして鉄治は変態だ、くらいの単なる事実にすぎない。
「妹だか恋愛対象だか、そんなことはどっちでもいいんだけど、自分の大事な子が傷ついているのに、結果オーライとは何事よ!」
「千代子さん」
「鉄治が、外道なのも陰湿なのも鬼畜なのも別に問題にしたくないけど、非情なのは私は好きじゃない」
私はテーブルに手をついた。乗り出すようにして鉄治に詰め寄る。
「結果オーライなのは仕方ないけど、それを普通のことみたいに言わないで」
「結果オーライなものはオーライだ」
「それは、堂々と言っていいことじゃない!」
座ったままの鉄治は私を見あげた。その眼差しの冷たさは、私が数度目にしたことのあるものだ。鉄治にちょっかい出した間の悪い変質者、芽依に近づこうとした下心のありありの野郎ども。彼らを前にしたときの、鉄治だ。深淵みたいな寒さを覚える。
……やばい、もしかしてエネミー認定された?
でも私も顔が熱い。私だって、めったに声を荒げたりしないんだ。いつも嫌味を言い合ったりしているけど、怒鳴りあうなんて私と鉄治の間じゃ考えられなかった。私だって、本気で怒っているんだ。
「千代子さんは、本当にいい人だね」
鉄治は立ち上がりもしない。けれどその視線一つで見上げる私を圧倒する。いかん、おびえが入ってきている、私。
「人の不幸を喜ばないで済むなんて、いい人以外の何者でもないよね」
「そこまで聖人じゃないけど。でも」
「僕は、人が不幸になると嬉しく思う人間だけど」
鉄治は珍しく笑っていなかった。いつも余裕たっぷりでどんな種類であれ(こちらの身を震え上がらせる冷笑から、一撃で惚れさせる完璧な笑顔まで多種取り揃えております)笑顔を失うことなんてなかったのに。
私の知らない鉄治の逆鱗。
それに気が付く。これ以上どれほど迷惑な武器が……。デラックス空母だな。
「それは芽依がそうでも同じだ」
真顔で言うには余りにも無残な言葉だと思った。一瞬脳が理解を拒否するくらい。
「は?」
「他者に対する不幸の共感が僕は下手か、まったくそういう感覚がないんだと思う」
「だ、だって芽依くらいは」
「芽依が病気の時だって、僕はあまり悲しくなかったんだ。これだけ好きな相手で守らなければいけないと思ってるのに、なんでこんなに反応が薄いんだろうって、僕は自分自身が不思議でならなかった。でもきっとそういう人間なんだろうね」
鉄治のその淡々とした言葉に私は言葉を失う。
「父親も早くにいなくなったけど、そのときのこともあまり覚えていないし」
「小さかったんでしょう?」
「でも芽依は結構、父親のことは覚えているみたいだ。でも僕は覚えていない。きっとあまり興味がなかったからだろうな。『妹とお母さんを頼む』とか言われたことしか覚えていないし」
鉄治と芽依の父親が不在なのは、もちろん私も知っていた。一度芽依に聞いたけど「そーなー、うち、お父さん、いないんだー」といういつもながらのほにゃらかした返事がかえって来たから、私も特に追及しなかった。人のうちの話だし。
でも鉄治の反応も、自分の家の出来事と思えないくらい薄い。
またなんか適当な事言ってこっちを煙に巻く気かと思ったけど、鉄治の口調からそういったものを感じ取ることが出来ない。いいかげんな言葉だったらいいのにと、私は本気で願っているのに。
「親のことも妹の病気もどうでもいい人間って、やっぱりどこかおかしいよね」
思わず口走ってしまった何かを恥じるように、鉄治はせわしなく言葉を紡ぐ。
「多分千代子さんが思っているとおりなんだろうな」
「なにが」
「僕が非情だって話」
「それは私が言いすぎたかもしれなくて」
「いいよ、だって僕は、結局千代子さんだって、利用しているわけだし」
わかりづれえなあ、もう!
多分私は、鉄治の逆鱗の何かを触れてしまったのだ。で、奴はうっかり露呈してしまったそれを伏せておこうとしているし。
私はそこにさらに追及していいものか、わからないし。
そしてそこでようやく鉄治はうっすら微笑んだ。
「千代子さんの僕への気持ちを利用しているわけだし」
は?
こんどこそ、本気で耳を疑った。
「利用って……そ、それはお互い様じゃない」
鉄治はテーブルに出しっぱなしになっている携帯電話に一瞬視線を走らせた。
「だって、千代子さん、僕のこと好きだよね」
ただそれだけを言う。
その言葉は、それだけで。
あれだ、うん、即死魔法だな。デス。
「て、て、て」
私はさすがにとっさに二の句が告げなかった。
「うん」
鉄治は私を攻撃している間に、いつもの調子を取り戻していた。
「知ってたよ。千代子さんが僕の彼女のふりをしているのは、お互いのメリットデメリットだけじゃなくて、僕を本気で好きだからなんだろうなって」
「そんなこと」
あるわけないでしょう、うぬぼれるのもいいかげんにしろ馬鹿、といいかけて、やめた。だって鉄治が知る事実をばらすというのは、相当確信があるからだ。それに、否定しようにもそれが事実であることを一番良く知っているのは誰だ。
私だ。
「気が付いていたの」
「まあね」
「いつから」
「君が高校生になったころくらいかな。だって、そもそも僕のメリットに比べて君のメリットはひどく少ないんだよ。千代子さんだったら、好きな相手くらい、親の反対もへったくれもなく付き合えるだろう?それに寮生活で、親の小言だって少ないだろうし。でも僕と付き合い続けているのはなんでだろうって思ったんだ」
「そう」
私はうつむいて、テーブルに目を走らせた。鉄治と作った朝ごはん、芽依もげっそりした顔だけど、サラダとコーヒーは口にしていった。
「知っていたんだ」
「ごめん、利用していて」
私は自分が飲みかけていたコーヒーカップを手にした。飲んでいたところで芽依がきて、アカウント抹消のことを言い出したから、そのどたばたですっかり忘れて冷えている。
「うん、好きよ。鉄治」
私は鉄治に向かって微笑んだ。そして残っていたコーヒーを全部頭からぶっかける。
「え?」
「でも、たった今、超嫌いになった!」
「千代子さん?」
さすがにコーヒーかけられて、鉄治は目を白黒させていた。
「いくらなんでも、ひどいにもほどがある」
私の気持ちに気がつかなくていつも無神経だけど、それは仕方ないよなあっていつも思っていた。言わない私が一番いけないんだってわかっていたから。
だけど、鉄治は、私が彼のことを好きだと知っていて、今までふりまわしていたというのなら、それは相互メリットなんかじゃない。利用どころの話じゃない。
「搾取されるために、私はあんたを好きだったんじゃないわ、馬鹿!」
私は、身を翻した。もともと補講に行くつもりではあったけど、予定の時間より全然早く、私は熊井の家を飛び出したのだった。




