夕星の闇
「こんにちは~」
チャイムを鳴らすと客席の方まで聞こえるというので。扉を開けて声をかけ、詩乃は『夕星』の中へと入った。
「いらっしゃい~」
厨房、まだ余裕のあるらしい東が、のんびりと煮物の味を見ている。
詩乃はカバンを置き、靴を替え、エプロン・バンダナをして。コロコロを使って手を洗うべく……──
「詩乃ちゃん!?」
甲高く響いたのは、横居の声。むしろその声に詩乃の方がびっくりしたくらいで。
「は…、い?」
「どうしたのその髪!」
聞き返した声と、そして視界すらも圧倒しそうな声で。カウンター席からレジを回り、素早く詰め寄って来る。
「なにかあったの」
真剣な顔で聞いてくる。
「特には……なにも」
「なにもなんて。あんなに伸ばしていたのに理由もなく切るわけないでしょうなにかあったの?言いにくいことならあたしにだけ言ってごらん」
「ぁ……ぃぇ…」
気持ちはありがたいが、『理由がある』と決めつけられるのも……。
いや、理由はある。あるが、別に深刻な理由ではないわけで。そんな大袈裟に扱われては、東にだって迷惑が………
「あ。詩乃ちゃん、髪切ったんだ」
「……………」
──気付かなかったんか~い。
胸中、思わず関西風味でツッコむ。
背中の中ほどまで届く髪は、結んで丸めていてもそれなりに目立っていた。それがバッサリと、肩に触れないくらいにまで短くなった。というのに………
「うん。似合ってるよ」
……………………ま、まぁ、東の反応は置いといて。
「飲食店としても、そっちのがありがたいし」
「紀一っちゃん!」
キッ、と横居に睨まれて。東が固まる。
置いとけないらしい。
東からかばうように、玄関の方へと横居に運ばれる。
「もしかして、紀一っちゃんになにか言われたの?だとしても、気にすることなんかないのよ」
そんな扱いでいいんだろうか?店長なんだけど。
ぐっと声は小さくなったが、さほど距離が離れているわけでもなく、こちらの様子を気にしている東にも聞こえているだろう。
「もともと伸ばしてる理由もなかったし……“新規”一転?というか。あ、いえ、店長には何も言われてませんよ?」
むしろ『似合ってる』とか『ありがたい』とか言われてうれしいくらいで。失恋だの魔術の代償だのと言われるよりよほどいい。
「ほんと?きれいな髪だったのに…」
「ケア、面倒だったので。サッパリしました」
それは本心である。軽くなったのでとまどうことはまだ多いが、こんなにラクならもっと早く切れば良かったと思うくらいだ。
だから心配だの、東への鋭い視線だのは遠慮してほしい。
「だから、気にしないでください」
と、心配……というか不安そうな目を向けている東にも聞こえるように言って。
手を洗ってから客席の方へと向かった。
『夕星』の変わったメニューのひとつに、持ちこみ品の調理というがある。
東いわく、船宿が釣った魚を調理するような、らしいが……海から遠く離れたこの地では、主に袋麺の調理となる。
袋麺。各社から様々なバリエーションが発売されている、五個一パックだったりするラーメンである。
低価格、手軽であるそれは、詩乃もよくお世話になったりする。でも、ちょっと味気なく感じる時があるのも事実で。
麺、スープの味は良くても、トッピングが欲しくなる。
ネギや茹で卵、ノリくらいなら、多少手間がかかるとしても“ちょっと”で済む。が、野菜炒めや煮卵、チャーシューとなると“ちょっと”では済まなくなる。調理済みの品でも買ってあればいいのだが………。
と、そんな手間を、食後の片づけと共に受け負うのが『夕星』の持ち込み品調理。一人暮らしらしきオジさんとかが、袋麺片手にふらりとやってきては………
「いつもの」
なんて。
これはようするに、頻繁に来ては同じ注文(=トッピング)をしているお客さん、ということになるなのだが。
新人アルバイト……しかもバイト自体が初めてという詩乃にとっては、かなりの強敵となる。
──………ダレだっけ?
名前を知ってるわけはない。自己紹介して趣味を語ったりしてそのあと注文、なんてワケはないし。
だから記憶を探るのは、注文を受けた袋麺トッピングと、その注文主。
とはいえ、それも何人かいる。薄ぼんやりと『こんな人もいたな~…』くらいに覚えてはいる。が、細かい注文の内容までは覚えていない。
差し出された袋麺を受取り、素早く横居を探すけど………いない。おそらく厨房だ。
このお客さんのことを伝えれば、“いつもの”がわかるかもしれない。が………
「すみません。ご注文の内容、確認させていただいてよろしいでしょうか?」
わからない可能性もあるわけで。そうしたら、当然注文を聞き直しに来ることになる。それよりは……と、思いきって聞いてみた。
「あ、新人さん?」
「は、はい」
「髪の長い子には教えたんだけどな~」
……どうやら自分は、この人のお相手をしたことがあるらしい。しかもしっかりと注文を聞いたのだろう。
「申し訳ありません…」
「いいよ、いいよ。いい?チャーシュー、煮玉、コーン……」
必死にメモしながら、このお客さんの風貌も記しておく。六、七十くらいだろうか?白髪で……量自体がやや少なめな印象だが、さすがにそこまでは書けない。長身でしっかりとした体格。大きな手と低い声。やや面長……と、これも書かずに。
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
注文を確認して、厨房へと戻る。
冷蔵庫を開けている東の背中に注文を告げようと……
「あぁ、いつものだよね?」
「は…い、」
顔パスというほどの常連さんだったとは。
細かく内容を記した注文書を、なんとなく惜しみつつ壁に張り付ける。ここまで書く必要も、聞く必要もなかったみたいで……今度から、『いつもの』と言われたら『いつもの』でいいのだろうか?
「あのおじいさん、三回目くらいからもう『いつもの』って言ってたのよ」
厨房の奥、休憩していたらしい横居が教えてくれる。
「聞き直したら『おぼえてないのか?』って。あたりまえでしょうよ、こっちは何人もの注文受けてるのに」
そういうタイプの人だったのか、とほっとしたり横居に共感する反面、客席まで聞こえないかとはハラハラしたり。
「でも、あの人くらいでしたね。向こうから『いつもの』って言いだしたのは」
東まで。
店内には、いつもラジオが流れている。それでも厨房の声はカウンター席を抜けて意外と響いたりするし……
──……?
流れているラジオの音が、いつもと違う。内容も、ボリュームも。どうやら音源も。
「詩乃ちゃん、今度からあの人が来たら『親方が来た』って言ってくれればわかるから」
「おやかた?」
大工とかだろうか?いや、流れているラジオからして……
「そう。あの人、ラーメン食べながら相撲の中継聞いてくから」
場所中一、二回程度らしいが、ふらりとやってきて同じ注文をし、店のラジオを止めさせて持ち込んだラジオで相撲中継を聞いて帰ってくらしい。
「いつもの、って注文するのと、ラジオのボリュームが大きいのをのぞけば良いお客さんなんだけどね~」
横居が、のんびりと。東も……他に注文がないとはいえ、支度がゆっくりしているように感じる。
「遅れてもいいから取り組み中には持ってこないでくれ、って言われてるから、僕は気が楽なんだけどね。あ、持ってく時に気を付けてね」
「はぁ…」
取り込み中?ラジオを聞いてるだけのようだけど……。
ともあれ、詩乃が思ったほど厄介なお客さんではないようで。話声も、このラジオのボリュームでは聞こえまい。
料理を持ってくタイミングにはなんだかあるようだが、それは横居に聞くなりするとして。
「詩乃ちゃん、作ってみる?」
「え?」
唐突に言われた一言は、ほっとした気持ちを一瞬で消した。『作る』?
「まぁ、ほとんどが温めるだけだけどね。今なら見ていられるし……詩乃ちゃんに任せられるようになると、結構ラクかな」
嬉しそうに言わないでほしい。それはつまり、詩乃の負担が増えるということで。
まぁ、なにも定食を作れと言われているわけでもないし、これ以上はなにも出来ないというほどの仕事をしているわけでもないけど。
「なにごとも経験よ」
なんて気楽な声援(?)は横居から。
「じゃあまずは、そこの鍋でお湯わかして。袋の通りね」
……東はもう、指導をはじめるし。
──えぇい!相手はインスタントだし。
そう。たかがインスタントラーメン。お湯をわかして数分の相手である………トッピングがなければ。
気合をいれて鍋をコンロへ。カウンター席に近い、家庭用の方である。そこは三つ口で、ひとつには常にお湯の入ったヤカンが置いてあった。
確か東も、ラーメンを作る時はこちらを使っていた………気がする。
手近な計量カップで、袋に記されたとおりの350ml……
「あ、それ、いっぱいに入れると200以上入るからね」
計量カップには液体用というのがあって。1カップ200mlというのは同じだが、液体用は200ml入れても余裕があるよう作られている。
……そんなこと、家ではまったく気にせず使った。だってひとつしかないし。それはどこで買ったかも忘れたくらいのもので、液体用かそうでないかも記憶になかったりする。
ヤカンから移したお湯はすぐに沸騰する。麺を入れ、キッチンタイマーをセット。あとは頃合いを見て軽くほぐしてあげれば………
「器、用意して。トッピングの準備」
東に指示されるまま、丼を出してお湯を入れて温める。ついでに、液体スープの袋と、袋に入れた煮卵も温めておく。コーンをバターひとかけとともにレンジへ。メンマは出来合いだし、チャーシューも切ってあるのを温めるだけ。長葱を切って……
─ぴぴっ、ぴぴっ、ぴぴっ…─
火を止める。スープを器に入れて、盛りつける。切ったばかりの長葱、半分に切った煮卵、メンマにチャーシューにノリ……──
「コーン」
言われて、レンジの中から取り出す。
盛りつけは見よう見まね。ノリは淵に沿って置いたけど、全体的に平面な印象はぬぐえない。
「まぁ、大丈夫じゃない?」
合格点……というより、及第点というところか。
非常に負担の大きな数分だった。
「横居さん、おねがい」
「はいはい」
持って行くのは、任せていいらしい。というか……
「おつかれさま」
「……はい…」
おつかれさまな顔をしていたらしい。
インスタントラーメンひとつで、こんなに疲れたことはない。のろのろと、使った包丁やらを洗おうとしていると……
「あ、僕がやるよ」
「……………おねがいします。」
手は空いてるみたいだし。お言葉に甘えさせてもらうことにした。
邪魔にならない隅っこで、壁によりかかって息をつく。バイト初日と同じくらい疲れた気がする。
「ちゃんと出来てたじゃない。これで詩乃ちゃんに任せられるわね」
…なんて。戻ってきた横居があっさりと言ってくれる。
「………」
無言で。目で訴える。勘弁してください、と。
「…でも便利よ?いろいろ覚えれば家での料理も」
通じたらしい。が、話題は変えてくれない。
「煮卵なんかウチでもやるし」
確かに。ラーメンの上、ただの茹で卵ではなく、あの茶色と黄身のコントラスト映える煮卵が乗るだけで見映えは変わる。
──特に意味はないけど、黄身だけ食べたあとの白身でスープをすくったりしてたっけ。
とか思い返していて、ふと疑問に思うことがひとつ。
「あの。煮卵って、どうやって作るんですか?」
そのまま煮ればいいのだろうか?でも、それだと黄身は半熟にはなるまい。ここの煮卵は、切った包丁に黄身が付くくらいの火の通り加減だし。
詩乃の疑問に、東は首をひねった。
「さぁ?」
「さぁ?って…」
出来たものを買ってる、ということだろうか。
「いやぁ、僕もいろいろ我流でね。詩乃ちゃん、メニューに“煮卵”って書いてあった?」
「え?……」
注文も受けるし、そう書いてあるのではないのだろうか?
「常連さんばかりだからそれで通じるけど、正確には“味付け卵”なんだよね。煮卵が欲しいって言われて用意したんだけど……」
ラーメンのトッピングを、正確には覚えていない。値段別に区別してるくらいで………あんちょこは用意したけど、それにも“タマゴ”としか書かなかった気がする。
でも、それは大したことではないように思えるけど。
「だから、煮てないんだよ」
「…………」
煮てない。ゆえに“煮”卵ではない。
醤油とみりんで作った濃いめのタレに、カラを剥いた茹で卵を一晩漬けるのだという。
「容器じゃなくて、袋にいれるとタレの無駄が少ないよ」
冷蔵庫、袋の中に入っていた姿は保存用ではなく、調理用だったとは。
「だから、通称“煮卵”。チャーシューも、通称だしね」
「いえ、あの。……チャーシューじゃないんですか?」
煮卵に続けてのカミングアウト、思わずつっこむ。
「うん。ウチで出してるのは焼き豚………っぽいもの、かなぁ?」
「お勘定ー」
「はい!」
レジから声がして、そちらに向かう。
ぼちぼちゆっくりしていられる時間でもなくて。それでもメニューの事となれば、いつお客さんに聞かれるかわからない。幸い今日は横居もいるし……。
余裕を見ながら聞きだした“チャーシュー”の真相はというと。
そもそも、チャーシューとは吊るして焼くものらしい。漢字で書いた時の“叉焼”の“叉”はそれを表しているとか。日本で作られるような“チャーシュー”は焼き目を付けて煮込んだもので、日本版の“チャーシュー”とでも言うべきもの………けれど、『夕星』のチャーシューは、それらともちょっと違うという。
東いわく、
「上手くできなくてねぇ」
塊肉に味付け、焼き目を付け煮込んでも、だがあまりおいしく出来なかったそうな。味の染み込み方がイマイチだったらしい。なので手段ではなく、結果を優先する事を決意。煮卵と同じ手段をとったという。
つまり、切ったあと『漬ける』。
すでに切った状態で保存してあるのはそれが理由で。いわれてみれば、断面の色合いの変化というか、中心に近いほど薄い色をしてはいるものの、その変化は微妙だ。
「ラーメン屋さんなら出せないようなシロモノだけど、ウチはラーメン出してないからね」
なんて、ごまかしながら苦笑してたけど。チャーシューそのものは他で使ったりするわけで。
「ほら、密閉容器をなんでも“タッパ”っていうのと同じで」
詩乃にはよくわからないたとえを出された。
なんか同意しがたい気もするが、それでやってきたわけだし。ペーペーの詩乃があれこれ口出すことでもあるまい。
………が、接客をするうえで、これだけは聞いておきたい。
「そーゆうのって、それだけですか?」
「…………」
目をそらされた。
「ま、おいおい、ね」
「…………」
……『夕星』の闇は、深い。