21話 四章 リチャードという男だった俺
初めて顔を合わせたのは、滅多に顔を出さない上流階級の夜会だった。俺は彼女のことを聞いて知っていて、そして何も知らない振りをして声をかけたのだ。
――初めまして、リチャード・エインワースと言います。
十六歳にしては華奢で顔も幼いながら、儚い美貌に弱々しい笑みを浮かべていた彼女の大きな空色の瞳が、こちらを見て少しだけ見開かれた。
誰だろう、と疑問に思ったのかもしれない。
多分、警戒されたのだろうと俺は思った。
彼女は社交が狭い。今の婚約者以外の男とはほとんど交流がなく、それは伯爵家である彼女の両親の意向でもあるとは勘付いていた。きちんと結婚させるまで何かあってはいけないからと、檻に閉じ込めるように行動範囲を制限するのはざらにあることだった。
彼女は数年前からずっと、悪役令嬢として同性からも距離を置かれている。いつも義務のように婚約者の参加するパーティーへ出席し、壁際にひっそりと立って踊りもしないまま過ごすのだ。
けれど初心であれば都合が良い。
俺は、どうすれば女が好意を持ってくれるのか知っている、ろくでもない男だったからだ。
初めは警戒されたとしても、どうにかなるだろうという自信を持っていた。しかし、次の瞬間、彼女の顔に警戒もない柔らかな微笑が浮かんで、俺は予想もしていなかったその反応に、数秒ほど次に用意していた台詞が出て来なくなってしまった。
――お初にお目にかかります。わたくしは、グレイド伯爵家の末の娘、サラと申しますわ。
子供みたいな細く澄んだ、小さな声だった。
変な女だ。余程大事に育てられてきたらしい。その笑顔には、婚約者の心がこちらにないと知っているかのような寂しげな印象が漂うものの、それを心底悲しくて、流れている噂のように相手の女が妬ましいといった感情については、微塵にも窺えない気がした。
二人の恋路を邪魔する、幼い頃からの婚約者である伯爵令嬢。
けれど彼女の婚約者と堂々と恋人のように振る舞い、今もなお一番目立つ場所で踊っている、太陽のような自信を美貌に溢れさせる金髪の男爵令嬢は、はたして何も悪くないのか。
とはいえ、そんな個人的な事情などは、どうでもいい。
俺は当初の予定通り、伯爵家と繋がりを持つべく、まずは彼女をダンスに誘った。
※※※
随分と古い記憶を夢に見た。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
昼休みに部室にある椅子を繋げて、横になったのは弁当を食べてすぐのことだ。目を閉じたままそう思い返していると、懐かしさと共に頬に触れる覚えのある柔らかな髪の感触がして、理樹はふっと瞼を持ち上げた。
目を開けると、こちらを覗きこむように見下ろしている少女の顔があった。一瞬、結婚したばかりの妻が、またしても近くから寝顔を観察しているという、よく分からないいつものやつをやっていると錯覚しそうになった。
拳一個分しかあいていない距離にあったのは、沙羅の顔だった。理樹はそう遅れて理解したところで、やんわりと眉間に力を入れて見せた。
「………何してんだ?」
「!? お、おおおはようございます九条君ッ」
沙羅が頬を赤く染めて、ぱっと頭を上げて慌てたようにそう言った。
露骨に怪しさ満載である。おちおち仮眠もとっていられないな、と理樹は上体を起こして、少し寝癖のついた頭をかいて雑に整えた。辺りを見回してみると、寝る直前までいたはずの拓斗の姿だけが消えていた。
あいつが教えたのかと察して、理樹は仏頂面で立ち上がった。腕を伸ばして筋肉の強張りをほぐしていると、沙羅が後ろに手をやって、そわそわとした様子でこう言った。
「えぇと、その、随分疲れているみたいだったから……」
理樹は伸ばしていた腕を下ろして、しばし考える間を置いた。
「……………少し夢見が悪かっただけだ。気にするな」
最近は、前世の頃の記憶をよく夢に見る。そのせいで夜はあまり眠れていなかった。抑えきれない叫びを枕で押し殺し、痛む喉に水を流し込んで朝日を待つ時間が、何気なく脳裏に思い出されて消えていった。
意識を戻すように、頭を動かして現在の時刻を確認した。
そろそろ戻らないと午後開始の授業に遅れる、そう現状を把握したところで、理樹はふと沙羅を振り返った。
「――で、寝込みでも襲おうとしたのか?」
「ちちちち違うよ!? 別にぎゅっとするタイミングを計っていたわけじゃなくてッ」
じわじわと恥ずかしさが蘇ったのか、慌てる沙羅の顔が火照っていった。
ずっと失敗に終わっているというのに、相変わらず『ぎゅっとします!』という目標は続いているらしい。発端は拓斗の部活結成であり、彼女が唐突にそんなことを口にしたのが始まりだったが、一体何がそう思い立たせたのかは不明だ。
「お前、そんなに抱擁したいのか?」
尋ねてみると、沙羅がじんわりと頬を染めて「それは、その」と言葉を濁しした。
恥ずかしがりつつも普段から突撃してきているというのに、しかも寝ているところに何かしようとでもしていた直後だというのに、ここで羞恥に言葉を詰まらせるというのも、変な少女である。
達成してくれれば、少しは放っておいてくれるのだろうか。
どうしてかそれも悪くない気がした。理樹は、顰め面のまま「ん」と言って手を広げてみせた。彼女が不思議そうにこちら見てくるので、声をかけた。
「ぎゅっとするんだろ? とはいえ、一回だけだからな」
「え」
言われた言葉を理解するのに、沙羅は数秒かかったようだ。二秒半後ほど硬直していたと思ったら、ぶわりと赤面してそのまま動かなくなってしまった。瞳は羞恥の熱で潤み、今にもこぼれおちそうなほど見開かれている。
「無理ならこっちからするが」
理樹はそう言って彼女の手を取ると、そのままぐいっと引き寄せて、正面から自分の腕の中に閉じ込めた。
抱き締めた身体は、やはり前世で出会った頃と何一つ変わっていない気がした。
全体的に華奢で、第一子を懐妊してからはコルセットを無理に付けさせなくて、本人も結局は、外に行くとき以外はやらなくなった。それでも尚、腰は相変わらず細いままだったのを覚えている。
ただの気紛れなのだ。
目覚めたばかりのせいでもあるのかもしれない。
ここ最近は、毎夜ほとんど同じ夢を見るのだ。繰り返し当時を見せられ、そのたび声もなき慟哭に歯を食いしばる。
なぜ、放っておいてくれない。どうして君は、再び俺の前に現れた?
これで、もう『ぎゅっとする』の突撃はしてこないだろう。
理樹はそう思って、離れ難い手を――ようやく解いて彼女を自由にした。
「戻るぞ」
そう声を掛けたところで、沙羅がこれまでにないくらいに沸騰した真っ赤な顔で、茫然としていることに気付いた。
彼女は抱き締められた事実を思い返すように、自身の身体を見下ろして、それから再びこちらへと視線を戻してきた。口をパクパクとさせているものの、声が出てくる様子はない。
変な少女である。理樹はつい、小さく笑ってしまった。
前世で妻とした時にも、結婚式から初夜、初夜から一週間の新婚祝日期間にも同じ表情を何度も見た。それが、なんだかおかしかった。彼は柔かく笑んだ顔を見られないよう、ギシリと軋んだ胸の痛みを過去に追いやりながら踵を返した。
「じゃ、先に行くからな」
俺は悪党みたいな男だ、だから待たない。
そう思いながら理樹は後ろ手を振り、彼女を部室に残してそこを後にした。




