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大人の財力

 家の近所に昔からある小さなケーキ屋がある。

 こじんまりとした可愛らしい店構えでその日に注文された誕生日ケーキにあるプレートに書かれた名前をやはり小さな黒板に並べて「おめでとう」と祝っているような小さな店だった。

 雑多な駅前に建っているその店はなぜだか不思議な時間が流れているようで、切り取られたその空間がたまらなく好きだったのを覚えている。

 私が子供の頃からある店なので結構長い間あるのは間違いないが、いつからあったのかは知らないし覚えていない。

 このケーキ屋に関する記憶ではっきりとあるのはここの店のケーキはやたらと小さかったということである。よく言えば可愛らしいサイズのケーキはとても手の込んでいるケーキばかりだった。低い目線いっぱいに見えるケーキがいつもキラキラと輝いていたのを覚えている。

 もっとも、私が食べたことがあるのはここの店で比較的安いショートケーキとシュークリームだけだった。理由は実に子供らしいもの。母親に買って貰えなかったのだ。

 その店には当然ショートケーキ以外のケーキもたくさんあった。苺タルトにチョコレートケーキ、それにプリン。どれもこじんまりとしたケーキだったが美味しそうに見えた。

 中でも子供の頃の私の興味を引いていたのが『オペラ』というチョコレートケーキだった。スーパーの大量生産の店では決してお目にかからなかったケーキである。薄い生地の間にコーヒー風味のクリームが挟まれている長方形のケーキでその店のものには端の方に金箔がちょこんと置かれたとにかく、子供の目から見ても豪華なケーキだった。

 ショーケースの、五歳くらいの子供の目線ぴったりの中段にいつも綺麗に陳列されている憧れのケーキだった。私の目には隣にあるベリータルトではなく、いつも『オペラ』が見えていた。

「あれが欲しい」と幼い頃の私は一緒にいた母に何度も交渉を持ちかけたことがある。「どれ?」と尋ねられて指差すケーキは決まって『オペラ』だった。そうすると母は決まって困ったような顔をして首を左右に振っていた。

「あれは駄目」

「どうして?」

「コーヒーが入っているから」

 当時の私にとっては『コーヒー』というやたらと黒いいい匂いのする飲み物はアルコールと同じカテゴライズにいた。子供が口にしてはいけないものだった。

 確かにオペラの値札にある説明文には『コーヒー』の文字がある。しかし、子供の目にはチョコレートにしか映っていない(私は視覚情報しか信じない間抜けな子供だった)ので当然食い下がる。

「でもどうしても食べたい」

「駄目」

「どうして?」

「高いから」

 最終的には母のこの言葉で食い下がっていた。「高いから」というのは魔法の言葉である。当時、我が家の経済状況はあまりよくはなかった。

 だがしかし、この書き方では母は守銭奴のようである。あの人の名誉のために、念のため言うが、母が子供の私にカフェインを摂取させたくなかったのは事実だと思う。現に私は中学生になるまで家で紅茶を飲ませて貰えず、母や祖母が紅茶を飲む中、一人牛乳を飲んでいた子供である(が、当時の私からしたら紅茶は『味のないお湯』なので都合がよかった)。ちなみに私が紅茶に目覚めた原因はドラマ『相棒』とアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』だった。

 とにかく伝家の宝刀の「高いから」が出てしまってはどうしようもない。私は結局、この交渉に敗北し、しょんぼりしながらショートケーキが五つ入った小さなケーキ箱を抱えて、車に揺られながら祖母の家に向かうのだ。

 確かに、『オペラ』は高かった。金銭の感覚がしっかりと身に付いていなかった子供にも値札に書かれた数字が周りのものより少し大きいことには気付いていた。だからこそ「仕方ないな」という諦めだった。それにあの幸福な空間で駄々をこねることがとても恥ずかしいことだと認識していたのである。

 そもそもあのケーキ屋のケーキは高い。食べたいと言うと二、三回に一回は「高いから」と提案を却下されるくらいには高かった、らしい。らしいというのは正確な金額を認識していなかったからの感想である。ただ、子供からしてみれば夏目漱石とかいうよく知りもしない作家が書かれたお金など正月に貰えるか貰えないかほど貴重なものなのに母は、それを数枚出していつもそのケーキを買っていた。これはかなり衝撃的な記憶である。

 よって私の中では幼少期から『ケーキ』=『高いもの』というより『この店のケーキ』=『高いもの』という方程式が成り立っていた。


 それからすっかり時間が過ぎて、私も歳をとり、学生という身分になっている。状況も変わり、我が家の懐事情も変化はしていた。

 とはいえ、リムジンを呼んだり、一回着た服を二度と着ないとかそういうことができるほど金持ちになったわけでもないので世間一般の学生と同じように私もアルバイトをしている。月ごとに酷く収入差のあるバイトではあるが諸々の費用や貯金を差し引いてなんだかんだで月に一万円ほどは自由に動かせるお金がある。

 その金はなんだかんだで大半は食費に消える。ガチで。紅茶と菓子に消えている。

 ある意味食べることが趣味のようなものなので欲望に負けて八百円のクレープだとか九百円のハーゲンダッツのバラエティーパックとか平気で買って帰って来てしまう。後悔はしていない。

 そんな状態の私が先日、母と出かけた。母の確定申告にくっついて行くついでに買い物を済ませた(ちなみに私は扶養の範囲内で働いている)帰り道である。ちなみにこのとき、私は母の確定申告の終わりを待って二時間立ちっぱなしだった。ハチ公だってもう少しは楽をしたはずだ。税務署の「そんなに時間かからないですよぅ」は信用ならないと学んでいた。

 とにかく、その帰り道、最寄駅に立った母がぽつんと「シュークリーム食べようか」と言い出した。

 どこの? と尋ねたところ帰ってきた名前は上記のケーキ屋だった。そのまま母に連れられるままに、私は実に数年ぶりにそのケーキ屋に入った。

 相変わらず綺麗な店だった。こじんまりした落ち着いた店だ。そして見上げなければ全てのケーキが見えなかったショーケースをいつの間にか見下ろしていたことに気が付いた。

 懐かしい、という言葉とともに最初に目についたのはショートケーキだった。いつも食べていたのだからまぁ当然である。

「他に何か欲しいのある?」と母に尋ねられた。反射的に首を左右に振る。言っても大体買って貰えないという子供の頃の記憶である。

 母が隣でシュークリームを注文する声を聞きながらまたショートケーキを見つめてから驚いた。値札に書かれた数字は三百円に満たない程度だった。サイズが小さいせいか少々割高なのは事実だが、しかし、過去の印象とは随分と違う。

 思い出したかのように『オペラ』に視線を向けた。ショートケーキよりは高いがしかし、五百円は切っていた。ハーゲンダッツの方がよほど高い。

 三十分の労働で、『オペラ』が買えるどころかお釣りが来るという現状に私は酷く驚いた。これが大人の財力である。

 思えば、アルバイトを始めてからというもの随分色々買い込むようになった。ハーゲンダッツだって前はもう少し躊躇いを持って買っていたように思う。高校生の頃、自分の小遣いでドキドキしながらこっそりチョコレート味を買ったのが懐かしい。しかし、今は月に一度はスーツ姿のままコンビニ駆け込んでそのままダッツの箱を抱えて帰ってくるような生活をしている。これが大人の余裕である。ゲームの予約も躊躇わなくなったし、アイドルやアニメのグッズも一気に買うようになった。

 そして同時に、このケーキ屋に来て『オペラ』を買ってみるという思考に行きつかなかった自分にも驚いた。高校生の頃から何度もこの店の前を通っていたのに。一度たりとも寄って帰ろうと思ったことはなかった。なぜか。『あのケーキ屋』は『高い』からである。

 子供の頃に刷り込まれた感情とは恐ろしい。自分はとうにこのケーキを買えるだけの財力はあったのに過去の感情が事実を塗り替えていたのだ。

 ちなみに母もこの事実には驚いていた。

 見下ろしたケーキがなんだか記憶にあるものよりは大きく感じたのもこのためだろうか。わずかに大人になった気分でシュークリームをかじっていた。




 そんな大人は、その翌日、財力でモンスターハンターの新作を買うべく吹きすさぶ風の中、意味をなさない傘をさしながらゲーム屋に向かっていた。全く財力を手にした大人というのは愚かである。

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