給料袋
厨房と玄関の間にぶら下がるカレンダーを眺めて、詩乃がこの『夕星』でバイトを始めてそれなりに時間が経ったことを感じた。
四月のページはもうなくて、五月のページも半分以上が埋まってる。
………なにで?
主に詩乃と横居の書き込みで。
今もこうしてペンを片手にしみじみとカレンダーを見ているのは、出勤時間を書き込むためで……。
バイト経験はなくとも、詩乃にはイメージがあった。“シフト”などと言われるように、厳密な時間割がされてる、とか。もしくはタイムカード的な管理がされている、とか。
ここ、『夕星』は……というか、東は違った。
開始が『学校終わったら来て』なら、終了は『あ。そろそろいいよ』である。
一応、学校終了の時間は教えている。ずれる事もあるので、毎回メールで。
急いで帰って着替え、小走りに店に向かう。挨拶をしてエプロンなどの準備をして、まずやることがカレンダーに現在時刻を書き込むことである。
これがバイト開始時刻。
『おつかれさま。あがっていいよ』と言われ、帰る前に再びカレンダーに時刻を書き込む。
これがバイト終了時刻。
同じことを横居も書きこんでいる。
つまり自己申告。
「いいんですか?」
説明を受けた時、思わず聞き返したものだ。
答えはあっけらかんとしていた。
「え?だめ?」
ダメというか、信用し過ぎじゃないかと……。
かと言って、東本人がチェックするのでは負担が増える。タイムカードの機械などには費用がかかる。
「それを考えたら、少しくらいの誤差はオッケーってことなんじゃない?」
横居の記入が五分単位なのはそういう理由………いや、ただアバウトなだけだろう。
詩乃としては、お金の事となれば出来るだけ正確にしなければ、という強迫観念じみたものを感じている。なので開始は切り上げ、終了は切り捨ての分単位で記入。時計も、117で合わせた自分の時計を使っていたのだが………気付いたことがひとつ。
それは、とある月曜日。週払いである『夕星』の、先週のお給料がいただける日。
「あ。忘れてた」
唐突に東がつぶやいた。
「なんですか?」
カウンターを拭いていた手を止めて、たずねる。
東はパスタ用のトマトソースの味見をしていたところで………なにか調味料でも入れ忘れたのだろうか?
「詩乃ちゃんのお給料、まだ計算してないや」
正直、『あぁ。それじゃあ明日……明後日かな?貰えるのは』と思ったくらいだった。切羽詰ったものがあるわけでなし、それでも構わないのだが………
「手、空いてる?ちょっと計算してくれない?」
勤務時間自己申告に続いて、そこまでですか。
「出来れば横居さんの分も」
コンボで来ました。
「……いいんですか?」
「うん?」
『なにが?』みたいに返されました。まぁ、ごまかしたところで調べればすぐわかるし。そんな、調べればすぐわかるようなことはやらないだろう、ってことなんだと納得して。
「えっと…、明細……なんですけど…」
「あぁ、そこの引き出し。ペンも」
明細といっても、ちゃんとしたものではない。
引き出しに入ってるのはルーズリーフの紙。それも四分の一サイズに切られている。これに縦線を手書きで足して、日ごとの開始終了時刻を記入、最後に合計して時給を掛ける。
というか、そういう手書きのものを、お金と一緒に貰っている。
見よう見まねで明細を作り……時給の金額が六十で割り切れるということに気付いた。
相場やら一般的な金額というより、実働時間で割り切れる金額を設定したのだろう。
なるほど納得。と思う反面、それで損をしているんじゃないかと思う。
見なれたような金額と照らし合わせてしまうから、アレより高い、より、コレより低いと感じてしまうような………いや、詩乃に不満はないのだけれど。だってお土産とかくれるし。
「出来ました」
二枚の紙を東に見せる。
図らずも、横居の給料および実動時間を知ってしまうことになったが……
休みの増えた横居より、詩乃の方がたくさん貰っていた。
「……………」
じっとその紙を見て、東の眉間にシワが寄る。
……なにか、ミスでもしただろうか?
「う~…ん。結構遅くまで働かせちゃってるね」
当初は『九時ごろ』という話だった。早くなることはほとんどなく、なんだかんだで十時近い時もある。
家も近いし、横居がいる時は一緒に帰っている。特に問題は……
「かまいません。家も近いですし…」
そう言っても、東の眉間は寄ったままだった。
「とりあえず、レジからお金出して。袋もレジの下にあるから」
……そこまでやるのですか。というか、そこまでやっていいのですか?
出かかった疑問を、ちょっと具体的にして聞いてみる。
「金額の確認とか……」
「あぁ、店の分は、あとでカレンダーの方を見てやるから」
明細も袋に入れて渡すため、金額の確認の心配をした……と思われたらしい。
これもまた、あとで調べればすぐわかること……なのだろうが。そういえば、お金の出入りについて注意をされたことは一度もない。
ミスをしていないだけ……と、思いたいけど、そんな自信もなく。
──まだ覚束ないから大目に見てもらってるのかな…。
でも、ひょっとして細かくチェックしてないんじゃあ……なんて不安もあったりする。
どちらにせよ、やるからには出来るだけ正確にやらねば。
三度チェックして、それぞれの給料袋に明細メモとお金を入れた。
この袋、文字通りの袋だったりする。
当初は封筒に入れられていたのだが、今は横居お手製の巾着袋(色違いのお揃い)。エコバックならぬ、エコ給料袋だ。
「あの……」
その給料袋(巾着袋)を持って、一応は東に確認を……と思うのだが。
「あぁ、それじゃあ……」
と、次の仕事をおおせつかった。もちろん、中身の確認などしていない。
──あれほど味見とかする人が……。
それとこれとは別なのか。それとも“味”という曖昧なものではなくて、金額という確認も出来る明確な数値だからなのか。それとも………いや、きっと詩乃を信用しているのだ。そう思うことにした。
詩乃の中では、分で計算できる給料と、東の金銭感覚(管理の方の)が大きな印象として残ったのだが。東の中では、別のものが大きな印象として残ったらしい。
店に来るのが少し遅れてしまった。
と、いっても、厳密に何時と決まってるわけではなくて。家を出たところで少々時間をとってしまっただけなので、誤差程度のものなのだけれど。
「すみません」
あやまっておく。
下校時のメールから予測、予定を立ててたら申し訳ないからで……
「?」
案の定、なにが?という顔で返されたりする。
「えーっと。メールの返信が遅れちゃったり、横居さんから事情を聞いたりで……」
いつもなら、詩乃が下校時にメールを送り……そして東からの返信はない。
そもそも詩乃の到着時刻を教えるためのメールで、最初は『了解』とか『気を付けてね』などと返ってきたりしたのだが、仕込みの最中ではすぐチェックというわけにもいかないらしくて。何度か『ごめん。返信できなかった』と直に言われることがあったので、詩乃の方から『基本、返信不要』を伝えたのだ。
なので油断していた。今日は返信があり、さらに重要な連絡事項があったりして。
今日は横居は休みなのだが、受け取る……というか、預かるものがあった。どちらかというと、詩乃のために。
「あぁ。で、連れてきた?」
「はい」
庭の物干し台の根本……いつものところに、ポテトをつないである。
横居から預かったのは、彼のことで。そもそもが『夕星』からの帰り道にボディガードとなるように、と飼い始めたという。
……そんなことも知らず、弟と一緒に撫でまわしにいったりしたが……
ともあれ、『夕星』からの帰り道のボディガードが役目というのなら、横居が休みの時でも仕事はあるだろうということで。帰りの心配をした東が手配したらしい。
これで夜遅くなっても平気、というわけでもないが。『夕星』に慣れてきた……というか、馴染んできたという感じがする。履き替える靴が玄関に置いてあったり、自前のペットボトルを冷蔵庫に置かせてもらったりもして。ちょっとずつ居場所が出来ていく感じ。
詩乃の生活の中にも、この店の中にも、組み込まれていく感じがする。
店に着いてから状況を見ながらやる事を探していくのも、家に帰ってさっさと明日へと備えるのも。『夕星』を含めた生活のリズムが出来てきた。
「あ、詩乃ちゃん。明日来る時なんだけど、コレ、買ってきてくれない?」
買い物メモを渡される。
……いや、そこまで馴染むのもどうかと……。業務というのなら文句はありませんが。
「…領収書、必要ですよね」
「レシートでいいよ」
これに馴染んでいっているのかと思うと、ちょっぴり不安もある詩乃だった。