7話〜英雄姫との出会い〜
朝。目が覚めた俺を襲ったのは背中の痛さだった。
「んぅ……っ、やっぱりほとんど木の板の上で寝るのは駄目だな」
起き上がり体を伸ばしたりして背中の痛みをほぐしながら、俺の背中にダメージを与えた相手を見る。
破れた布から藁がほとんど出てしまい、手をつけばすぐ底の木の板に触れてしまえる、もはや寝具というよりも辛具といったほうが正しい物体。ここしか寝られる場所がないとはいえ、さすがにこれで毎日寝起きするのは辛い。
「まともな寝具を揃えなきゃいけないが、それよりもまずこの部屋自体をどうにかしなきゃな」
辺りを見渡せば、そこはまあ中々な惨状の有り様であった。
入口の扉は建てつけが悪くなってほとんど開けられた状態になっており、床板は踏む度に軋んでいつ抜けるかも分からない。置かれていた小さな机はほぼ全損していてただのゴミになっているし、夜中にはひび割れた窓ガラスから風が吹き込んでずっと音がなっている。そのおかげで埃などは一つもないが、これは早急に改善しなくちゃいけないな。
「この状態でも残っている部屋で一番良いって、他はどんなに酷いんだ?」
昨日、アイナたちのクラン《アイリス・ガーデン》に入った俺も、アイナたちの反対を押しきってクランのホームであるこの廃教会に住む事を決めた。
街にある最安の宿屋でもこれよりは良い部屋だが、それでも俺はここで彼女たちと一緒に寝食を共にする事にした。それが、俺の心が望んだ事だったから。
たしかに恵まれてはいないが、それでも俺の心が満たされていくのを感じる。
「ヴェルくーん、起きてるー?」
「メトか」
なんだか感慨深く部屋を見ていると、扉からエプロンと三角頭巾をかぶったメトがひょこっと顔を出してきた。
「いま朝ごはんの支度してるから、顔でも洗って待っててね。お水は教会の裏庭にある井戸を使ってね」
「わかった」
昨日も見ていたが、どうやらメトがこのクランでは調理担当らしい。
メトに言われるまま、俺は部屋を出て顔を洗う事にした。
途中で床板が抜けないように慎重に歩きながら裏庭に出ると、そこは廃教会とは真逆で非常に手入れが行き届いていた。
野放図に茂っている雑草は一つもなく、太陽に照らされて緑が広がっているそこは、まったくの別世界を思わせるほどであった。
そして裏庭の奥には、一面に白の花弁のアイリスが咲き誇っていた。
「おっ、ヴェルくんじゃないか。早起きとは感心感心」
そのアイリスを世話していたのが、このクランのリーダーであるアイナ。井戸から水の入った桶を持ち上げ、アイリスの花たちに水をやっている。
「こんなに綺麗な花が咲いているなんて凄いな。アイナが育てているのか?」
「うん。私の大切な人が好きな花だから、こうして毎日お世話してるんだ。このクランの名前も、その人がつけたものなんだよ」
「そうなのか。アイナはよっぽどその人の事が好きなんだな」
「んー、もしかしたらそういう感情もあったのかもしれないけど、今は恩人っていった気持ちが強いかな? 戦いの下手な私をよく守ってくれて、あの人がいなかったらとっくにダンジョンで死んでたかもね」
そういって花に水をやるアイナの背中は、いつもの快活な印象とは少し違っていた。
寂しさ? それとも罪悪感? よくわからないが、それらに似たものだった。
この手の話は、他人が無遠慮に聞き出すものではないと知っているから、無理に聞くことはやめておこう。
「俺も水やりを手伝おう。一人で全部やるのは大変だろうしな」
「そんな事しなくていいよ。もうちょっとでメトも朝ごはん作り終わるだろうし、私なんかに心配しなくてもいいからさ」
「そういうわけにもいかない、ご飯を食べる時は全員揃っていなくちゃいけないからな。なにすぐ終わらせるさ。〈スプラッシュ〉」
花園の中心に出現した、空中で浮遊する大きな水の球体。それが弾けると細かな水滴となって空中で煌めき、小さな虹を映しながらそのまま花園に降り注いで土を濡らす。
本来なら水の爆発によって相手を押し潰す攻撃魔法なのだが、込める魔力を調節すればこんな大道芸の真似事もできる。僅かながらだが魔力が込められた水を吸って、花たちも健やかに育って簡単に枯れる事も病気に罹る事もないし、良い事だ。
「うっひゃー、ヴェルくんてば魔法も使えるんだ。しかも水属性が適性なんて便利だね」
「いや、俺に魔法属性の適性なんてないぞ。一応一通りの属性は扱えるけど」
「え」
魔法には多種多様の属性が存在し、魔法が扱える者にはそれぞれ適性のある属性を持っている。最も一般的なのが地水火風の四属性であり、六英雄と言われている大魔女ベルンも火属性の適性を持っていた。それ以外の適性は希少適性といわれ、俺を倒したメルティアは光属性の希少特性を持っていた。
適性とは違う属性の魔法を行使した場合、効果が著しく低下するか、もしくは魔法すら発動しなかったりするので、適性以外の魔法を使う者はほとんどいない。
俺の場合はどの属性の魔法も満遍なく扱え、魔道書や魔法などを見て術式さえ解ってしまえば属性も問わず使えてしまう。まあ今は俺自身が弱体化しているせいでいくつかの魔法は使えないが。
だから俺は自分の魔法属性の適性を『無』或いは『全』と自称している。
「……あっはっは、それはまたデタラメだね。もしかしてヴェルくんてば、凄く強かったりする?」
「どうだろうな? 少なくとも今の状態で六英雄と戦ったら絶対に勝てないだろうな」
「アッハッハ! そりゃそうさ、キミが六英雄に勝てたら、覇王なんて300年経った今でも子供たちを怖がらせたりしないさ」
むっ、俺は冗談なんて言ったつもりなんてないんだがな。俺が今まで戦ってきた中で最も比較しやすい対象がメルティアたち六人だったんだが、アイナにはそれが冗談だと思ったのだろう。
まあ、これで少しは辛気くさかった空気も変わった事だから良しとしよう。
少し空気が和んだところで、朝ごはんの支度をしていたメトがやってきた。準備ができたのかと思ったけど、なんだかひどく慌てている様子だった。
「リーダー! ヴェルくん! た、大変だよ! 一大事だよ!」
「どうしたのメト、もしかして料理でも焦がしちゃった?」
「料理どころじゃないよ! なんかスゴ……とにかくスゴイ人がいま来てるの! ヴェルくんと話がしたいって」
「俺に? 心当たりなんてないんだが……」
この時代で知り合った人間なんて、ギルド職員のリーナと《旅風の団》のフェルネスたちぐらいしかいないけど、メトがそんなに慌てる人たちではないだろう。
まったく心当たりのない来客に頭を捻りながら三人で入口に向かうと、そこには確かに俺が見知っている人物が立っていた。
「──やあ、昨日振りといったところかな」
見間違う筈がない。言葉も交わさず、すれ違っただけだが、その身から感じ取った圧倒的な強者の風格。今の俺をも凌ぐ力を内包している銀髪の女性がそこに立っていた。
「え、ええ、“英雄姫”イレイナ!? 世界最強の冒険者がなんでこんな所に!?」
「“英雄姫”? アイナ、知っているのか?」
「知らないのヴェルくん!? この人は最強のクラン《英雄の船団》のリーダーで、堂々のアダマンタイトクラス序列第一位、つまり全冒険者の頂点にいる人なんだよ!」
驚いているのは俺だけではなく、メトは口をあんぐりと開けて沈黙して、アイナは近所に家があったら苦情が来るほどの大音量で叫んでいた。
しかし、世界最強か。たしかに頷ける。彼女ほどの実力なら世界最強と呼ぶのに申し分ない。メルティアや他の五人も、時代が違えばそれぞれの時代で世界最強と呼ばれていただろうしな。
「おや、既に説明されてしまったか。まあそんなに大それた者ではないが、彼女の言う通り、私はクラン《英雄の船団》を率いているイレイナ・ヴァーデミオンだ」
「俺はヴェル・デインハート。それで、その最強の冒険者が俺になんの用だ?」
もしや、俺が覇王だと勘付かれたのか? だとしたら戦闘は避けられなさそうだな。
今の装備じゃ数分も保ちそうにないから、現状で最高位の装備を取り出せるように“外界の外套”に手を伸ばす。
「そんなに警戒しないでくれると嬉しいかな? 少し君に話と、それと謝罪をしにきた」
「謝罪? そんな事をされる覚えなんてないんだが」
「昨日、私のクランに来ただろう? その時に応対した者が失礼をしたようで、謝りにきた。まともに取り合わず追い返すような真似をして、本当にすまなかった」
俺の剣呑な緊張は杞憂だったようで、イレイナは謝罪の言葉と共に深々と頭を下げた。
「もし君が望むなら、改めて加入の相談をしたいと思うのだが、どうかな?」
「遠慮しておく。俺はもうこのクランの一員だからな」
「ちょっ、ヴェルくん!? あの《英雄の船団》に入れるかもしれないのに、それを断るなんて勿体ないよ!」
「そうだよ! ここよりも立派なホームがあるし、お金だってたくさんあるし、強い人もたくさんいるんだから!」
「俺はこのクランに、俺を最初に認めてくれたクランに入ると決めたんだ。別のクランが立派だからってそっちに移るのは、嫌だ」
昨日も見たが《英雄の船団》のホームはたしかに立派だった。それにアダマンタイトクラスの冒険者も多く抱えているようだった。そっちに入れば、たしかに生活はここよりもはるかに良くなるし、箔もつくだろう。
けど、俺にそんなのはいらない。富も名誉もどれも俺を満たしてくれるものではなかった。それよりもここが、三人で一緒に食べたモロコシくんのほうがよっぽど俺を満たしてくれた。
俺の答えが気に入ったのか、イレイナの口元に僅かに笑みが浮かんでいた。
「そうか、良いクランに出会えたのだな。少し残念ではあるが、無理に引き入れるつもりはない。君たちも、彼のような人を離しちゃダメだよ?」
「は、はい! 頑張りましゅ!」
雲の上にいる人物に話しかけられて、まるで弓の弦のようにピンっと背筋を伸ばしたアイナは、盛大に噛んだ。
その恥ずかしさも気にせずアイナは興奮しており、同じくメトも千切れんばかりに耳と尻尾を揺らしながらサインをねだっていた。
「そうだ、申し訳ないが少し時間をくれないかい? 個人的に、君と少し話がしたいと思っていたんだ」
「俺は別に構わないが」
「君たちも彼を少し借りてもいいかい?」
「どうぞどうぞ!」
謝罪の件とは別に話があるようで、俺たちはアイナとメトから離れた。なんでも、人目のつかないところで話がしたいらしい。
俺たちは崩れた墓石が並んでいる墓地を抜け、手付かずで放置された林の入り口まで歩いた。
「──君は、いったい何者だ?」
イレイナから、唐突にそんな言葉を投げかけられた。先ほどの空気が一瞬で変わり、青空のような青い瞳は、俺の心を覗くかのように見つめている。
──イレイナがまだ武器を出していない今、殺れるか?
張り詰めた空気の中、即座に距離を離し俺は気付かれないように“外界の外套”に手を入れた。
「……どういう意味だ?」
「どうもチグハグなんだ。これは直感だが、本当の君は私よりも強い。仮にも冒険者最高等級であるアダマンタイトクラス序列第一位の私よりも圧倒的に。なのに感じる魔力はあまりに弱く、脆い。それでもアダマンタイトクラスの一桁に届いているが、本来の君には遠く及ばないだろう。それにそれだけの実力があるのなら、少なくともドュラーガの冒険者たちには知れ渡っているはずなのに、私たちのクランですら誰も君のような人物を知らない。まるで突然現れたかのように思えないか?」
……まさか、それだけで俺の不自然さに気付いて、尚且つ正解に殆んど辿り着いているなんて。驚異的な洞察力と推理力、智勇併せて世界最強と名乗るのに相応しい。
「それで、俺の正体を知ってどうするつもりだ?」
「別に何も……って、そんなに敵意を向けないでくれ。別に君の正体を探って討とうとか貶めようなどとは思っていない。誓って本当だ。君が害悪を撒き散らさない限り、私から君に害を及ぼすつもりはない」
「だったら何が目的だ?」
「もしかしたら、君が私がずっと探し求めていた人物かと思って訊いてみただけだ。君が言いたくないのなら、無理に聞き出そうとは思わない」
「そうか、そっちが力任せに出るのであればこっちも抵抗するしかなかったが、争うつもりがないなら安心だ。ちなみにイレイナが探している人物ってのは誰だ?」
「それは秘密。君が正体を教えてくれるなら、私も教えてあげるけどね。まあ、まだ幼かった少女が夢見た、初恋の相手、といったところかな?」
「なんだそれは? こんな子供を捕まえて初恋の相手かどうなのか探っていたのか?」
なんだか、えらく拍子抜けしてしまったな。てっきり俺が覇王だと見抜かれて首を取るのかと身構えてしまったが、荒事にならずに済んだようだ。
もし今の体でイレイナと戦ったら、確実に勝てない。逃げに徹したとしても、高く見積もって四割ほどだろうか。折角アイナたちのクランに入れたのに、いきなり居場所がなくなる事は避けられたみたいだ。
「悪かったから怒らないでくれ。ほら、話し合いも終わった事だし早く彼女たちのところに帰ろう。あまり遅いと心配してしまうぞ」
「そうだな、ってイレイナも来ないのか?」
「私も半ばホームを飛び出す形でここまで来てしまったからな。皆も心配するだろうしここで別れるとしよう。今回のお詫びといってはなんだが、何か困った事があったら遠慮なく相談しに来てくれ。私にできる事ならば協力は惜しまないよ」
「それは頼もしいな。俺でもどうしようもない事があったら、イレイナに頼るとするよ」
そして、互いに軽く二、三度手を振って、俺たちは別れることになった。
一時はどうなるかと思ったが、これで問題の一つは解決したかな?
アイナたちも食事の準備はもうできている筈だし、早く戻るために俺は小走りでホームの廃教会へと向かっていった。
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「……………………」
ヴェルと別れたあとも、イレイナは動かず誰もいない林の前で一人立って、既に見えなくなったヴェルを見ていた。
「はっ……はぁ、はぁ、はぁ……」
そして完全にヴェルが離れたのを確認すると、先ほどの表情から一変して震える膝を押さえつけて肺の中にある空気を一気に吐き出した。
どのような強敵を前にしても歪む事すらなかった顔には僅かな怯えが浮かび上がり、額からは冷たい汗がいくつも伝ってくる。
彼女はここを動かなかったのではなく、動けなかったのだ。
「まさか、ここまで明確に『死』のイメージを叩き込まれるなんて、少し不用心だったかな。油断していたとはいえ、殺気だけで一瞬殺されてしまった」
最初の言葉、正体を尋ねた際にヴェルから発せられた殺気に、意識が無防備だったとはいえ一瞬だがイレイナは完全に呑み込まれてしまった。
恐る恐る、ゆっくりと自分の首を触り、ちゃんと繋がっているのを確認する。
ヴェルに殺気を浴びせられたイレイナは、自分の首が肉と骨ごと切断された感覚を味わい、地面に落ちた首が自らの体を見上げるイメージを幻視した。
幾度もの強敵に挑む最中に漠然とした『死』を感じた事は何度もあったが、死んだ光景を見せられた事は初めてだった。
いまだ纏わりつく『死』に自分の体は完全に怯えてしまい、膝は情けなく震え呼吸も乱れている。
「魔力や膂力は弱っても、その身から放たれる威圧は衰えずか。危うく身を守るために彼を殺してしまうところだった」
ヴェルに殺気を浴びせられた時、防衛本能によって咄嗟に武器を取り出そうとしたのを理性で必死に止めた。もし理性が歯止めをかけるのが少しでも遅かったら、彼女の体はヴェルを敵と認識して攻撃しただろう。
そうなっていたら、最悪ヴェルの首が地面に転がっていたか、或いは両者の壮絶な死闘が始まっていた事だろう。そうなっていたら最早話し合いなどできる状況ではなかった。
「殺気だけで私をここまで怯ませ、尚且つ殺してみせるなんて……ヴェル、君は本当に何者なんだい?」
もちろん、それに答えてくれる者はいない。しかしそれでも、彼女は問わずにはいられなかった。もしや、もしかしたらあの少年こそが、自分が探し求めていた人なのではないかと。
「もしあの子が彼であるなら、私が探し求め、願い恋い焦がれた彼であるならば……ふっ、柄にもなく子供のように祈ってしまう自分がいるな」
幼い頃から憧れ、恋した、大人となった今でも熱病に罹ったかのように体が火照ってしまうほどの興奮が駆け巡ってしまう。
ヴェルがそれだと、ヴェルならばあの人に相応しいと、幼い頃から抱いていた願いが叶う事を祈りながら、イレイナは一度深く呼吸をして、震えの治った足で歩き出すのだった。