第1話「不死身の錬金術師」
新作です。
こちらはもしかすると不定期になるかも知れません。
――もう何年、ここに閉じこめられているんだろうか。
分厚いガラスの容器の中で、そんなことをおぼろげに考えた。
何年では済まない、何百年という悠久の時が流れたはずだ。
石の壁は朽ち果て、分厚い埃が床に降り積もる。砂塵へと姿を変えるそれらだけが、膨大な時の流れを指し示す。だというのに、俺の手足を縛る鋼鉄の枷は錆びる気配すら見せない。首を絞める太い縄は、今もなお己の役目を黙々と果たしている。
「自分の名前も忘れちまったな」
誰もいない静寂の中に、嗄れた声が染み渡る。
身体を苛む脱力感にも最早慣れてしまった。
捕らえられたこの地の底に、俺を捕らえた者はもういない。
抵抗しようという気力さえ、もう湧かない。
これから何十年先に待つのは、緩やかな死。ただそれだけだ。
「……んぐ!?」
ぼんやりと虚空を見つめ、何年経っただろうか。
唐突に首に巻き付く縄が力を強める。
予期せぬ状況の変化に、鈍りきった思考が追いつかない。
縄はぎりぎりと俺の首を締め上げ、残り僅かな力を吸い出していく。
「ぐっ……この……っ!」
鎖の繋がった両手で縄を掴みもがく。しかし強靱で強固な縄に、爪のない俺の手は無力すぎた。
ガラスの壁に身体を打ち付けのたうち回る。ぐらぐらと世界が揺れる。
「がっ――ああっ!!!」
視界が曇る。頼りのない光が明滅する。どくどくと全身が脈打ち、首に絡まる縄に呼応する。
このままでは、全て無くなる。残るのは、哀れな残滓だけ。
緩やかかと思われた終焉の到達は、何の前触れも無く唐突だ。
腐りきった本能が悲鳴をあげる。赤と青の極彩色が脳裏をちらつく。嗄れた喉が潰れるのも構わず空気を吸い込む。
「あ――あ――ああああああああああああっ!!!」
自分でも驚くほどの絶叫が試験管を揺らす。
まるで獣の断末魔だ。生存本能に切り離された冷静な自我が、客観的に俺を見る。
叫ぶ。叫ぶ。叫び続ける。
ちっぽけなこの身体に、これほどの力が残っていたのか。
鎖で身体を擦り、黒い肌に傷を付ける。曇るガラスに頭をぶつけ、額から滝のように血を流す。
依然として縄は首を捻り続け、俺の身体から一切合切を奪おうと暴れ続ける。
世界が乱れ、壊れ、倒れ、轟音を上げ――
「お前が根源ね。苦労させやがって」
ふっと漂う、鮮烈な血の臭い。
気が付けば、血塗れの女がガラス越しにこちらを見ていた。
俺よりも遙かに巨大な背丈。おそらくは人間。
長い白髪の奥の青い瞳が苛立ちを隠さずこちらを射抜く。
「今そこから出して、ひっぱたいてやる」
女は毒突いてガラス瓶に手をかける。
その後ろから迫る鋭利な刃に、俺は気が付く。
恐らくは最後の抵抗。
心臓部に到達した愚か者が油断した瞬間、背後を襲う無慈悲な罠。
「待て、後ろ――」
朦朧とした意識の中で残りわずかな力を振り絞って喉を震わせる。
首を傾げた女が振り向く速度はひどく緩慢で、迫り来る鋭い刃はあまりにも俊敏だ。
途切れる意識の末端で、何かが潰れる水っぽい音が聞こえた。
†
目を覚ましたのは、久しく感じていない炎の暖かさに刺激されたからだ。
まず始めに気が付いたのは、身体にかけられた薄い布。繊維の荒い、ハンカチのようだった。
「……ここは?」
全身がびりびりと痺れるように痛い。
無理をして上半身をあげて周囲を見渡せば、数百年を過ごしたガラス瓶の中ではなかった。
濃密な闇の中、少し離れた場所で煌々と燃えさかる焚き火に照らされて、森の木々の影が浮かび上がった。
「いわゆるあの世って奴か。俺でもいけるんだな」
妙な感慨を胸に抱きつつ、小さく言葉をこぼす。
冷たい風が、俺の伸びきった黒い髪をたなびかせる。
静寂と光と影が、その場を満たしていた。
「……あの女は」
意識の途切れる寸前に見た白髪の女を思い出す。
鼻腔に生々しく残る血の臭いは確かで、腐った果実の破裂するような音は耳にこびりついている。
「俺がもう少し早く気が付けば……!」
彼女が回避する未来もあったはずだ。
取り返しのつかない慙愧に苛立ち、地面を踏みつける。
死後の世界にまでまとわりつく後悔は心臓を締め付ける。
「目が覚めたみたいね」
またしてもそれは唐突だった。
背後から声がかけられる。
俺ははっと目を見開く。
消えゆく意識の中で聞いた最後の声だ。
頭が理解する前にあわてて振り返って見上げると、そこには長い髪の女が湯気の立つカップを片手に立っていた。脳裏に深く刻まれた、青い瞳。間違いようもない。最後に見た女だ。
彼女は寒さを凌ぐ白い外套を羽織り、こちらを見下ろしている。
「……お前もやっぱり死んだのか」
確かに、随分と整った顔だ。
話に聞く天使という奴は慈悲深い顔をしているというが、どうにもそれは違うらしい。目の前に立つ女は感情の見えない冷めた表情と合わさって、まるで人形のような印象を受ける。
ともあれ、死後の世界では孤独ではないことを知って、小さな安堵を覚える。
しかし彼女は俺の言葉にきょとんとして首を傾げた。
「生憎死んだ覚えはないし、今のところ死ぬ予定も無いわよ」
彼女の不思議な言動に、混乱が生まれる。
「じゃあ何でお前がここに……。確かにあれは即死するだけの傷だったろ」
「まあ、ちょっとは痛かったけど、あんなもんじゃ私は死なないわ」
そう言って、女はしゃがみ、俺を持ち上げる。
少々小柄な俺は、普通に地面に立つと彼女の踝と目があってしまう。
目線の高さを合わせ、彼女はつま先から頭のてっぺんまでじろじろと俺を見た。妙な居心地の悪さに俺が身じろぎすれば、不満そうに柳眉を寄せる。
たっぷりじっくり観察した後、女は満足そうに口元を緩めた。
「ちゃんと魔力は回復してるみたいね」
「魔力……? そういえば」
女の言葉に、俺は今更ながらに自分の状況を理解する。
ガラス瓶は消え去り、両手足の枷は外れている。そして何より、俺を蝕む首の縄が綺麗さっぱり姿を消していた。
「じ、自由だ。自由になったんだ!」
何度も何度も確認し、歓声をあげる。
何百年ぶりの自由だろう。枯れ果てていた力も今では全身の末端に至るまで漲っている。
「お前が助けてくれたのか?」
俺を手の上に乗せた女は頷く。
どういう絡繰かは知らないが、どうやら彼女はあの危機的状況を生き延びた。驚くことに、見たところ傷らしい傷もない。血の臭いもしない。
そうして彼女はガラス瓶から俺を掬い出し、地底深くから救い出してくれた。
つまるところここは、あの世でも地獄でも天国でもない。
「龍脈を辿っていたら、古い遺跡を見つけたの。防衛機構が生きてるから不審に思って進んだら、魔力を奪われ続ける哀れな妖精を見つけたわ」
もう少しで死ぬところだったわね、と彼女は俺の額を小突いた。
実際、彼女が助けてくれなければ、俺はあの後すぐに死んでいただろう。
「ありがとう。命の恩人には最大限の感謝を」
俺は彼女を見上げ、深々と頭を下げる。
見たところ彼女は人間のようだが、種族の違いは関係ない。
「俺は――えっと」
続けて自己紹介をしようとして、名前も忘れてしまったことに気が付く。どれほど記憶の海を浚っても、それらしい欠片も出てこない。
どうやら契約は向こうの死によって破棄されたらしい。
「どうした?」
「名前が、ない」
驚いたように女が目を見開く。落ち着いた青色の瞳だった。
「なら、私が付けてあげるわ。――お前は影妖精よね?」
確認するように女が尋ねる。
俺は戸惑いながら頷く。
妖精に名前を与えるということがどういう意味を持つか、彼女は知っているのだろうか。
「心配しなくとも、妖精の掟はある程度知ってる。名前を付ける代わりに、お前は私の助手になりなさい」
「知ってるのか。……まあ、名付けされるのなら、それぐらいは受け入れるさ」
助手というのがどういう意味を伴っているのかはよくわからないが、ひとまず名前が貰えるなら頷く他ない。
女は細い顎に指を添えてしばし沈黙を保つ。
パチパチと弾ける焚き火の音が続き、唐突に彼女は目を開いた。
「――クロ。お前の名前はクロよ」
「あ、安直な……」
「悪いけど、私にネーミングセンスを期待するのは愚かな事よ」
あまりにもあんまりな名前に抗議するも、女は猫のような笑みで意にも介さない。
「さあ、クロ。お前に名前を与えたのだから、約束通り私の助手になりなさい。丁度良いことに、お前の力は私の役に立つんだから」
「ぐっ……」
安直だろうが奇特だろうが、名前は与えられ契約は遂行される。
確かに彼女とのつながりが生まれるのを感じつつ、俺は精一杯彼女を睨む。
「そうね。私の名前を教えていなかったわ」
俺の視線から何を感じ取ったのか、彼女は俺を肩に乗せて立ち上がる。
急に広がる視界に驚き、思わず彼女の細い髪を握りしめる。
「私の名はルナ。しがない不死身の錬金術師よ」
肩の上に立って震える俺を流し見て、彼女は笑みを深める。
紫紺の天球に、静かな月が白く輝いていた。