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圭之進はぼそぼそと語った。
「中学校の半ばに気持ちの問題で学校行けなくなって、部屋で漫画ばっかり読んでいたんです。そのころもう姉は働いていて。親の保険金も少しあったんで、駄目な意味で生活成り立ってしまって」
私は圭之進の話を聞きながらその漫画原稿に釘付けだ。
「で、見よう見まねで漫画描き始めてみたりしたんです。もちろん誰にも見せなかったんですけど、木崎が見つけてしまって……もうあの時くらい恥ずかしかったことはない……」
私も部屋で一人歌って踊っているところを姉に発見されたときの恥ずかしさは筆舌に尽くしがたかった。
「でも、けっこういい代物だったの?」
「いいえ全然。その頃彼女はファッション雑誌の編集に携わっていたんですけど、漫画も好きだったから目が肥えていて、本当に辛口でけちょんけちょんです。ほっといてくれればいいのに、無理やり見て評価するし。またそれが結構的確でよりムカついたんですけど……だからこそ、ムカついてもっといいのを描いてやるって思ったんですが」
そして木崎の薦めもあって、投稿したのだと圭之進は言った。彼女もその頃はまだ若かったからまったく人事権もなかったが、絶対自分の出版社に投稿しろ、と圭之進を締め上げたらしい。
多分、親族のひいき目無しに売れる予感があったんだろう、木崎さんは。
「しかも、是非俺の担当になりたいっていって、わざわざ漫画部門に移動してくるし……。昨日までブランドの新作がどうのとか言っていたのに……」
いや、あんたが心配だったんじゃろう。
「……この漫画家知っているよ、私。姫原ケイでしょう?」
「よかった、知っててもらえて」
姫原ケイとその作品『羊ヶ原で君と』
それ知らない女子高校生はそうそういないと思うよ?
二十歳前後の男女六人の群像劇。かなりリリカルなんだけど、ところどころに笑いもあって、すごく面白い。一体誰が誰とくっつくのか、もうほんといらいらするくらいやきもきさせるのだ。まだ完結していないというのに、コミックはもう二十巻近い。
それに去年映画化もされたし、今年はドラマ化するとかそんな話もあるはずだ。映画化の際、熊井セリカさんが作曲した主題歌が使われていたから、下手すれば鉄治だって知っているだろう。
「姫原ケイって女じゃなかったんだ」
「男とも言って無いんですけどね」
あのふわふわした絵がこの節くれだった手から出てくるのか……。
「とりあえず、生原稿みたい……」
「データでよければ」
圭之進は立ち上がったパソコンのデスクトップのアイコンをクリックしている。
「売れっ子漫画家だったなんてね……」
「売れっ子、かな」
圭之進は苦笑した。
「たまたま三作目で連載もらえてそれが長く続いているだけなんですけど」
「それってすごい話じゃない」
「でも、面白い作品なのかっていつも不安です」
圭之進の呟きは、先日のあの『ちょっといっちゃっている状態』の彼を思い出させた。
今日、仕事が一段落したのなら、あの頃は本当に煮詰まっていたんだろう。ぶつぶつ呟きながらいろいろ考えてたのか。そんな状態になれば確かに服なんて気を使っている場合じゃない。
出した原稿は初期のものなのだろう。画としてはふわふわした砂糖菓子みたいなのに、線の一本一本は何一つ手を抜かれていない綺麗なものだ。
「なんで嘘ついたの?」
「親しくなった頃に言おうとは思ったんです。でもSNSでしか知らない相手に『実は姫原ケイなんです』なんていわれても信じてもらえない気がして」
その予想は正しい。
「いつか会ったときに言おうと思っていたんですけど、今度は今更言い出しにくくなってしまって。ならこのまま嘘を貫こうと思っていたんです。だから慣れないスーツなんて着て。普通の会社員ぽく頑張ってみたんですけど、やっぱり無理がありましたね」
「確かにスーツに着られていた」
「ネクタイなんて何年ぶりかで締めました」
「でも言えばよかったのに」
「だって『サツキ』さんのご家族は、ものすごく優秀だって聞いていたから。なんか俺きっと学歴コンプレックスみたいなのあるんですよね。自分がそういうのがこなせなかったせいでしょうけど。そういう優秀な家族のいる人に自分は漫画家なんて言いにくいです」
「気にしなくていいのに」
鉄治はそもそも『人』としてどうなんだという話だ。
「スーツとかどうしたの?」
「また姉が首つっこんできて……俺が、女の子と会うのだけど、なに着たらいいのかってうっかり相談したら、あらゆることを喋らされて……服買いに連れて行かれたりしました」
「あー追求厳しそう」
「鬼軍曹です。よかった結婚してくれて……」
圭之進は私を手招きした。
「これ原稿の一部です」
覗きこんだそこにはたしかに、見慣れた絵柄の漫画が載っていた。ほー、こうやってソフトで漫画は描くのか。
「なんか、スクリーントーンとかで大勢で書いているのかと思った」
「基本はデータ処理なんです。でも締め切り近くなると人をお願いしたりしますよ。だからある程度作業場は広く取ってます。カラーは今でもアナログが多いかなあ。水彩画が好きだから」
「見たい!」
だってすっごく綺麗なのだ、姫原ケイのカラーって。
「ちょっと待ってくださいね」
圭之進は書棚のファイルを今度は探しにでた。
「ねー」
「なんでしょう」
「とりあえず、真面目に聞きたいんだけど」
探していた圭之進は私の声の深さにぎょっとして振りかえる。
「羊ヶ原の連中は、一体誰が誰とくっつくの?」
いいか、話はそれからだ。
「……秘密です」
そんなことか、みたいに圭之進は笑ってそしてごまかす。
「圭之進の分際で生意気な!教えて」
「企業秘密です!」
「気になる!」
「だめですよー」
「じゃあとっとと続き描いてね。『作者急病のため』なんてやらかしたら私がほんとに病院送りしてやるから」
圭之進はおかしそうに笑った。ちょっと得意げだ。こんな顔もできるんだなあ。
「千代子さんに、こんなに仕事のことでねだられるなんて思っていなかったから、なんかちょっと嬉しいです」
ああ、なんか圭之進が会社員は嘘って聞いたときは、ほんとどうしようかと思ったけど、
「私だけじゃない。きっと芽依も喜ぶ」
芽依も『羊が原で君と』が好きだから。バニラがそうだって知ったらきっと狂喜する。
「芽依?」
「ほら、あったでしょう、私の友達のものすごく可愛い人」
「ああ、あの時の。確かに可愛い人でしたね」
圭之進は綺麗に整理されているらしい原稿のファイルを持ってきた。雑誌でしか見たことのないカラー原稿が目の前に投げ出されて、おおってなる。すごいなこんな絵ってどうやってかくんだろう。綺麗だなあ。
「芽依はね、ケイタ派なんだ」
『羊ヶ原で君と』のメイン主人公ナツミ、彼女が好きなのがケイタ、彼女を好きなのがリンタロウ。
「……千代子さんはどっちがいいですか?」
「私はリンタロウ派なんだけどね。芽依はリンタロウはジュンコとくっついた方がいいって言うんだ。まあどっちがどうってことなく物語は好きだから。芽依なんてコミックスだけでなくて画集とかも持っているよ」
「千代子さんは、どうです?」
いや、私の話はいいから芽依の話をしようや。
ああ、そうだ。
まさにこの話の流れなら言える。
今なら「実は私は『サツキ』ではない」って言える。圭之進の大嘘発覚、でも芽依は圭之進の漫画、大好きだし。今こそ言うべきときだ。芽依の自分からの告白なんて、もう今更待っていられん。いまなら。
私は顔を上げて振り返った。背後では、圭之進がまだ書棚でファイルを漁っているはずで。
で。
「圭之進?」
圭之進は私のすぐ後ろに立っていた。その体温を感じるほどだ。
「どうしたの?」
「今なら言える気がします」
そりゃ私のセリフだ。
詰め寄られて、私は机に手をついた。圭之進の巨躯が視界をふさぐ。
「あ、あの」
まずい!
私は口ごもっているが、言わんとしていることはすでにバレバレの圭之進に真っ青になった。これを言わせたら私は進退に窮する。
「あっあのね、芽依は」
「芽依さんの話は、俺にとってはどうでもいいんです。それより千代子さんが気になってならない。SNSでやり取りしていた時は、ものすごく言葉を選ぶ優しい人だと思いました。そのときから好きだった。実際に会って話して、遠慮なく鋭いことを指摘したりつっこんでくる千代子さんは意外でした。でもだからこそもっと気になる人になった」
私、体は柔らかいほうだと思うが、これ以上詰め寄ってくる圭之進を避けて、体をのけぞることはできません。中国雑技団じゃあるまいし。
どうしよう、すり抜けるか?
そのタイミングを計ったときは遅かった。圭之進の片手が私の背中を抱きとめて引き寄せていた。その胸板に額をぶつけておうっと顔をあげてしまう。そして顎をつかまれた。
むにと唇が押し当てられる。
ちょっと私の唇からずれているのが、彼の不器用さを示していた。
それを、微笑ましく思え……るわけもなく!
私は半ばぶん殴るようにして圭之進を突き飛ばしていた。




