2話 序章 本当の始まりは高校デビューその日だった
九条理樹は五歳まで、人生なんて珍しいことも不思議なことも起こらないものだと思っていた。自分は少々子供らしくないらしいが、それがどうした、と常々可愛くないことを表情に浮かべるような子供だった。
ところが、蓋を開けてみればなんでもないことだった。
別の世界で生きていた前世の記憶とやらが、頭の中に残っていたせいである。
五歳の入園式で思い出した際には、まさかこんなことが起こるものなのか、と我が身で体験して驚いたものだ。
とはいえ、ちょっと時間を置いて考えてみれば「なるほどな」とも腑に落ちた。そもそも、両親や兄弟とちっとも似ていないなと思っていた顔は、前世のままだったからだ。
いかにも人嫌いそうな鋭い目付きで、黙ってむっつりしていると「威嚇してるの?」と二人の兄たちに恐る恐る尋ねられた。目鼻立ちは悪くないものの、口を閉じるとふてくされたような表情になるので、印象は良くない。
幼稚園の入園式に我が儘をいって、理樹は地元の小学校を経て中学に進学した。
そして今年の春。自立心を養うという九条家男子のしきたり従い、マンションで独り暮らしを始めて、高校デビューを迎えることになった。
学校に関して、一歳ずつ年が違う兄たちは「うちの学校においでよ」と寂しがったが、理樹としては一般の学校の方が合っていた。前世の自分が、父の代でようやく築いた成り上がりの貴族だったせいもあるのだろうと思う。
バカみたいに騒ぐ男子生徒がいて、それに対して言葉使い悪く怒る女子生徒がいたりする。彼らが揃って走り回ることも珍しくなく、胡坐をかいていようが頬杖をついてぼんやりしていようが、それが目立つということもないから、家にいるよりもかなりリラックス出来た。
前世でも漆黒の髪だったから、今の日本人となった『九条理樹』に違和感はない。藍色の瞳が茶色になったのは、些細な違いである。
背丈も前世の十六歳当時だった頃と同じだったから、同年齢の男子生徒よりは少し高めだった。素の口調がつっけんどんで荒々しいのも変わっていない。
前世ではリチャードという名前で、愛称はリッキーだった。
今の『リキ』という名前についても、なんかそのまんまだなと笑えた。
前世の記憶があるからといって、何か得をしたり優位になるだとかいうことはなかった。まず文明が違うし、暮らしも全然異なっている。
何より、理樹は前世がああだったからといって、そこに結びつくような目標だったり、夢だったりを掲げることもなかった。
つまり、今となっては、全く関係がない話なのだ。
理樹のひとまずの目的は、高校生活を楽しむことである。両親の望む国立の大学に合格することを条件に、高校までは好きな学校に行かせてもらえることになっていたから、初めての一人暮らしと三年間の高校生活を満喫する予定だ。
今日は、待ちに待った高校デビューの日である。少しハネ癖のある髪は、前日に一センチほど切って整えてきた。高校デビューが上手くいって、中学時代の女子に散々な扱われようだった、非モテ組という立ち位置を少しくらいは脱却出来ればとは思う。
「中学までモテない組だったんだよなぁ……」
一般的にイケメンと呼ばれている男子と並ぶと、もはやただの平凡枠である。
むしろ、不良っぽいと言われたあげく、女子生徒の好感を得ることは出来なかった。……まぁ通っていた中学の八割の男子生徒がボロクソ言われていたようなものなので、その傷心も浅くで済んではいるのだが。
地元からそんなに遠くない高校という事もあり、同じ中学出身の生徒も少なからずいた。
学校指定の通学鞄を持って少し早めにマンションを出た理樹は、これから通うことになる高校の通学路の途中の電柱に、背中を預けて立つ少年の姿を目に留めてすぐ、声をかけた。
「まさか冗談だと思っていたら、マジで待ち合わせ場所にいるとは驚きだ」
すると、理樹と同じく真新しいブレザータイプの制服に身を包んだ男子生徒が、「お前、開口一番にそれかよ」と、心外だと言わんばかり眉を潜めた。
電柱で待っていたその少年は、同じ中学出身の佐々島拓斗といった。背丈は理樹と同じくらいで、相手に警戒心を持たれない呑気な表情ながら、活気溢れる瞳には悪戯好きの好奇心も覗いていた。
拓斗とは、中学一年生の頃に同じクラスだった。出会った初日になぜか一方的に話し掛けられ、しばらくもしないうちに意気投合した。中学時代は、いつも一緒にいる組み合わせだと知られている親友同士である。
理樹は、高校のブルーの制服に身を包んだ親友を見つめた。自分と違ってシャツの第一ボタンを外し、ネクタイは少し緩め。同じなのは、ブレザーの前ボタンをしめるのが面倒で開けているところだろうか。
気になるのは、少し明るくなった頭髪である。先週バッティングセンターに遊びに行った時には真っ黒だった髪が、少し赤みが強い濃い茶色になっていた。
それについて理樹が口を開く前に、こちらの頭髪を見た拓斗が、ニヤリとしてこう言った。
「ほんとに散髪してるとか、ちょっと笑った」
「お前だって同じだろ。というか、そんなに茶色く染めて大丈夫なのか?」
すると、拓斗が「ふっ」とどこか勝ち誇ったような表情をした。
「校則内容を確認して、ギリギリオーケーな範囲で染めてもらったから抜かりはないぜ。運動部の入部が厳しそうなのが難点だな」
「中学のサッカー部で根を上げていた奴が、何を言ってんだ」
「ははは、もう運動系はこりごりだな。高校では自由を謳歌する!」
拓斗は凛々しい顔で言い切った。どちらが声を掛けたわけでもなく歩き出してすぐ「とはいえ、帰宅部って選択は無しだな」と、彼は続けて自身の考えを語った。
「俺はお前みたいに頭が良くねぇから、大学の推薦書とかに書けるよう部活くらいはやっておこうと思ってさ。ひとまずは、暇潰しがてら遊べるような部活を作るつもりだぜ」
「遊べるような部活ねぇ……。活動内容は決めたのか?」
「まだだ」
キッパリと答えた拓斗に、理樹は眼差しを向けたまま沈黙で応えた。
申請の段階で却下されそうだけどな……そう思いながら、何度か歩いた高校までの通学路を進んだ。
学校に近づくにしたがって、同じ制服の学生たちの姿も増え始めた。チェック柄が入ったスカートと、男子のものとは違って身体のラインが分かる丈の短いブレザーに、胸元のふんわりとしたリボンが可愛らしい女子生徒たちの姿も多くある。
のんびりとそれを眺めていた拓斗が、「ふうん」と呟いた。
「やっぱ、中学の制服よりスカートの丈は短いのな。なんか、男子の制服よりデザインが凝ってる感じじゃね?」
「さぁな。俺は特に興味がない。中学よりネクタイがしっかりしているのが、結びやすくていい」
「お前の制服に対する着眼点って、ちょっとずれてる気がするなぁ」
時々おっさん臭いこと言うよな、という目を拓斗がこちらに向けてくる。
理樹は、おっさん臭い意見ではなく一般論だ、と思いながら、その視線を横顔で受け止めた状態で言い返した。
「同じ小学校出身の女子に『これ、どうかな?』と言われたのに対して、お前が『中学はみんな同じセーラー服姿だから、後ろから見たら誰か分からなくなるよな!』と笑顔で断言して、殴られたよりはマシだ」
拓斗は恋よりも食い気だ。面白いことにしか目がないという困った性格をしており、中学生だった頃、面白い騒ぎが起これば突入するといったトラブルメーカーとしても知られていた。
何気なく会話をしながら歩いていると、目と鼻の先に、数年前に建て替えられたばかりの市立高校が見えてきた。大きな正門には上級生が立っており、今日から通う新一学年生の胸元に造花を付けている。
正門の向こうには、噴水や大きな木や花壇が配置された校庭が広がっていた。そこにはプランターで花道が作られており、『新一年生はこちら』という案内の看板もあった。
「理樹と同じクラスだといいけどなぁ」
「五クラスあるらしいからな、違うクラスになる確率も高い」
「もし違うクラスだったら、休み時間のたんびにそっちに行くわ」
「やめろ。人見知りってわけでもねもぇだろ」
「だってさ、中学の二年、三年の時も別々のクラスだったんだぜ? 親友と引き離すなんてあんまりだ、って先生に泣き付いたわ」
あれは担任が心底哀れで同情した。
というか、こいつも一週間目で俺を親友枠に入れたんだよなぁ……今となっては一番気楽に過ごせる相手となっているものの、そこに関しては未だに謎だった。
そう中学時代を思い返していたら、正門に立っていた上級生の男子生徒に呼び止められ「入学おめでとう」の言葉と共に造花を胸元に付けられた。
その時になって初めて、理樹はネクタイに入っている細いラインの色が異なっている事に気付いた。どうやら、学年別で色を分けているらしい。新一年生の女子については、同性の先輩女子生徒が造花を付ける係りにあたっていた。
「ここを少し進んだ先に、クラス発表の紙が貼られているボードがあるからね」
親切にも口頭でそう教えてもらった理樹は、小さく礼を言って拓斗と正門を通過した。そこから数メートルも進んでいない距離で、唐突に後ろから、可愛らしい女子生徒の叫び声が上がった。
周りがざわりと騒ぎ立って、理樹と拓斗も予想外の甲高い声に驚いて足を止めた。振り返ると、そこには自分たちと同じように、ブレザーの胸元に新入生と分かる造花を付けた一人の女子生徒が立っていた。
覗いた首も手足も細く華奢であるが、体系が分かる制服のブレザーからは、発育良い胸の膨らみが主張していた。腰はきゅっとくびれており、形の良い白い太腿を覗かせて制服のスカートが風に揺れている。
ヘアピンや飾り留めもされていない長い髪は癖がなく、絹のように柔かな印象で細い腰元をすっぽりと覆っていた。生粋の日本人とは思えないブラウン寄りの色をしたその髪は、日差しの下で柔らかな栗色を強めている。
その少女は、体格も華奢ながら小さな顔をしていた。顔立ちはひどく端正で、どの角度から見ても死角などない、というくらいに目を引く美少女であった。
庇護欲をそそる愛嬌たっぷりの大きな瞳、ふっくらとした小さな口。くりくりとした瞳と華奢な体格もあって、一見した印象は小動物系美少女である。周りにいた女子生徒たちも、その愛らしい容姿を見つめて動けないでいた。
「あのッ、今、お時間よろしいでしょうか!」
こちらと真っ直ぐ目を合わせたまま、少女が向こうから叫んできた。
張り上げたはずの声は、まるでアニメの声優のようで、周りにいた新入生、そして上級生たちが揃って余計にハートを射抜かれた――ような音を理樹は聞いた気がした。
「……おい、理樹? あの子、お前を真っ直ぐ見てないか?」
「………………」
理樹は顔も向けず、何も答えなかった。
人違いではないだろうかとも読める彼の真顔を見て、拓斗が再び少女へと視線を向ける。しかし、彼女が肩に通学鞄をさげたまま、華奢な手足を大きく振ってやってくるのを見て、再び親友へと視線を戻した。
「え。お前、あんな小動物系美少女といつ知り会ったんだ?」
周りの生徒たちがその美少女に好感度百%という目を向け、友人が戸惑いを隠せない隣で、理樹だけが真顔だった。もともと無愛想であるため、余計に人が話しかけづらい雰囲気を放っている。
その正面に、少女が立った。彼女が緊張した様子ですぅっと小さく息を吸い込み、蕾のように愛らしい唇をきゅっとしたかと思うと、唐突にこう切り出した。
「私、桜羽沙羅と言います! あなたに一目惚れしましたッ、私と付き合って下さい!」
勢いよくそう叫んだ少女は、キレイに九十度の角度に頭を下げて、こちらに右手を差し出してきた。
行動だけみれば、なんとも漢らしいものである。外見の儚げな美貌からは想像がつかない突然のイベントのような告白タイムに、その場にいた生徒たちが、先の展開を待ってゴクリと唾を呑んだ。
これ、普通は男女逆の感じで行われるやつじゃね?
そんな困惑漂う空気の中、拓斗が、告白を受けた親友の理樹と、右手を差し出したまま告白の返答を待つ小動物系美少女へ交互に視線を向けた。
「え、どういうこと? というか一目惚れ? 俺と同じくモテない組で、中学の女子にさんざんな扱われようだった理樹に?」
その時、この場に居た全員の注目の中心で、理樹が眉一つ動かさずこう答えた。
「無理。断る!」
理樹は、その小動物系美少女の告白を二言で切り捨てると、半ば放心状態の拓斗の腕を掴み、大股歩きでその場から離れた。