第260話「親の思い」
ぽつりと雨粒が落ちてきた。
重く暗い雲から、とうとう漏れ落ちてきたのだ。いずれ雨は本降りになるだろう。嫌な予感を抱えながら、俺は港へと向かって走る。
港街のベルランテにあって、俺はあまり港を使うことはなかった。冒険者ギルドは街の真ん中になるし、買い物も中央の商業区や屋台で事足りる。港は貿易や漁のための場所と言えるだろう。
獣王国からの襲撃があった際に、少し寄ったくらいか。
ミトナとウルススを追いかけて俺は走る。
〝発つ”とおじいさんは言っていた。港から出発するなら、船ということになるだろう。この聖王国は平地と山岳に囲まれている。船でいけるところは限られているのだ。どこへ行こうというのか。
息を切らせながら港に到着する。小雨の中多くの人が働いていた。アシカやラッコのような獣人が忙しそうに働いているのが見える。大型の木箱を運ぶカバ型獣人に向かって神経質そうなネズミの獣人が指示を飛ばしている。
<空間把握>を全開にしながら、少女と熊の姿を探し回る。あの巨体だ、いるのなら見つけるのは難しいことじゃないだろう。
「――――いた!!」
停泊している大型船の近く、荷物の詰まった木箱を積み込もうとしている大きな熊の姿を捉えた。
「ウルススさん!」
「……ボウズか」
苦い声だった。
ウルススはことさらにゆっくりと木箱を置く。そこからさらに時間をかけながら、俺の方へと振り返る。
いつものエプロン姿ではない。見たことのない革の鎧を着けていた。馴染んでいるように見えるその姿は、もしかするとウルススが昔から使っている装備品なのかもしれない。
よかった。
俺は安堵の息を漏らした。
最悪ミトナもウルススも見つからない可能性もあった。船で出られてしまえば追いかける手段はない。
「ウルススさん……、大熊屋を閉めるんですか? どうして!? それに、ベルランテを出るって……ミトナは!?」
その名が出た瞬間に、ウルススの目がぎゅっと細められた。
ウルススは俺を見つめるが、返事はない。ただ、何かをこらえるかのように俺を見つめる。
わからない。だから俺は言葉を重ねる。
「理由は! 何か理由があるんでしょう!?」
大熊屋は繁盛していた。俺がケイヴレザーコートを使った宣伝も含めて、かなりの集客だ。逆に、今ここでこれを手放す理由もわからない。
「ボウズ……」
ウルススが口を開いた。だが、結局何も形にならず、再びその口は閉じられた。小雨がウルススの毛皮を濡らす。俺の頭にも降る雨粒が、首筋を通って背中に抜ける。ひやりとした感触。
「言ってやればいいでしょ。このわかってないガキにさ」
横合いからかかった声は、聞き覚えのない男の声だった。
ひょうひょうと姿を現したのは、白い毛皮を持つ獣人だった。顔は虎に似ている。だが、ホワイトタイガーと違ってその顔には黒い斑点が多く存在する。
ユキヒョウだ。珍しいその名前は、しばらく考えた脳内から出てきた。
ヴェルスナーと違って、細身でひょろりとしている印象を受ける。ウルススと似た革鎧に身を包み、腰には二本の短剣を差している。
つぶらとも言えるその瞳が、嘲る光を湛えながら俺を見る。
「これ以上ミトナお嬢さんに悪い虫が付くのはいけない」
―――コイツは敵だ。直観でそう感じる。
不快感が俺の視線を剣呑なものへと変えていく。俺の視線を意にも介さず、ユキヒョウ男は続ける。
「隊長はミトナお嬢さんのことを一番に考えておられるんだからな」
「……隊長はよせ」
隊長?
ウルススのことか?
だが、ミトナの名前が出たことで、俺のフリーズが解除される。
「そうだ、ミトナだ。ウルススさん、ミトナはどこなんです。ミトナも行くんですか?」
「いちいちうるせぇガキだな、おい。ミトナお嬢さんのことはオマエには関係ないだろうがよ!」
「お前には聞いてない。黙ってろよ白毛皮!」
「ァア!? ぶちのめされてぇのか!」
「魔術ぶちこんでやろうか!」
こいつを見ているとなんだかイライラするのはどうしてだろうか。
牙を剥いて威嚇するユキヒョウ男を見ながら、すぐに起動できる魔術を脳内で列挙する。これなら<魔獣化>も起動してから来るんだった。
「ウルスス隊長、コイツ、魔術師らしいですよ。敵だ、敵!」
「お前……!」
「ファンテル、少し静かにしておれ。ボウズもどうしてそこまで突っかかるんじゃ」
疲れたようにウルススが言う。このユキヒョウ男、ファンテルと言うらしい。
大きく笛の音が鳴った。慌ただしく水夫たちが船へと入っていく。出港が近い。
このユキヒョウ男としゃべっている場合じゃない。
俺の表情を見たのか、ウルススが口を開く。
「ワシらは故郷に戻る。ミトナも連れて行く」
「……!」
「親のわがままなのかもしれん。一度は好きにしろとも言ったんじゃ。じゃが、これ以上は見てられん。ボウズ、お前は悪いやつじゃあない。じゃがな……この前ボロボロの状態で帰ってきたときに思ったんじゃ」
ぼたりと、大きな雨粒が落ちてきた。
それを皮切りに、音を立てて本降りになる。ざあああという雑音が、頭の中を埋め尽くしていく。
「娘の命を案じない親などおらんよ」
堰を切るように降り出した雨が、ウルススの毛皮を濡らしていく。
顔を打つ雨粒が痛い。
わかっていた。
全てを言わなくても、ウルススの言いたい事は十分にわかる。
これまでいくつの戦いがあっただろうか。そのどれもが、一歩間違えれば死ぬようなものばかりだ。俺がいなければかかわらなった戦いも多いだろう。
だが、ミトナなら一緒に来てくれると無根拠に思い込んでいた。いつでも、ついてきてくれると。
いや、甘えていたのだ。
そのツケを今、払っている。
何も言えない俺に向かって、ウルススは腰の得物を抜いた。柄の長いバトルハンマー。打撃面はウルススさんの巨体に比べると小さい。打撃部分は銀の盾のようなもので装飾されている。ところどころ青色の鉱石が使われていて、その光沢が美しい。だが、その意匠や、武器自体から発せられるプレッシャーは半端ではない。一体なんの素材で出来てるんだ、アレ。
「どうしてもミトナが欲しいというのなら、ワシを倒してみるんじゃな」
考えられない。
ただ、ウルススもミトナもいなくなる状況が受け入れられなくて、惰性で構えを取る。慌てて出てきた俺は、霊樹の棒すら持っていない。
ウルススに魔術を撃つのか?
何で俺がこの人と戦わなきゃならないんだ?
ミトナが欲しいなら……?
ウルススの言うことも事実だ。俺と居ればミトナはまた命の危険がある。それは俺の身体が魔物である限り、クーちゃんと離れられない限りどうしようもない。
ミトナ。
俺にとってミトナは、何なんだ……?
「隊長、こいつ無理でしょ。ブレてる匂いしかしねえ」
「残念じゃな……」
ウルススは一歩踏み込んだだけだった。届きそうにないと思われた距離からのフルスィングは、何の魔法か一瞬で俺まで届く。速度、軌道、申し分のない一撃が俺の顔面を。
――――撃ち抜かれたかと思った。
実際は寸前で止められた打撃部から発生した衝撃波が顔を打っただけだ。その勢いで俺は後ろに倒れ込んでいた。あおむけに転がった全身を、雨が叩く。
ウルススは何も言わない。ちらりと俺を見ると、船に乗るために踵を返した。
手を伸ばすべきなのか。その資格があるのか。
俺はただその後ろ姿を見送るしかできなかった。




