第38話「絵描き」
『洗う蛙亭』の扉がゆっくりと開いていく。俺はおそるおそる中を覗き込みながら入っていく。クーちゃんも同じようにおっかなびっくり中へと進入していった。
どうやらよくあるタイプの酒場がついているタイプの宿屋のようだ。1階はお酒や料理を出す食事スペース。丸テーブルがいくつかあり、椅子がきちんと収められている。大きめの階段から上、二階部分にはいくつか扉がついており、客室になっているのだろう。
俺は何か違和感を覚えたが、すぐにその正体に気付いた。夕方の時間帯なのに、お客が誰一人入っていないという酒場としては恐ろしい状態だ。
さびしげな様子でウェイトレスらしき女の子がごっしごっしと床にモップをかけていた。
奥にはカウンターがあり、調理スペースが併設されている。そこでは店長らしき人物が黙々とグラスを磨いていた。その手つきは危なげなところがなく、また、磨かれているグラスは天井からの明かりを受けて煌めいている。
その様子を見て、俺は愕然としていた。驚きの声が思わず口から漏れる。
「――蛙じゃねえ!」
俺の言葉にちらりと目線を上げた店主は、鹿の獣人だった。
立派な角と、茶色の毛皮に白の斑点。その体躯は大きく、もりあがった二の腕からも鍛えられているのがよくわかる。
ヘラジカのような角は、片方が折れていた。根元の近くで途中からぽっきりといっている。バランスをとるためか、鉄のような素材で接木のように付け足されていた。
「っと、お客さん!? こ、こんにちわ!!」
モップで床を掃除していた女の子が俺に気づいたようだ。こちらを向いた顔は猫科を感じさせる勝気そうな顔をしていた。瞳は猫のような目になっており、ぱっちりと開いている。口にのぞく八重歯もふくめてかわいらしい顔立ちになっていた。代わりらしい頭の上でまとめて留められた金色の髪が、くせっ毛なのか噴水のように広がっていた。全体的には肩までのセミロングヘアーに見える。
その髪の毛の中に埋もれるようにして獣耳があるのを見つけた。ミトナのような人型獣人なのだろう。猫タイプかな?
俺はフードを取ると、顔を出した。ここでは隠さなくてもいいだろう。
「マスター、お客さんきたよ! 珍しいね!」
「その言いようはどうなんだ? それに、悪いけど客じゃない」
「……そうなんだ」
俺の言葉に嬉しげな顔をひどくがっかりさせる。なんだか申し訳ない気持ちになるが、しょうがない。金がないのだ。
しかしそうなると女の子の顔が険しいものとなる。警戒心あらわに、俺のことをにらみつける。
「じゃあ、何の用? 押し売りならお断りだよっ!」
「押し売りでもねえよ。冒険者だ。配達依頼で小包を届けに来たんだが、『洗う蛙亭』はここでいいんだよな?」
「うん、合ってるよ! マスターは鹿さんで、蛙さんじゃないけどね」
俺は小包を軽く振って見せながら、反対側の手で胸元の冒険者の証を取り出して見せた。女の子はどうやら納得したようだ。
俺はカウンターまで歩くと、その上に小包をおいた。小包を縛っている紐にくくりつけられている配達表を見ると、そこにサインをした。レジから茶色の10シーム銅貨を1枚取り出すと、配達表に添えて俺にそっと差し出す。あとはサインが入った配達表を窓口さんのところに持っていけば残りの報酬が支払われるはずだ。
「まいどあり」
鹿の店主は一言もしゃべらぬまま顎で二階を示す。女の子はそれだけでわかったようで小包を抱えると、階段を身軽に駆け上がっていく。
俺はその背中をなんとはなく目で追う。と、いつの間に用意したのか、鹿の店主が俺の前に酒の入ったグラスと、ミルクの入ったボウルを置いてくれる。配達をねぎらう一杯なのだろう。無視するのもなんだし、ありがたくいただく事にする。
カウンターに備え付けられているスツールに腰掛ける。ミルクは床に置くと、クーちゃんがすぐに飲み始めた。俺も酒をいただく。何かの果実酒なのか、甘く爽やかな飲み口。
しかし、この鹿の店主、全然しゃべらねえな。
もの珍しさもあり、グラスを磨く鹿の顔をまじまじと見つめる。どんないきさつがあってここで酒場をやっているのか、どうして角が折れたかなど気になるが、聞いてもしゃべってくれそうにないな。
果実酒を飲み終わるころに、階段から女の子ともう一人誰かが降りてくるのが見えた。
「いやあ、今日届いてよかった。思ったより早くて助かったよ~」
「今まで寝てたなんて信じられない! ちゃんと寝て、ちゃんとご飯を食べるのが大切だよ、絵描きさん」
「ん~。描きたい時に描いて、描けなくなったら倒れるように寝る。それが正しい絵描きってもんさ」
それはどうかと思うぞ。
青みがかって見える長い髪は、手入れがされていないのか寝癖が盛大についていた。その髪の量も多く、顔を覆って隠しそうなほどだ。その目元はいまいち見えない。
頭をがりがりと掻きながら、その絵描きはなぜか俺の隣のスツールに腰掛けた。
「あー、マスター。私にも酒をくれるかい?」
「飲みすぎたら駄目ですよ! まだ夕方だからね!」
「飲みたい時に飲んで、飲めなくなったら倒れるように寝るのも、絵描きなんだよ」
「絶対違うと思うな! エルくんに言いつけるよ!」
「君は間違っているよ。エルくんは私の生活監督でもなんでもない。ただの護衛くんだよ。だから私は飲む!」
猫耳の女の子と軽口を叩き合う絵描きは、その声や体つきからして、おそらく女性だろう。おそらくとつくのは、その服装が奇抜なせいでもあった。
ルームウェアのような布ズボンと、長袖シャツはもとは普通の生成りの色だったのだろう。今や様々な絵の具に乱舞され、さながらひとつの芸術作品のようにモザイクの混沌をつくりあげている。
「ん? んんん?」
なぜかその絵描きは、床でミルクを飲んでいたクーちゃんを凝視していた。
はじめはスツール上から、そのあと床に這いつくばるようにしてクーちゃんを見る。髪の毛が掃除はしているがきれいとはいいがたい床に広がり、さながら殺人現場のような様相になる。
何だコイツ……!
「珍しい……! 見たことないよこんな種族……! フォックス種? フェネック種!?」
鼻息荒く絵描きが叫ぶ。さすがのクーちゃんもおびえたような顔で飛び上がると、俺の足をかけあがり、マントの内側にもぐりこんだ。ぶるぶる震えているのが伝わってくる。
絵描きはなおも執拗にクーちゃんを追いかける。俺のマントの中を開けて覗こうとするのに呆れ、俺は声をかけた。
「いや、怖がってるしやめてくれ」
「……君が飼い主? どこで従者にしたの!? この子、描かせてくれないかな!」
「いや、ちょっ――」
「お願いだよ! 出会いは一期一会、描ける時に描いておきたい! いいだろ? 君!」
鼻もくっつかんばかりに迫ってくる絵描きに、俺は思わずのけぞってしまう。このまま噛み付かれるかと思いきや、絵描きは俺を突き放すかのように離れると、二階へと駆け出していく。
「待ってくれ! ちょっと落ち着け! アンタ何者だ!」
「私か!? 私はただのしがない絵描きだよ!」
二階にある絵描きの自室から、どたんばたんと物をひっくり返す音がしてきた。それどころかガシャンとかバキンとか、ときには絵描きの悲鳴らしき音が聞こえてくる。
俺が逃げるかどうか考えている間に、絵描きは戻ってきた。手には画板や筆など筆記用具が握られていた。
髪で隠れて見えないはずの瞳が、レーザーでも放つ勢いで爛々と光っている。走ってきたせいか、鼻息荒く、絵描きは叫ぶ。
「描かせて!」
「いや、そこまで暇じゃないというか、この依頼報酬もらわないと今日の宿ないしな。悪いけど……」
「モデル料100出す」
俺の動きが止まった。
配達依頼の成功報酬は10シーム。さきほどのと合わせて一晩泊まれるかどうかの金だ。100シームであれば食費を考えても四日間はいける。
俺の頭の中で計算がぐるぐると回る。
「駄目か……! じゃあ、200でどう?」
「……描くだけだな?」
「もちろん。他に何するってのよ」
懐の中でクーちゃんがビクっと震えた気がする。きっと気のせいだ。
200あればしばらく安泰。きっとそのためにはクーちゃんも納得してくれるさ。
時に人はお金のためならば悪魔になれるのだ。
闇の商人の笑みを顔に浮かべながら、百シーム銀貨二枚が俺に手渡される。ぐっと握手をする俺と絵描き。
俺は懐からクーちゃんを取り出すと、そっとスツールの上に安置する。一瞬逃げようとクーちゃんの四肢に力がこもるのがわかった。
だが、何か物理的な作用があるかのごとく、絵描きの狂気とも言える視線がクーちゃんを釘付けにする。
絵描きは床に座りこむと、その筆を動かしはじめた。
あれからどれくらいの時間が経っただろうか。眠い。出てくるあくびをかみ殺す。
俺はクーちゃんを放っていくわけにはいかないので、スツールに腰掛けて絵を描く作業を眺めていた。静かな店内に、筆が動く音が折り重なるように積もっていく。
猫耳ちゃんはどうやら店に住んでいるようだ。彼女が自室に戻り、鹿の店主が店じまいの作業を終えて下がっても、まだ絵描きは描き続けていた。俺が届けた小包の中身はどうやら画材だったようだ。
絵描きは何枚も何枚もクーちゃんの絵を描いていく。様々な角度、様々な箇所を、その筆を使って再現していく。写真に迫るほどの精密さと、狂気さえ感じられる精彩さで描かれたクーちゃんは、紙の上で動き出しそうなほどだ。その作品が、描きあがるたびに床の上に積み重ねられていく。
描き始めは起きて動いているクーちゃんを描いていたが、今は丸まって寝ているクーちゃんを描いている。
眺めているだけなのにも飽きて、俺は絵描きに話しかけることにした。
「クーちゃんって、珍しいのか?」
「…………ん? ああ、そうだね。私はこれまでたくさん魔物を見てきたけどさ、初めて見るよ」
絵描きはクーちゃんから目を離さない。筆も止めぬまま淡々と続ける。
「私は魔物専門の絵描きでね。魔物を見てはこうやって描いてる。南の方からぶらぶらしながら北上してきたのさ」
「危なくねえか? それに、怖くねえのか?」
「優秀な護衛がいるからね。魔物の巣とか、迷宮とかでも守ってくれるいい子さ」
その一瞬だけ、絵描きは筆を止めたが、すぐに再開する。
俺が自分の質問を忘れそうなくらいの時間がたったころに、絵描きはぽつりとつぶやいた。
「怖くはないね。――魔物ほど、美しいものはないからね」
静かな店内に、絵描きの言葉が沁みるように響く。
何が絵描きにそこまで言わせるのか、俺にはわからなかった。
絵描きが満足したのは、夜も明け、早朝を示す鐘が鳴ったころだった。うとうととしながら鐘を聞く俺の肩を誰かが叩く。はっとして振り返ると、鹿の顔がそこにはあった。
絵描きは、と見れば青みがかった髪を花弁のように広げ、死体のように床に倒れていた。そうやら描き続けてそのまま力を失ったらしい。
あまりの金払いのよさに、何か罠かとここまで張り合った俺が馬鹿らしく感じる。
鹿の店主はそのまま色んなものが散乱した床を片付け始めた。慣れた様子を見るに、よくあることのように感じる。
駄目だ。眠い。ちょっと休もう。
「……部屋、借りられます?」
クーちゃんを脇に抱え、よくわからん疲労を感じながら、俺は鹿の店主に尋ねたのだった。




