7話 一章 高校生活一週間目(3)目が覚めたら保健室だったんだが厄介なことに、、、
彼は、自分はひどい男なんだぜ、とよく口にした。
荒くれ者だった父は長年にわたる酒の多量摂取で早死にし、当時十八歳で爵位を継いでから一人でやってきた。
幼い頃の貧しい暮らしが大嫌いで、父が築き上げた成り上がり貴族としての地位を固めるため、社交の場では女から上手く情報を引き出したり、貴族の間でこっそり浸透していたい方取引の場にもよく参加した。
それなのに結婚前、こんな事を言っていた男がいた。
「お前は優しい男さ、リッキー」
「なんの話だ。酔ってるのか?」
「まだ酔っちゃいねぇが、――俺らみたいな街の荒くれと付き合っても、お前は地獄に落ちるような人間にはなれねぇってことさ」
彼らと同じように殴り合いの喧嘩をし、イカサマもお手の物で、人を騙すのも得意な人間が悪党ではないなんて、そんな馬鹿なことあるわけがない。
だからそこ、ドロドロの貴族社会だって平気で図太くやっていけるのだ。
喧嘩を売られたら、買って勝てばいいだけの話だ。よれよれの私服で都会の隅にある廃れた街中を歩いていても、誰も彼が『リチャード』と呼ばれている農村領主だとも気付かないくらいに馴染んでいる。
「噂の伯爵令嬢が近いうちに婚約破棄されて、お前がその次の婚約者に収まるってか。リッキー、おめぇは見える行動だけを語るなら、まるで演劇の中の悪党貴族みてぇだな」
「悪党だろう。違法薬物を買い取って、その倍以上の値段で貴族様方に売って稼いでもいるんだ。じゅうぶん『悪』さ」
質の悪い煙草を好むお坊ちゃまがいるかよ、と、リチャードはそれを灰皿に潰した。
立ち上がりながら「じゃ、そっちの取引は頼んだぜ」と言って、夜の下町に出る用のよれよれのジャケットを手に取る。
「俺は、その日は社交で用事がある。ドレックスの連中には、次回も欲しいなら売ると伝えておいてくれ」
そう言って歩きだした時、「リッキー」と愛称を呼ばれた。
リチャードが面倒臭そうに肩越しに振り返ると、この地区のギャングであるその中年男が、ニヤリと欠けた歯を見せて笑った。
「納税分に足りねぇんだろ。お前が提示した一回り上の金額で売り付けてきてやる」
そう言われたリチャードは、特に表情も変えなかった。少し癖のある漆黒の髪を後ろに撫で付けて、それから視線をそらすように後ろ手を振って歩き出した。
「ウチは不作なんだ。税を上げるわけにはいかんだろ、冬を越せなくなる」
男が外に働きに出れば、女がより苦労する。それは貧乏時代によく見ていた光景だった。
クソみたいな土壌の地も、きっと何かしら解決策や方法があるはずなのだ。対策と改善を続ければ、いずれ豊かな土地となってくれるだろう。天候条件は決して悪くないのだ、微塵にも価値にならない野花や雑草が育つくらいならば、もっと品質の強い農作物を選んで試してみれば、あるいは――
※※※※
理樹は、意識が浮上するのを感じて、ふっと目を開けた。
「つまらない夢を見たな……」
遠い昔の、別の世界で生きていた頃の記憶だ。成長するにしたがって前世の頃を夢見ることなんてほとんどなかったのに、ここへきて結婚前のつまらないワンシーンを思い出したものである。
より安定した大きな資金と、生粋貴族とのパイプ。そして後継者と社会的立場を強化するために、あの数年後に十歳年下の彼女のことを知って、俺は――
そう思い出し掛けて、理樹は「今更なに回想してんだ」と鼻で嗤った。
前世の記憶なんて必要ないものだ。たまたま生まれ変わって、そして彼女と同じ年で再会するなんてことは数奇な巡り合わせだろう。だからこそ『好き』を向けられるだなんてことは、有り得ないとも思っている。
十歳も後に生まれて、自分よりも数十年も早くに死んだ。
運命は繰り返すだとか、迷信なんて信じない。そんなゲームみたいな話があってたまるか。
けれど理樹は、自分の馬鹿らしさに嗤いながら、知らず拳を固めていた。
自分のことだけであったのなら、前世の記憶については、馬鹿らしいと切り捨てて放り投げていただろう。
それでも、そうすることが出来ないのは、再び目の前に現われた彼女が、前世で自分が初めて出会った十六歳の姿だったからだろうか。
魂が同じだけで、彼女は別人だ。そして、俺もリチャードじゃない。
平民仲間にリッキーと呼ばれていた男は、もうどこにもいないのだ。そして、サラも――
「よっ、理樹! お昼ぴったりに目が覚めるとか、さすがだな!」
突然「迎えに来たぜ~」と全く心配もしていない陽気な声を上げて、拓斗が仕切りの白いカーテンをめくって顔を覗かせた。購買でゲットした二人分の弁当が入った袋を掲げて見せて、こう続ける。
「感謝しろよ、お前の分のエビフライ弁当も買ってきてやったぜ」
気のせいか、こちらの苛立ちを煽るくらい、活き活きとして楽しそうな面である。
理樹は現実に思考を戻し、今の自分が置かれている状況を確認すべく目を向けた。白いベッドに、仕切りのように周りを覆う白いカーテン。独特の薬品の匂いが鼻をついて、つい先程、自分が男装少女に殴られたことを思い出した。
ベッドのそばにある椅子を引き寄せて、拓斗がドカリと腰を下ろした。
「お前、また一つ有名になったなぁ」
「はぁ? 突然なんだよ」
ニヤニヤしている親友を訝しく見やると、続けてこう尋ねられた。
「それにしても見事に殴られてたけど、頭は平気か?」
「どこに衝撃を受けたのか、正確に認識する前にブラックアウトした」
「そりゃ重症だ。さすがは風紀委員会が期待する新人風紀部員だな、元風紀委員長をやってただけはある」
気になるキーワードが聞こえたが、理樹はひとまず上体を起こして、衝撃を受けたと思われる頭の横あたりを手で探ることから始めた。
もともと石頭なのが幸いしたのか、打ちどころが良かったのか。それとも体術に長けた人間による『意識を奪うための的確な攻撃』だったせいか、痛む箇所はなかった。……ほんのりと腫れているような気はするが。
「しっかし、お前が喧嘩に強い攻撃型だけじゃなくて、守りも上手いとは思わなかったわ。咄嗟にしては見事な腕前で、見てた一部の連中が『沙羅ちゃんの恋を応援する!』派に傾いたくらいだぜ」
拓斗のそんな声が聞こえて、理樹はそちらへと目を戻した。
「待て。見てた? お前だけじゃなくて?」
思わず尋ねると、彼が「おぅ」とどこか楽しそうな面で頷き返してきた。
「俺らが教室を出た直後に、沙羅ちゃんがあの風紀委部員の子がお前を呼び出したことを知ったらしくてさ。んで、彼女に味方してる女子と一緒に動いて、ウチのクラスの連中が案内して到着したのが、ちょうど殴り合いが始まったところだったってわけだ」
「…………それでなんで好感度が上がっているんだ?」
結局、彼女に一発KOで沈められたんだが。
男子の制服で身を包んだ青崎レイは、一見すると少年と言われても違和感がないとはいえ、やはり同じ年頃の少年よりも小さく線が細い女性である。自分は、そんな相手にぶっ飛ばされて意識を飛ばしたのだ。
すると、拓斗が「そりゃ上がるだろ、沙羅ちゃんたちのいる一組の男子も称賛してだぜ」と言った。
「いきなりの展開だったとはいえ、女の子だと気付いたから本気で殴り返さなかったんだろ? お前が喧嘩に強いのは、俺は中学の先輩たちをぶっ飛ばしたのを見て知ってるからな」
ああ、そんなこともあったな、と理樹はなんとなく思い返した。
以前通っていた中学では、不良と呼ばれている類の先輩たちのグループがあった。特に荒れていたのは一つ上の学年で、結局彼らが卒業するまでの二年間、何度か相手をするはめになったのだ。
「沙羅ちゃんとあの子、有名な男子禁制の中学出身らしくて、みんなは風紀の子が女の子だって知ってたみたいだ。中学でも制服はズボンだったから、うちでもお願いして、風紀委員会に所属することを条件に許可されたらしいぜ。ちなみに風紀委員会は制服の色が黒なんだとさ。新人期間が終わったら、彼女も黒い制服を着ることになるらしい」
青崎レイは、中学時代に風紀委員長を務め、体術・武術大会で優勝するくらいの腕前だったという。そんな彼女を、この高校の風紀委員会が抜擢しないわけがない、というのが拓斗が話を聞いた一年一組の生徒たちの憶測だった。
その時、ガラリと扉が開く音がした。一体誰だろうかと口をつぐんだ拓斗と共に目を向けてみると、白いカーテンが少し開けられて、珍しくむっと頬を膨らませて肩を怒らせた沙羅が顔を覗かせた。
拓斗が、きょとんとした様子で瞬きした。「なんだか普段見ない感じの可愛い顔してるけど、どうしたんだ?」と空気を読まない発言の途中で、理樹は彼の口を素早く手で遮っていた。
さすが学年一の小動物系美少女。全く怖くない。
感情を堪えて潤んだ大きな瞳は、威圧感がないうえ、きゅっと結ばれた唇だってまるで不快感を覚えさせない表情を作り出していた。怒っていても可愛い、というのは美少女の特権であろうか。
というか、なんで彼女はここに来たのだろうか。ラブレターには昼休みに話しがしたいと書いてあったはずなので、そのまま保健室に突撃してくるというのも変である。
もしや、青崎レイと対峙した件で、怒り心頭なのだろうか?
同じ中学出身の出身であり、レイはあの時『彼女と撮った写真を』と言っていたくらいだから、もしかしたら一緒に過ごすくらい仲が良いのかもしれない。
今回の騒ぎでこちらに対して怒っているというのであれば、結果的に、入学して一週間と一日目にして、授業を一時間さぼってしまったというのも悪くない気がした。
これで彼女の『好き』という勘違いに終止符が打たれるというのであれば、上等である。そう思ってチラリと目配せすると、拓斗が「あ~、なるほど」と掌に拳を落とし、そろりと動き出した。
「俺、お邪魔みたいなんで、先に屋上に行ってるわ」
初めて彼女を屋上に呼び出して以来、理樹と拓斗はそこで昼休みを過ごしていた。拓斗が「部活を立ち上げるまではここを休憩所にするぜ」と決めて、担任に、まだ校内が騒がしいので落ち着けませんと言い訳して、昼休みに鍵を開けてもらっているのだ。
拓斗がそそくさと退出してすぐ、彼女がこちらに歩み寄ってきた。
「私、怒ってます」
そんな彼女の顔を見つめて、理樹は「だろうな」と答えた。ベッドに座り、シャツの第一ボタンをとめて、ネクタイを締め直しにかかる。
手紙に書いてあった呼び出しの件については、面倒なので黙っていることにした。言いたいことがあるのなら、そのまま発散させた方がいい。彼女たちは意見を求めているのではなく、話を聞いて欲しい時が多いというのは前世での経験で分かっていた。
「レイちゃんは、私の一番の親友なんです。強くて、可愛くて……」
そう言いかけて、沙羅の言葉が弱々しくなって途切れた。
恐らく膨れる感情の整理がつかないのだろう。そう推測すると、話を促してやれるような言葉も浮かばず、理樹はネクタイを締め直す作業を続けながら「そうか」とだけ言った。
「…………だって、レイちゃんは、とても可愛いもの」
唐突に、彼女の声色が鼻声に変わった。ネクタイを整え終わった理樹は、疑問を覚えて目を向けたようとしたのだきが、顔を上げた時には、沙羅がベッドのスプリングを軋ませて肩が触れるほど近い隣に腰かけてきていた。
驚いて顔を向けると、強気だった表情を一変させて、今にも泣き出しそうになっている沙羅がいた。大きな瞳は今にも涙がこぼれそうで、小さな鼻と頬が薄く色付いている。
理樹は、どうして彼女が泣きそうになっているのか分からず、「は……?」と小さく目を見開いた。
「嫉妬しちゃいます。レイちゃんに怪我がないようにしてくれて嬉しいのに、近い距離から、優しく触れられているレイちゃんが羨ましいだなんて思って……勝手に嫉妬してしまうくらい、私は、九条君のことが好きすぎるんです…………」
待て、俺は青崎レイを『優しく触った』覚えはない。
呆気に取られた一瞬後、理樹はそれを正すべく口を開こうとした。しかし、彼女がこちらに手をついて勢い良く身を乗り出してきたので、反射的に顔を後ろへと引いてしまったことで、そのタイミングを逃した。
ずいっと下から顔を覗きこまれて、口角が引き攣りそうになった。頼むからこれ以上近づいてくれるな、と思っていると、彼女が覚悟を決めたようにこちらを強く見据えて、目尻からぽろりとこぼれ落ちた涙にも構わず、突然怒ったようにこう言った。
「だから、私も九条君を押し倒したいです!」
「待て待てどうしてそうなる!? お前、本当に女子中出身なのか!?」
信じられんッ、純情系女子とは思えん台詞だ!
というか、なんでそう悪化していくんだよ!
続けようとした台詞を吐く間もないまま、沙羅が開いたこちらの片足にドカリと座ってきた。その際に少しスカートが乱れて上へとずりあがり、覗いた白い太腿の柔らかさが、重みとともに片足にかかった。
普段短いスカートの中に収まっている部分が、ぺたりと座られた太腿から柔らかな温もりと共に伝わってくる。こちらに手をついた彼女が、更に腰を前へと滑らせてきて、しゅるりと擦れる肌の感触をした瞬間、理樹は真顔でピキリと固まった。
その一瞬後、理樹は沙羅の細い腰を掴んでひょいと持ち上げると、素早く自分の太腿の上から彼女の尻をどかせた。
こいつはその意味を分かっているのだろうか、と思いながら、ベッドにそっと彼女を座り直させてすぐ、何も言わず足早にその場を後にした。