プロローグ
『土・日のみオーケー』
『初心者歓迎』
『明るく、楽しい職場です』
家へと向かう道をゆっくりと歩きながら、手にした冊子をめくっていく。
いくつか目に留まるものの、それでも『これぞ!』というのものはない。理想をいうなら近くて高給、時間の都合がつきやすいものだけど………
中川詩乃は、空を見上げた。春の青空は、まだやや色が薄い感じがする。
数日前に弟、湊が無事、中学へと入った。入学式には(来るなと言われていたが)こっそり顔を出した。父が会社を休めないとあらば、母親代わりとしてはゼヒとも証拠写真を残さねばならなかった。
小学生の内に仕込んだおかげか、今は一通りの家事はこなせる。あまり手間のかからない弟だ。
この『湊、中学生へ』というのは、詩乃自身にとってもひとつの節目になった。亡き母に代わり弟の面倒を見なければ、という使命もひとつ、軽くなったといえる。
そこで、前々から決めていたことが。
“家計のためにもバイトを始める”
新聞の折り込みは、どうにも高校生向けという気がしなくて。今日は学校帰り、駅前まで行ってフリーペーパーをもらってきたのだが………。
「…う~ん…」
首をかしげる。背中の、ひとつにまとめた髪も合わせて揺れる。
はたして、なにを基準に選んだものか。
時給?仕事内容?勤務時間は大事だ。弟は二、三日放置しても平気(に育てた)だが、父親はそうもいかない。ほっとくと毎日コンビニの世話になるに決まってる。
あとは、距離。つまりは場所。
新聞のチラシは、配達エリアが広いのだろう。基本移動手段が二足歩行、もしくは人力二輪車の高校生には厳しい距離が多い。そもそも、要普通免許とかはムリだし。だから駐車場があっても関係ない。
駅前からもらってきたフリーペーパーは、さすが、駅周辺のものである。で、あるが……その駅まで、若干の距離がある。
バスで行くか、自転車で行くか。微妙に迷うような距離なのだ。
朝などは自転車で駅までかっ飛ばす会社員などを見かけるくらいだから、不可能な距離ではない。不可能ではないが………バイトのために往復、というとちょっと気が重い。帰ったら何もしなくていい、といのなら別だが。
まぁつまるところ、せめて理想のひとつ『近場』でお願いしたいというわけだ。
しかしこれも問題がある。
単純明快、一目瞭然。ほとんどお店がないのだ。
農協に郵便局、役場にさびれた商店街。スーパーが一軒あるものの、募集はしていなかった。あとはつぶれないか心配になる個人商店ばかり………。
やはり駅前か。駅前しかないのか。
ファーストフードやらファミレスやらカラオケやら。チェックの目が真剣になったところで声がかけられた。
「詩乃ちゃん、おかえり」
「あ。ただいまです」
気がつけば家の前……を、半分ほど通り過ぎていた。
小柄なオバちゃんがシェパードを連れて家から出てきたところで……隣家の横居さんだ。小さい頃からお世話になっている。
「なにを真剣に見てるの?」
「あ、これです」
なでろ、と言わんばかりに足元に座るシェパードの頭をなでてやりながら、手にしていた冊子を見せる。
「ばいとじょうほう?詩乃ちゃん、バイト始めるの?」
「はい。湊も手がかからなくなってきましたし…」
そう答えた瞬間、横居の小母さまの目が光った。
「紹介してあげようか?」
「…え?」
「お給料はさほどじゃないけど、いい加減でアバウ……アットホームで融通の効くところよ」
「でも私、交通手段が……」
「だいじょーぶ!」
よく通る声で力強く答える横居さん。
彼女いわく……徒歩圏内、飲食店、夕方から夜九時くらいまで。主に接客、すこし調理。
「あたしが働いてるところなんだけどね、後釜を探してて」
「後釜?辞めるんですか?」
「そぉ~、ダンナが定年退職でね、メンドーみなきゃいけないから。詩乃ちゃんなら安心して後を任せられるわ」
「はぁ…」
声以上にパワフルな“押し”に、曖昧な返事しか出てこない。
結局──
「じゃあ明日、適当な時間にたずねてみて。店長さんには話しとくから」
「はぁ…」
把握しきれないうちに、明日店まで行くことが決まってしまった。
詳しい場所を聞いて……地元だけに、すぐにわかる。いつうかがえばいいですか?との問いには
「適当でいいわよ。学校終わってから来てみて」
「…………」
アバウトなのは、お店ではなく横居さんではなかろうか?
せめて連絡先など、もうちょい詳しく……と質問するより早く、
「あ。もう行かないと。それじゃあ詩乃ちゃん、明日ね~」
シェパードにひっぱられるようにして去ってしまう。
「あ、はい。あした…」
あっというまに小さくなる背中。
なんだかよくわからないうちに、なんだかよくわからないことになってしまった。
ただ、ひとつ。
明日、バイトの面接という予定が決まってしまった。
学校帰り、制服のままで。肩にかけた鞄が、やけに重く感じる。
詩乃の目の前にあるのは、一見民家に見える……だが暖簾を下げたお店。入口は引き戸で、ちょっとシャレた感じの出窓がある。店内の様子はよく見えないが、営業中なのは確かなようだ………扉にも『営業中』の札が下がっているし。
とはいえ、道端に出された看板はキャスター付きの分厚いもので。中に明かりが灯るタイプ………いまは消えている。夕方と呼ぶにはちょっと早い時間だし、それは当たり前なのだろうが、どうにも『開店前の居酒屋』感がいなめない。
──大丈夫かな。
具体的な不安があるわけではないが、不安だ。まぁ、横居さんもいるはずだし、ここで止まっていても仕方ない。
大きく息を吸い、扉の前に立つ。
「………………」
手動でした。
扉に手をかけ、暖簾をくぐる。頭の上あたりで、カランコロンと乾いた音。
「いらっしゃいませ~」
店内は、想像していたような狭苦しい感じではなかった。明るい店内に、テーブル席が四つほど。奥にカウンター席があり、声はそっちの方から。
外観は居酒屋だったけど、店内はどちらかというとラーメン屋。こんな時間だからだろうか。お客はいない。
「お好きな席へどーぞー」
と、ここで座ってしまってはただの客である。
「あの、すいません」
厨房だろう。声のする方へ……とりあえず顔が見えそうなカウンターの方へ行く。
じゅわじゅわという何かの煮える音。ただようのは酸味の混じった醤油の香り。覗いた厨房には、頭にタオルを巻いた男性がひとり、鍋をかきまぜていた。
「…はい?」
意外と若い。とは思うものの、年齢を推し量るのはむずかしい。二十代半ば……せいぜい三十くらいだろうか?半そでシャツの上にエプロンで、それでもわかるほどの細身。やや面長で、優しそうな……というより、やや抜けた感のする顔立ち。
「あの。横居さんの紹介で面接に来たんですが…」
「あぁ、横居さんの。もう来ると思うんだけど……」
入る前に確認した時計は、わりと半端な時間だった。いったい何時からなんだろう。
──やっぱり……アバウトなのは横居さん……。
バチン、と音がして……コンロの火を消した店長らしき男性は、カウンター横、レジの方を回って出てきた。エプロンに下げたタオルで手を拭きながら、テーブル席のひとつを示す。
「とりあえず座って。なにか飲む?」
「あ、いえ…」
トモダチの家に遊びに来たわけではないのだが……。
鞄を適当に下ろして、一応、彼が先に座るのを待ってから腰を下ろす。
「えぇと。横居さんから話は聞いている?」
「はい。あ、いいえ、ほとんど…」
なにせ昨日紹介されたばかりだ。飲食店で働いているというのは知っていたが、それがどんなところかまでは………まして自分が働いた場合の業務内容なんて、見当もつかない。
「実は、僕もあまり聞いてないんだ。明日来るからよろしく、って言われただけで」
へらへら笑う。いいのだろうか?それで。
「この店のことは知ってる?」
「……飲食店……としか…」
繰り返すが。なにせ昨日知ったばかりである。
小さくなる詩乃に、やはり変わらぬ抜けた笑顔のままで、
「まぁ、地元でも有名じゃないからね。開店して何年か経ったあと、最近開いたの?って聞かれたこともあるよ」
……笑い事ではないと思う。
「あの…、この辺りはあまり通らない道でして……。どのくらい経つんですか?」
「えー…っと………」
天井を見上げ、首をかしげてしまう。
「…………四、五年?あ、いや、六年か」
なにやら指折り数えて……どうやら六年でいいらしい。
六年というと、母が亡くなった頃だろうか。一変する生活に余裕もなにも無かったころだ。気が付かなくても当然というか………。
そんなに経つんだ、という感慨は、詩乃の胸にも湧いてくる。
「とりあえず。この店のことだね。飲食店っていっても、お酒も出す。けど禁煙でね、飲み屋って雰囲気ではない……かな」
言いながら自信がなくなったのか、またも首をかしげる。
どうにもこうにも、自分の店のはずなのに把握していないようだ。
「見ての通り小さい店だし知られてないし、もっぱら地元の常連さんばかりかな。一応、十五時くらいから日付替わるくらいまで開けてるけど、まぁお客さんと曜日次第で。定休日は火曜日と……日曜だったんだけどね。日曜は半分開いてるよ。メニューは食材の都合で良く変わるけど……出してるは家庭料理みたいなものばかりだし。正直よく六年?もやってこれたと思ってるよ」
「はぁ…」
詩乃には経験がないのでわからないのだが……はたしてバイトの面接とは、こういうものなのだろうか?
経営相談を受けているような気分になってくる。もっとこう……人材としての見極め、みたいなものはしなくていいのだろうか。
いまのところ、詩乃についての質問はないし。
「僕ひとりじゃ出来なかっただろうからね、横居さんには感謝してるよ。だから旦那さんと過ごしたいって言うんだったら聞きたいし。でも、だいぶ頼ってたから、せめて後任が決まるまでって引きとめてるんだけど……それも心苦しいっていうか」
「はぁ…」
少なくとも、今この瞬間だけは。酔って愚痴を吐かれる居酒屋と変わらない気がした。もちろん経験はないけれど。
「そしたら昨日、隣りの詩乃ちゃんってコが来てくれるっていうから、僕としても厚遇してあげたいんだけど………ちょっと待って」
と、立ち上がってレジの裏、一枚の紙を持ってくる。そこには、なで肩の小さめな文字でいくつかの数字と業務内容が。
「時給とか時間はこんな感じでどうかな?」
受け取り、目を通す……といっても、書いてあることは少ない。
休みは、定休日といった火曜。それと、半分開いてると言ったが人手はいらないということか、日曜も休み。これはありがたい。掃除とか洗濯とか、やりたいことがある。
時間は夕方~二十一時前………
「あの……」
「あぁ、出来る限り配慮はするよ?」
「そうではなくて……。夕方、って、何時からですか?」
「学校終わってからで」
「…………二十一時“前”って…?」
「遅くなると危ないからね。とはいえお客さん次第ってところがあるから……まぁ九時には上がってもらえるようがんばるよ」
「…………」
よっぽど人手不足なのだろうか?どっちが“採用してもらいたがってる”のかわからない。
とりあえず続きを読む。
業務内容は接客、会計、洗い物。その他『雑用を頼むかも』。時給は、やや低めか。研修中はさらに下がるし………けれど駅前まで出る交通費、交通費支給だとしてもその移動時間を考えれば、可もなく不可もなくといったところ。
これ!といった決め手もなければ、これはちょっと…といった点もない。アバウトなのは、良い方にとっておくことにして。
「どうかな?とりあえず一週間くらい働いて決めるとかでもかまわないけど」
つまりは。
働き先など、悪い点がなければ即ちそれが良い点なのだろう。劇的な何かがないことを幸いと思わなければならない。
「はい。では、お願いします」
ぺこりと頭を下げて。
「よかった。それじゃあ…」
いくつかの確認。連絡先も確認して、じゃあ明日からお願いねとか言われて。こちらこそお願いしますと返して店を出たところで。詩乃は茜色になった空を見上げながら大きく息を吐いた。
こわばっていた体から力が抜けていく。
やっぱりどこか事態に追い付いていけていない気がするけど、とにもかくにも明日からこの店で働く。
視界の隅で、明るさのセンサーでもあるのだろう、入る時も見た看板がうすぼんやりとした明かりを灯した。
“夕星”
「…yu-zutu…?」
働く事が決まってから店の名前を知るというのもどうかと思うが……ともあれ、そういうらしい。
どういう意味だろうか?どこかで目にした……か、聞いたような気もするが………
「あっ……」
思い出した。
“ゆうづつ”とはまったく別のことだが……昨日、何度も失敗して書いた履歴書が、鞄の中に入ったままだ。
要求されなかったからいい………のだろうか?それとも戻って渡した方がいいのだろうか?
……まぁ、明日もある。明日聞けばいいかと考えて……
ひとまずは家路へとついた。