第280話「禁忌の獣」
二足歩行で立つ獣。ウルススがシャン・グリフと呼んだそれは、確かに形だけは灰スライムの集合体と似ている。
スライムと獣、どちらがシャン・グリフなのかはわからないが、確かなのはこいつがヤバいやつということだ。ウルススを置いて逃げられるわけがない。
逃げない俺を見て、ウルススは舌打ち一つ。
「置いていけるわけないだろ! やばいやつなら、それこそ力を合わせる必要があるだろ!」
「ボウズ……ッ! この馬鹿モンがぁ!」
それに、ウルススは気付いていない。この獣、さっきから俺ばっかりを見ている。じり、と体重を移動させようとすると、それを察知したかのようにぴくりと動く。完全にターゲットとしてロックオンされている。下手に逃げれば後ろからやられるのは俺の方だ。
「ファンテル! イリ! ミトナだけでも村へ連れて戻れ! わかっておるな!」
俺のことは諦めたウルススはせめてもと声を飛ばす。ウルススの声が届く前に、ファンテルとイリは動き出していた。ミトナの両側から腕を掴み、この場からの離脱を図っている。
「ミトナ様、こちらへ!」
「どうして……ッ!?」
二人に連れていかれまいと逆らうミトナ。ファンテルとイリの獣人二人がかりと拮抗している。進みも戻りもしない状況になっていた。
ウルススの焦りの色が濃くなる。遠ざけたいのはミトナだけということだ。ウルススがここまで言うには、何か理由があるのだろうが、このままではそれが聞けそうもない。
まずはこの獣を倒してしまう必要がある。
「――――<氷刃>!!」
魔術の起動はもはや呼吸と同じ。慣れ親しんだ氷の刃が飛ぶ。射出された三本の氷刃は狙いたがわず獣の顔面を狙う。口があり、目があり、鼻があるなら顔面は弱点だろう。
同時に大きくバックステップ、もみ合っているミトナ達から距離を取るように動く。ウルススの焦りようが極端に過ぎる。このままではミトナに気を取られ、足元をすくわれる。
それに……。やはりか。
獣が動いた。距離的には近いウルススよりも、距離を取る俺を追いかけてくる。ウルススがきちんと戦えるフィールドまでこいつを引きずり出さなければならない。
ウルススも俺の意図に気付いた。獣の背後を取るように追いかける。
「後で聞かせてもらうからな……ッ!」
クレーターの縁を越え、森の中へと入る。<空間把握>で辺りの様子は掴んでいる。できる限り木々が邪魔になるようにコースを取る。あの巨体なら真っ直ぐ進むのにも苦労するはずだ。
だが、俺の思惑は外れた。
巨大な腕を振るいながら獣が迫る。かなりの太さの樹の幹が、当たるたびにへし折れ、吹き飛んでいく。邪魔な木々を排除しながら、速度を落とさずに突っ込んでくるのだ。いかに身体を軽くする<浮遊>があるとはいえ、地を蹴る力に違いがありすぎる。追いつかれるのも時間の問題。
ウルススはきちんとついてきている。ミトナは<空間把握>の感知範囲の外までは離した。
「見逃してくれる……ってことはないだろうな!」
追いつかれた。
大振りの一撃。上から迫る鉄骨が振ってくるかの如き打撃。嫌な息が口から漏れた。
――――避けた!
避けたぞチクショウ!
「<大氷刃>ッ!!」
魔法陣が割れるのも、もどかしい。
マナの粒子がスローモーションで流れていく。出現した巨大な氷の刃。突っ込んでくる勢いが、そのままカウンターだ。駄目押しに射出を命じ、円を描くように背後に回り込む。
獣の目は大氷刃を前にしながらも、俺を追う。視線が絡む。
俺はぞっとした。
こいつの目は、おかしい。
獣の目は、狩りへの興奮や殺意が宿っていなかった。
感情の掴めない蟲の目を思い出す。感情の読めない瞳がそこにあった。
「――――<オオオオオオオオオウウウウ>ッ!!」
獣の口から、〝力ある言葉”が放たれた。
――――魔法陣。
駄目だ。ありえない。
どうして魔物が魔術を使える!?
魔法陣が割れると同時、獣の手が淡く光る。それが大氷刃に叩きつけられた。大氷刃が一瞬で溶けた。いや、正確にはもとのマナへと分解し、霧散させられた。引きちぎるように純粋マナの塊が空気に溶けていく。
ミトナの持つ古代剣。魔術を分解するアレと同じエフェクトだ。
この獣、生身で分解魔術を起動するのか!?
横薙ぎの一撃を、身体を伏せて回避。同時に無詠唱で<りゅうのいかづち>を起動。雷撃を見舞うが、それも分解魔術の腕で霧散。もはやよつんばいのような姿勢のまま、かまわず二発、三発と<りゅうのいかづち>を放つ。
うるさそうにかき消す獣は、その開いた口腔内に魔法陣を浮かび上がらせた。俺も身に覚えがある。咆哮に追加するブレス系魔術。
この距離では避けきれない。
しかし――――!
「ふんぬゥっ!!!」
両腕を肥大化させたウルススが舞い降りた。
下方向に注意を向けていた獣は反応が間に合わない。顔を上げようとした瞬間に、渾身の力を込めたウルススの打撃が獣の頭に突き刺さった。
インパクトの勢いは、空気すら圧殺する勢い。衝撃にねじくれた角が根本からへし折れた。獣はガチンと口を閉じ合わす。直後に、頭部をまるごと吹き飛ばす小爆発。
「ぬぅおッ!?」
「ウルスス!? 大丈夫か!」
どうやら口の中で魔術が暴発したらしい。何の魔術だったかわからないが、あの獣、分解魔術以外も起動できるということだ。
肉が焦げる煙を断ち割って、ウルススがずどんと着地する。警戒は崩さない。
「いや、この程度の爆発、問題ないわい。それより……こいつ、もう動かんじゃろうな?」
頭部を失った獣は、そのまま立ち尽くしている。その存在感は再び動き出しそうに思える。
「とりあえず動けないようにしておけばいいだろ?」
<魔術「氷」中級>+<拘束>。内側に向かってマナ密度の高い氷に生み出すと、獣の残った全身を氷漬けにした。
ここまでして、ようやくウルススは一息ついたようだった。
俺は近くに転がっていた獣の折れた角を拾い上げる。すぐさまそれは粉となって散っていく。
<空間把握>には、似たような獣は感知していない。ひとまずは大丈夫だろう。
俺はウルススと向き合う。まずは気になったことを聞くべきだろう。
「ウルスス……。シャン・グリフってのは灰色スライムの集合体……だと思ってたんだけどな。違うのか?」
「普通はスライムのことを指すんじゃがの、港町のもんはそう思っとる。灰スライムの方があの形を擬態しておるんじゃ。森で最も脅威になるもんを参考にしたんじゃろうて。そもそも人型のスライムなんぞ、おらんじゃろうが」
確かにそうだ。これまで王都側で見たスライムは全て粘液型というか、不定形をしていた。人間型をしていた個体は見たことない。
「だけど、どうしてそんな風に擬態する必要があるんだよ。おかしくないか?」
そもそも魔物は動物的だ。その能力は全て獲物を捕らえるために持っている。それが、ここの灰スライムは違う。形を似せたところで、強さが上がるわけでもない。不定形のスライムであれば、もっと適した形もあるだろう。
「この森に近付かせないためだ。命令が不安定なのか、うまくはいっておらんようじゃがの」
「それは……」
どういうことだと問う声を、俺は飲み込んだ。ウルススは兜を脱ぐと、決意に満ちた真っ直ぐな視線を俺に向けている。
ウルススの振る舞いを思い出す。ミトナを遠ざけようとしたウルスス。
あの獣は、ミトナと何か関係があるのだ。ミトナの動きを見るかぎり、ミトナ自身は何も知らないようだが。
「ボウズ……。付いて来い。ワシの娘が欲しいなら、ボウズは知っておくべきじゃ……」
それだけ言うとウルススは背を向けて歩き始めた。何か重い物がそこにはある。
俺は唇を引き結ぶと、その背を追うことにした。




