月待草の香水瓶(改稿)
読んでいただけたら嬉しいです。
2018年05月26日改稿しました。
女騎士、いや。元女騎士カレン・コムフォートは、故郷に向かっている馬車の中に居た。
「はぁ…。」
見覚えのある景色が見えたが、彼女の心を占めているのは憂鬱だった。
カレンは自分の足元を見てためいきをつく。彼女の履いているスカートのひざ下は右側しか膨らんでいなかったからだ。
カレンは半年前に騎士団と冒険者合同で行ったヒュドラの討伐作戦に参加した。
その戦いの中で、自分が率いていた冒険者を庇い、自らは左足の膝から下を失ってしまったのだった。
治癒魔法とて万能では無い。大怪我であれば直す事も出来るが、千切れてしまったものを復活させる訳には行かなかった。
文官として騎士団に残る事は出来たが、剣術の腕のみでのし上がって来た事に誇りをもっていた。
また、戦場でも試合でも、泥にまみれるような無様な真似はしない事から、剣の姫、剣姫と呼ばれていたプライドもあった。
だから、閑職に回されて情けを掛けられる事を良しとしなかったのだった。
――『騎士団は、怪我をしたとしても見捨てる事はありません。』
――それを実際に見せる為の見世物になんかなりたくはない。
彼女はそう本気で思っていた。
*
馬車の窓から外を見ながらカレンは先週に退院した時の事を思い出す。
カレンが庇った冒険者グループを始め、騎士団の皆や街の人まで総出で祝ってくれた。
入院中もだれかしら毎日見舞いに来てくれて、足の事やこれからの事について悩む暇も無かった。
だから、退院の日に、それまでもほぼ毎日来ていたカレンが救った冒険者たちが号泣するので逆に困った位だった。
しかし、カレンはその足で騎士団に向かい、自ら除隊を願い出た。
除隊式は昨日に開かれて、後輩の女騎士から貰った花束は、隊員の日に貰った花束と共にドライフラワーにして飾っておこうと荷物に括り付けてある。
ただ、騎士団長は騎士の証である指輪の返却は許してくれなかった。
『一度騎士として誓いを立てたからには、一生涯騎士である。』
という理由かららしい。
カレンはありがたくその言葉と指輪を受け取る事にしていた。
*
そう思い出しているうちに、見覚えのある家の傍をとおり、馬車が止まる。
「着きましたよ。」
御者から声が掛かり、彼が馬車を降りて実家に人を呼びに行くのが見えた。
実家から二つの人影が出て来るのが見える。
しばらく見ない間にずいぶんと老け込んだ父と母だった。
「おかえりなさい。」
馬車のドアを開けながら、母がそう言ってほほ笑む。
一人娘を心配そうに見ている父の視線は、足元に行っている事にカレンは気が付いた。
「ただいま。父上、母上。すまない。ちょっと立てなくてな。荷台から車椅子を出してここに置いてくれないだろうか。」
「話し方も騎士様みたいね。」
「騎士…だったからな…。」
顔に悔しさが出てしまったらしい。母はそれきり黙ってしまった。
「よう!おかえり!カレン。」
「よく帰って来たね。久しぶり。ミランダおばさんだけどわかる? 」
そのうち人が集まって来て、村で歓迎会の用意をしている事を告げられた。
村長の家の居間には、この村全員と言ってもいいくらいの人が集まっており、昔話や王都の話。そして騎士団の話を聞かせた。
子供達は目をキラキラと輝かせて、戦いの後に凱旋した話や、魔物を討伐した時の話を聞いて来た。
だが、皆気を使ってか、足の事については誰も聞いては来なかった。
何度か探したが、幼馴染の姿を祝いに来ている村人たちの間に見つける事は無く、カレンは残念とも安心したとも取れる、不思議な感情を抱いていた。
*
ささやかな歓迎会が終わり、実家の自分の部屋のベッドに寝転がると、カレンはこの村を出た頃の事を思い出す。
この村は貧しい山間部の寒村で、カレンは子供の頃、この村から何としても出て行きたかった。
たまに隊商が来た時には、王都での生活や騎士達の活躍について話を聞きたがり、その度に母に連れ戻されて仕事の手伝いをさせられた。
そのうち、身体も大きくなって来たころ、隣村に帰って来ていた元冒険者の老剣士から剣術を教わり、成人となるのを待って王都へ向かってまずは衛兵となった。
その中で徐々に頭角を現して行き、二十歳の時に騎士団員として採用される事となった。
だが、二十二になった年、討伐で足を無くし、今はもう誕生日も過ぎて二十三になってしまっていた。
討伐と名誉除隊の報奨とで、この村で一人で生きていくなら十分な蓄えはある。
ただ、彼女は目標の全てを失ってしまったショックから、自分の足で立ち上がる事が出来なくなってしまっていた。
部屋の壁に立てかけてある義足を睨みながら、これからどうしようか考える。帰ってすぐ両親は結婚を勧めて来たが、カレンはどうにも気乗りがしなかった。
*
二日ほど経って、家の中を車椅子で移動するコツが解って来て、いよいよ一人で外に出みようと挑戦してみる事にした。
この辺りは冬には冷え込むので、家は地面から一段高い所に入り口がある。そこには父の下手くそな大工仕事でスロープが取り付けてあった。
慎重なタイヤさばきで、ゆっくりと地面へと降りる。雪が降った後の事が不安になるが、それはその時にまた考えようと思った。
実家の庭を車椅子で動き回りながら空を見上げる。
私はどこまでも行ける。そんな風に思っていた子供時代を思い出す。
「なんだ。帰って来てたのか。その足、どうしたんだ? 」
零れ落ちそうになった涙を拭くと、声の主を睨む。
身長は6フィートをちょっと超える位。肩幅の広い大男で、茶色の髪に青い目。
ずいぶん大人になったけれども、幼馴染に間違い無かった。
このぶっきらぼうかつ無遠慮な問いかけはウォルター以外にあり得ないだろう。
ただ、カレンは何も答えることが出来ず、逃げるように家の中へと戻った。
『成功したら、ウォルターも雇ってあげるよ。』
この村を出て行く時、言い残しておいた事を思い出したからだった。
あんなに偉そうな事を言っていたのに、私は村に戻って来てしまった。
彼の目に嘲笑が浮かんでいる気がして、彼の目をまっすぐ見る事すら出来なかった。
しかし、次の日の朝、両親を畑に送り出す頃、いきなりウォルターが訪ねて来た。
「昨日はいきなり声を掛けてすまん。びっくりさせたな。まずは何をしたらいい? 」
それだけ言うと、まずは何をしたら良いか聞いて来た。
「じゃあ、まずは家の中で車椅子が自由に移動できるように道を作りたいんだ。家具を動かすのを手伝ってもらえないか? 」
そんな当たり前のように聞いてくるウォルターに、カレンは子供の頃のように手伝いをお願いしてしまうのだった。
それから何故かウォルターは毎日家に来て、カレンの身の回りの世話をして行くようになった。
*
ウォルターは、この数日は村から出て、森で野営をしながら過ごしていた。だから、カレンが帰って来たのは、帰って来てから聞いたらしい。
ウォルターの家も農家だったから、仕事は山ほどあるはずだった。
だが、涼しい顔をして終わらせて来たと言うと、早速カレンの世話を始める。
車椅子を押して歩き、義足の装着を手伝い、足を動かして血が溜まらないようにして、昼ご飯を振る舞った。
父の作った下手なスロープは、ウォルターの手によってしっかりとした物に代わり、部屋の中の段差もいつの間にか埋まって行った。
そして昼を過ぎると、来た時のようにフラリと帰って行くのだった。
カレンの両親も、普段は農作業もしなくてはならない。
一日中カレンに付きっきりと言う訳にも行かないため、ウォルターが手伝いに来てくれるのは両親としても願ったり叶ったりなようだった。
不満に思っているのは自分だけだと気が付いて、カレンは文句を言うのは止めておいた。
*
昼ごはんを食べ終わり、ウォルターは何故かリンゴを剥いていた。
クマのような大男が小さなナイフで器用にリンゴを剥いている姿は、なんだか可笑しかった。
「私が出て行ってから、何をしてたんだ? 」
「親の手伝いをして、農場を見回って…。カレンが居なくなる前の生活とまったく変わらないな。」
「こんな村に居て、よく平気だな。ウォルター。」
そう答えたウォルターに何故かイライラとして、つい言ってしまう。
――自分が血の滲むような努力をして、やっと掴んだ物を失った。
――こいつは安穏と過ごしていただけなのに、何も失ってない。
――そんなの不公平じゃないか!
そんな気持ちをぶつけてしまったのだった。
「ここが俺の生まれた村なんだから、ここが俺の生きていく場所さ。」
そう言って食後にリンゴの皮をむき続けるウォルター。
「外を知らないから、こんな暮らしが耐えられるんだ! 」
カレンは苛立ちをウォルターにぶつける。
「…それでも、俺はこの場所に居たかったんだよ。」
ウォルターはそういうと力無く笑い、切ったリンゴをカレンに渡す。
カレンをすぐに後悔が襲ったが、吐いてしまった言葉は取り返すことが出来ずに黙り込んでしまう。
受け取るだけは受け取ったものの、そのリンゴは乾いて真っ赤になってしまうまで手を付けられる事は無かった。
*
それからもカレンの世話をしに、ウォルターは毎日やって来た。
一体いつ自分の仕事をしているのかと尋ねるが、ちゃんとやって来てるから心配しなくていいと言われる。
カレンはどうにも酷い事を言ってしまった事を謝るタイミングを測りかねていた。
ウォルターはいつものように水を運び、寝起きを手伝い。散歩に連れ出し、ストレッチを手伝う。
義足を付けて立ち上がる手伝いもしてくれていたが、一向に足がカレンの自由になる気配は無かった。
それから三日ほど過ぎたころ、カレンは洗濯の終わった服から、とても優しい香りがする事に気がついた。
「母さん? 服に香水が付いてたみたいなんだけど。」
「ああそれ? ウォルターが持って来てくれたのよ。なんでも心を落ち着かせる…? 効果があるから使ってくれって。」
心を落ちつける効果があると聞いて、カレンに使ってくれとウォルターが持ってきていたのだった。
「ウォルター。あの香水高かったんじゃないのか? 」
次の日、いつものように自宅に来たウォルターに聞いてみた。
「いや、あれは月待草から採れる花を俺が精製したものだから。」
「月待草? どんな花だ? 」
「このあたりにしか咲いてない花でね。スズランみたいな小さな花で、月夜の夜にしか咲かない。森の中に生えている場所があるから、そこから採って来てるんだ。」
始めて聞く花の名に興味を持ったカレンにウォルターは答える。
「…一度、見に行ってみたいな。」
「じゃあ、今度の礼拝の日にでも行ってみようか。」
本当に嬉しそうにウォルターはそう答えた。
*
礼拝が終わった後、荒れた山道を車椅子を押してもらいながら西の森へと歩みを進める。
「さすがにここまでは全然手が回らなくてな。」
ウォルターが言うが、カレンは何の事かと頭を捻る。
「もしかして、村の道が通りやすくなってたのは、お前がやってたのか? 」
思い当たる事はたくさんあった。道に飛び出ていた石が無くなっていたり、水たまりになるような場所が埋められていたり。
「いや、村の奴らだよ。俺がちょこちょこやってたら、手伝ってくれるようになってさ。」
誰に聞いても、いや、知らないよと答えられていて、カレンは誰にお礼を言ったら良いのか困っていた。
「カレンは村から出た英雄だからな。皆、少しでも何かしたいんだろ。」
カレンは思わず嗚咽を漏らして泣いてしまう。
どうして村を捨てた私に、こんなに優しくしてくれるのか。
暖かさに胸がいっぱいになり、こんな村に帰りたくないと思ってしまった自分を恥じた。
そんな嗚咽が続く間、ウォルターは黙って空を見上げ続けていた。
カレンが泣き止むのをまって、ウォルターは再び車椅子を押す。
「わたしは、皆に何を返せるだろう。」
「歩けるようになりゃ十分だろ。」
「お前は何時も辛辣だな。」
周りの木立が増えて、だんだんと空が見えなくなって行く。
道にも木々の張った根が浮き上がり、車椅子で行くには厳しそうだった。
「ここからはちょっとキツいから。」
カレンは身体が椅子から浮き上がるのを感じた。
「ちょ…ちょっと…! 」
「こうしないと向こうに行けないだろ? いいからちゃんと掴まってろ。」
いわゆるお姫様抱っこスタイルで持ち上げられたカレン。
抗議の声をあげようと思ったカレンだったが、何の言い訳も聞かないとばかりのウォルターの態度に、諦めて腕を彼の首に回すのだった。
*
それから五分ほど歩くと、やっと月待草の群生地に出た。
誰かに見られていないかと周りをキョロキョロと見回していたカレンだったが、芳しい香りがしてくるにつれて、心も落ち着いていった。
「ここだ。」
花の香りと、腕に抱かれている安心感から、うっとりとなっていたカレンは、そんな声に我に返る。
「この花って、こんなに綺麗に並んで咲くものなの? 」
そこには、小さなつぼみをつけた植物が、まるで花畑のようにきちんと並んでいた。
「ああ、この花は、元々はもっと山の高い所にしか
咲かないんだ。それに数ももっと少ない。だから、あまり採れなかったんだよ。」
「前からそんな事やってたっけ? 」
「知らなかったのか? うちは代々この仕事さ。」
満足げにウォルターは言う。
ウォルターが言うには、今までは自然に生えたものしか採れなかったものを、栽培出来るまでになっていたのだった。
ウォルターの家に遊びに行くと、いつも叔父さんは日中寝ていた。あれは夜に山に行っていたかららしい。
「この畑を作ったのはウォルター? 」
「そうだ。凄いだろ。大変だったんだぞ。水や温度に敏感で、結局ここでしか咲かなかったけどな。」
「そう…なんだ。」
「満月の夜になると、こいつらは満開になる。その時にはすげえんだぜ。こんなもんじゃない。もっと素晴らしい香りがするんだ。」
まるで自分の事のように誇らしく話す姿を間近に見て、カレンは自分の胸が高鳴っている事に気がつく。
だから、二人のしゃべり方が、子供の頃に戻っていた事には気が付けなかった。
*
「おーい。カレン。寝てるのか? 」
扉の向こうからウォルターの声がするが、カレンは答える事が出来ずに布団を頭から被る。
あれから七日ほどの時間が流れた。最初はまた普通に話し掛けようと思ったのに、自分がどうやって話をしていたかが解らない。
あわあわと言葉にならないものが口から出るばかりで、もどかしさばかりが募っていた。
「じゃあ。今日は帰るな。」
扉の向こうからそんな声が聞こえ、玄関が開けて閉められる音がした。
このままじゃダメなのは解っていたが、斬った張ったの世界しか知らなかったカレンは、どうしたら良いか途方に暮れていた。
*
「カレンさん。居るー? 」
翌日はウォルターは来ず、代わりに昼過ぎにミランダの娘のジェニーが来た。
とうとう呆れられてしまったかと悲しくなる。
「今晩から山に入るから、私にカレンさんの手伝いをしてくれってお願いされたの。」
ジェニーは今年二十になる、この村には珍しい若い娘だ。既に結婚もして子供も居る。だが、ほんわかとし過ぎていて、大丈夫かと心配になるような娘だ。
「そうなのか? ウォルターはどうした? 」
「ああ、もうすぐ満月だから、花の刈り取りに行くんだと思うよ? 」
「一人でか? 」
「あれ? カレンさん知らなかったの? ウォルターさんのお父さんって亡くなってるよ? 」
「……。何時だ。」
「もう…何年前かなぁ。花を取りに行った時に事故で。それからお母さんも気を病んで直ぐに亡くなっちゃって、ウォルターさんは今は一人で暮らしてるんだ。」
――全然知らなかった。多分あいつは私が気にしないように、周りに口止めでもしていたんだろう。
「でも…。いいなぁ。カレンさん愛されてて。」
「なんの事だ? 」
「だって、ウォルターさんって、カレンさんが何かあってこの村に帰って来ても不自由しないようにって月待草の栽培を始めたんでしょ? 危険な仕事だからって言って。」
「……。」
ウォルターに関しては、本当に知らない事ばかりだった。
安穏と過ごしていた…?
何の努力もしないで過ごしていた…?
何も失う事が無く生きて来ていた…?
自分がウォルターに当たってしまった理由を思い出して、涙が溢れて来る。
カレンはウォルターと話したい。抱き締めたい。そして謝りたい。
そんな思いで胸が張り裂けそうになっていた。
*
「オーガが出た! 」
陽が暮れて真っ暗になった村に駆け込んで来たのは、冒険者数人のグループだった。
村長ほか、大人の男達が集まって来る。
カレンもちょうど外に出ていた。星を見ながら、ウォルターが帰って来たら、どうやって話し掛けようか考えていた所だった。
オーガとは、人を喰う鬼の魔物の事だ。
ヒュドラの討伐の際にカレンの足を落としたのもこの魔物だった。
カレンが指揮をとっていた冒険者の一人が、いきなり横から飛び出して来たオーガに組伏せられる。
カレンはそれを助けようと、オーガに斬りかかるが、一太刀では絶命させるには至らず、半狂乱となったオーガに足に喰いつかれた。
周りに居た者達も必死で助けようとしたが、オーガが絶命した頃には、既にカレンの足は使い物にならなくなってしまったのだった。
だからカレンは恐怖に震える。五体満足でも敵わなかった相手に、今の自分が敵うとは思えなかった。
「西の森の辺りであいつに会ったから、もしかしたら山道を通って…」
――西の森だって……!?
慌ててウォルターを探すカレン。
でも彼の姿は何処にもなかった。
――聞いたじゃないか。月の出ている夜は、月待草の花を採りに行くって…。
上を見上げると、空には煌々と光る満月が浮かんでいた。
カレンはあわてて車椅子を自分の部屋に向け、着くと同時に義足を着ける。
「大丈夫! きっと立てる! 」
腕の力で体を起こしてそのまま壁に寄りかかる。
まだ足の感覚は無いが、何とか立つ事が出来た。
手入れもしないまま放っておいた愛剣は、鞘から抜くとうっすらと錆が浮いてしまっていた。
剣だけを手に取り、カレンはよろめきながら家を出る。
――今のお前が行って、何が出来る?
弱気の虫が囁く声を、首を振って振り払う。
彼がオーガに喰われてしまっている姿が、頭に浮かんで離れない。
*
村を出るまでに、何度も転び、夜露に濡れた泥にまみれ、腕も顔も擦り傷だらけになっても、彼女は足を止めなかった。
さらには弱って力の無くなった筋肉に、目一杯魔力を通す。
神経が繋がって来る度に、信じられないほどの苦痛がカレンを襲う。
それでもカレンは構わずに走る。
「必要なのは何か、今やっとわかった。」
上手く動かせない義足が、道に浮き出した木の根に引っ掛かり、また転びそうになる。
――ここはあの人が、私をはじめて抱き抱えてくれたあたり。あの人はまだきっと大丈夫。何があっても、何をしてもあの人と二人で帰る!
森の中に、人間の倍はありそうな影が見えた。村を背に、その前に立ちはだかる男が一人居るのが見える。
「ウォルター!! 」
「カレン!? こっちに来ちゃダメだ! 逃げろ! 今すぐ! 」
ウォルターはカレンを護るように、その前に立ちはだかる。
だが、次の瞬間、カレンの目の前でオーガの大岩のような拳が彼を襲った。
本気では無い、からかうような一撃だったが、ウォルターは叩きつけられるように地面に倒れ込んだ。
無手の人間一人と、足を引きずった女。相手にもならぬと言いたげな態度だった。
カレンの頭の中は怒りで一杯になる。
ただ、心の中だけは不思議と落ち着いていた。
魔力が込められて行く剣が、ほんのりと紅く光り始める。
膨大な魔力を感じて、周りで鳴いていた虫や鳥も息を潜め、風さえもその動きを止めてカレンの周りで渦を巻き始める。
カレンが目をゆっくりと閉じて、カッと見開くと、その目すら紅く光っていた。
『本気で他人を護ろうと思った時しか、本気の力なんて出ないもんだ。』
どうにも剣が軽いと言われた時、騎士団長に言われた言葉を思い出す。
カレンはオーガに向かって一直線に走る。
魔力の流れも滅茶苦茶で、足は痛みしか伝えて来ない。自分がまだ走れていることすら信じられなかった。
下卑た目で舌なめずりをしていたオーガの顔が驚愕に変わり、恐怖に変わった。
低い姿勢のまま、腰で居合に構えた剣を一気に振るう。
逃げようとしたオーガは、腰から身体を両断された。
逃げ出した勢いのまま二つに別れて倒れ、大きな音と地響きを森にまき散らす。
今まで動く事すら出来なかった鳥が驚いて飛びあがった。
カレンは剣を放り出してウォルターに駆け寄る。
「カレン。お前に護って貰うなんて情けないな…。」
弱々しくウォルターが言う。
治癒魔法を掛けながら、カレンは首を振る。
「そんな事無い! ウォルター。あなたが居たからこの村でやって行けた。あなたが居たからこの暮らしも良いものだって思う事が出来た。あなたが居たから。あなたが居たから…。」
「……。」
「だから…本当に護ってもらっていたのは私の方なの…。」
カレンは、やっとそれだけを伝える事が出来たのだった。
*
「……その後、月待草の栽培に成功したその農夫は、元女騎士を嫁に取り、末永く幸せに暮らしました。」
目の前の老婦人は、そう言って話を締めくくった。
「その農夫と女騎士の思いが詰まったものとして、この香水は真実の愛を伝えるものだとされる事になったのです。今は村の特産として、この花のおかげで豊かになった村人たちによって大事に育てられています。」
老婦人は軽く礼をすると、背中をピンと張ったまま、壇上から降りる。
年齢を感じさせない美しい姿だった。
今日は、この月待草の香水の販売会。先の老婦人は、この香水を独占的に扱っている商会の方だった。
ローザンヌ伯爵の屋敷で開催されたこの販売会は、王都に居る貴婦人たちの間で話題になっていた。
この香水は元々品薄で手に入り辛かった。
昔は各国の王族が、大事な時に付けるものとして珍重されていたようなものだった事もあって、欲しくても買えない夫人が大変多かったためだ。
――その香りは心を落ち着ける効果があり、抱きしめてもらえさえすれば首筋に塗った香りで意中の男性をモノに出来る。
そんな噂が流れるほどだった。
老婦人の話は、時に微に入り細にうがち、まるでお芝居を見ているようだった。
ただ、ここに居るほとんどの夫人たちは、本当の話だとは思ってはいなかった。
宣伝をする為の作り話だろうと思っていたのだ。
ふと後ろを振り返ると、ある騎士のご婦人が涙をハンカチで拭いていた。
「まるでお芝居を見ていたみたいですわね…。 」
ある夫人が泣いていた騎士夫人に話しかけると、騎士夫人は驚いたような顔で見返す。
「気が付かなかったのですか? あのご婦人の指に騎士のリングが嵌り、そして左足は義足だって事に。」
いかがでしたでしょうか。
楽しんでいただけたなら幸いです。
拙作の下記作品とリンクしておりますので、こちらも読んでいただけますと嬉しいです。
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