第190話「神獣」
心臓すら凍り付いたような、静寂が訪れた。
青白い光を放つ狼は、思った以上の大きさはない。だが、その全身から放出される神々しいオーラが、実際より大きく見せているのだ。
〝狼”はまだ意識がぼんやりとしていた。
いままで眠っていたかのような気分なのだ。
伏せていた身体を起こす。四肢も尻尾も動く。足の裏は水面を踏んでいる。潜ることもできるが、今はその必要性を感じない。
目の前にはところどころ紫色をした魔物の気配があった。自らも魔物であるが、こいつは種族が違う。
〝狼”は目を細めた。
この個体は、不愉快だ。
何故かそう感じる。
寄って来たので、前脚を打ち付けた。
インパクトの瞬間に氷結の小爆発が生まれる。緑色の魔物は吹き飛んだ。端っこの細いところがいくつか千切れ、ずいぶん丸くなってどこかへ行ってしまった。
格の違いもわからぬか。
視界から消えたので、興味を失った。
〝狼”は全身の毛をそよがせた。一本一本の毛が、周囲を探知するセンサーとなっている。
近くには気配が薄い獣人がいる。一、二……三、四。
ニンゲンの気配が一。〝狼”はひと睨みでそのニンゲンの全身を凍結させた。視線の届くところを凍てつかせる<魔法>。
ニンゲンの心臓が止まり、魂が解放されるのを感じる。
〝狼”は頭上を見上げた。
空いた穴から光が差し込んでいる。どうやらその向こうは地表のようだ。
ここはどこだろうか。
頭上には多くのニンゲンの魂を感じる。
魂持つ歪な存在。全てを無に帰し、全ての魂を元の理へと――――。
〝狼”はぐぅっと四肢を曲げ、力を溜めた。あの程度の薄い岩盤なら、突き破って地表へと出ることができるだろう。
「少々待ってもらえんかのう?」
その声は内側から響いた。落ち着いた声に〝狼”はぴくりと耳を動かす。
〝狼”の心の目は、深緑色のローブを着た魚の獣人の姿を捉えていた。実際の姿ではない。その者が持つ魂自体のカタチだ。
「視線だけで相手を氷に変えてしまうことなど、普通は出来ないものじゃて。さぞ格の高い方と見受ける」
平静を装っているが、この魚の獣人の魂からは、恐怖と焦燥が伝わってくる。
〝狼”に取って、この魂を消し飛ばすのは簡単。だが、そうしないのには理由があった。この魚の獣人は、どうやって〝狼”の魂に接続したのか。
それを探っておかなければ、と考えたのだ。
おかしい。
どう探っても、〝狼”の内側。同化するような位置から、接続が為されている。
「……広すぎて見えんのう。危険じゃが、引きずり出すしかないのぉ」
〝狼”は魚の獣人の全身を捉えた。どこかで、見たことがあるような。
睥睨してみれば、気配の薄い獣人たちも、どこか見覚えがある。
〝狼”は魚の獣人の魂から、さざ波のようにマナが放射されるのを感じた。
「魔物は生まれながらにして魂を使いこなす。じゃがの、使いこなすことにおいて、ワシはひけを取らんよ」
一定のリズムで反響する魂のソナー。
〝狼”は自分の内部が揺らぐのを感じた。何か、忘れている。思い出していいのか、いけないのか。
こいつは危険だ。安全策として、〝狼”はこの魂との接続を切り離すことにした。
そのための爪が、圧倒的な風となって魚の獣人の魂に殺到する。
「忘れるでない! おぬしは――――マコトよ」
何を――――!
ぐらりと、世界が歪んだ。
まるで二重にブレて見えるような感覚。気持ち悪い。今すぐミオセルタを止めないと、カラダが崩れてしまいそう。
〝狼”は震える前脚をミオセルタへと近付ける。
かようなか細い魂、触れるだけでで砕くことができる。ミオセルタからは未だ魂のさざ波が放射されている。
それが当たるたびに震えが走る。やめろ!
「魂の質量が多すぎるのじゃ……。なんと……!!」
ミオセルタから焦りの感情がにじみ出た。
――――ニイさんっ!!
予想外の衝撃に、〝狼”の魂が震えた。
外部からの接続。
狐の半獣人――フィクツの<憑依>だ。
――――忘れたあかん!! ニイさんは、ニイさんや!!
黙れ! これ以上、内側を触るな!!
〝狼”は前脚で水面を打ち付ける。水面をすべて凍り付かせるほどの冷気が迸る。空気中の水分が凍り付き、白い風となって吹き荒れた。
氷点下まで下がった地下湖。ぐったりして動かぬフィクツを、ミミンがかばう。一瞬で髪や服に霜が降りた。
〝狼”は、何者かが跳びあがるのを感じ取った。反射的に牙を剥く。大きく開けた口には、砥いだ刃物のような牙が並んでいる。その硬度といい、噛む力といい、ドラゴンの尻尾程度なら噛み千切ることができる。
だが、はたと〝狼”の動きが止まった。<憑依>したフィクツが動きを縛っている。通常ならこの程度振りほどけるはずなのだ。だが、ミオセルタが的確に揺さぶりをかけるため、うまく振りほどけない。
「マコト君! クーちゃん! 目を――――覚ましてッ!!」
〝狼”の鼻先を、<くまの掌>が打つ。ミトナの全身全霊の一撃。響いた衝撃波が、一撃のすごさを物語っている。
――――ミトナ。
名前が脳内で弾けた。
オセロが裏返るように、一気に記憶が表出してくる。
自分を、〝俺”を、思い出した。
「来よった!! 引っ張り上げるぞい!!」
ミオセルタ! それに、フィクツ!?
俺は自分がミオセルタの他にフィクツとも繋がっているのを感じていた。
――――ニイさん、よかった……。
力を使い果たしたのか、フィクツとの繋がりが切れた。自分の身体に戻ったのだろう。
直前までの出来事も、〝全て”思い出す。
「一体何がどうなったんだ……? アドルは? 他の奴らは?」
俺は立ち上がって辺りを見渡す。氷の世界となってしまった地下湖。アドルも、ピックも、スライサーも姿が見えない。
踏み出しかけた足が、がくんと折れる。ぶつけた膝が痛い。
ニンゲンのカラダだ。
両手があり、両足がある。俺はぺたぺたと自分の身体を触った。
まるで使い方を忘れてしまったかのような感覚が、さっきはあった。不安なその感覚はすぐに消えて、足に力が戻ってきたことに安堵する。
「何とかなったようじゃのう……」
「ほんま、よかったわぁ」
ミオセルタが疲れたような声を出した。肉体を持たぬミオセルタからそんな声を聞くのは初めてだ。
「うお!? フィクツ! ミミン!?」
フィクツはぐったりとなってミミンに抱えられていた。
そのミミンはというと、吹雪の雪山にいたかのような有様になっていた。
「――――<ブロック>!」
魔法陣が割れ、炎のブロックが空中に現れる。熱源となってミミンの身体を温める。
髪や服についている霜を、ミトナが落としていく。ようやく温かくなってきたのか、ミミンはほっとした顔になった。
何があったのかいまいちわからないが、おぼろげに思い出してきた。
アドルは死んだ。俺の一撃で。スライサーもだ。
姿が見えないのならば、ピックは逃げたのだろう。たぶん。
俺はハッとなって顔を上げた。クーちゃんは!?
すぐに見つかった。
氷結した水面が隆起し、氷の小山となった上にちょこんと座っている。俺をじっと見つめているその瞳は、普段と変わらぬように見えた。
ただ、少し、額の宝石が大きくなっているような……。
「んぐ……、ぬ……」
「フィクツ!? 大丈夫なのか、これ」
俺の物思いは、フィクツのうめき声で中断された。
駆け寄ってみると、眉根を寄せながらミミンの腕の中で昏倒している。
「声が出るようなら安心や……。<憑依>するとだいたいこうなるんよ。いつもと同じような感じやから、大丈夫」
ミミンが深く息を吐いた。
「とりあえず、どうする? マコト君」
「とりあえず、上に登ろう。逃げたエリザベータも追いかけたいところだしな」
ミトナが頷いた。
何も聞かないでくれるのは助かる。俺にもわからないことが多い。
とりあえず、上だ。




