第142話「王都グラスバウル」
風が通る。
黄金色をした海が地表を覆っていた。整地された広大な区画に、豊かにバウル麦が実っている。
王都グラスバウル周辺は起伏が少なく肥沃な大地が続いている。王都のそばを通るロキシオン川が豊富な水源となり、王都グラスバウルの穀倉地帯を支えている。船を使った輸送もさかんに行われ、多くの品がこの王都に集まってくる。
通る風に合わせ、ゆったりと穂が揺れた。ざああっと小気味良い音がこだまする。寒さにも強く改良されたこの種は、この時期二度目の収穫を迎える。しっかりと手入れされたバウル麦は、この王都グラスバウルの宝だ。
テーブルの上には、豪勢な料理が並んでいた。
朝一番に収穫された野菜に、高級なハムやソーセージ。果物類もふんだんに卓上に用意されていた。
席の前には、シミ一つなく美しく磨かれた皿とグラス。一本でそこらの家庭一年の食費を賄えるほどのナイフやフォークがずらりと並んでいる。特殊な貴金属で出来たそれらには、一本一本職人の手による精緻な彫り物がされていた。
その席に、かなり不機嫌な顔をした少女が座っていた。
歳のころは十七、八。宝石のような碧色の瞳、すっと通った鼻筋に、桜色をした唇。なめらかな肌は、毎日ケアをされているのがうかがえる。太陽の光を集めたかのような豊かな金髪は、丁寧にセットされ、編み込まれていた。
不機嫌な顔をしていても、少女が美しいと思わせるには十分な魅力があった。その瞳は強い光をたたえて、じっと空の皿を見つめている。
少女の斜め後ろに位置していた女官がその様子を見て、隣にならんでいた料理人に目くばせをした。目くばせというには、いささか冷たすぎる視線に、思わず冷や汗をかきながら料理人が動く。
専属の料理人が取り分けて皿へと盛り付けていく。傍目には少なすぎる量に見えるが、美しさと盛り付けのバランスを考えられた格式ある盛り方だ。
料理人が一礼して下がる。テーブルの上には、一見どこから食べていいかわからない芸術品のような朝食ができあがっていた。
「それで、お父様は?」
少女は適当に取り上げたフォークで芸術品を荒々しく突き刺した。
女官が眉を顰める。
「国王様とお呼びしてください。それに、陛下がご覧になられたら卒倒ものですよ、リリア殿下」
「いないじゃないのよ、わたくし一人しか!」
わざと行儀悪く振る舞いながら、国王の一人娘であるリリア・ファルトリン・ハルトベルは憤慨した。
軽く三十人はつけそうなテーブルには、リリア一人しか席についていない。朝食をともにと約束したはずの父は、やはりというべきか多忙を理由に現れなかった。
リリアはため息を吐く。わかっていはいるのだ。最近なんだか忙しそうにしている父親とは、ここ数か月まともに会話もできていない。来客は多く、晩餐会にはよく狩り出されるのだが、そこで家族のたわいない話を振るわけにもいかない。
リリアの不満は溜まるばかりだった。
「エリザベータは?」
食べ物を口にすると、少しは落ち着いてきた。
おいしい食べ物に罪は無い。もぐもぐと食べながらリリアは数少ない友人の名前を出した。
どこだか言う山奥に任務で行くといってから、けっこうな日数が経っている。そろそろ戻ってくる頃合いだということを思い出したのだ。
「エリザベータ様でしたら、先日グラスバウルにお戻りになられました」
「そう。じゃあ後で行くって伝えておいて」
「殿下……」
「うるさいわね。お父様だって好きにやっているのだから、少しくらい何よ」
リリアは強く言い放つ。女官はややもすると変わってしまいそうになる自分の表情を、意思の力で無表情にとどめた。慇懃に一礼する。これができなければ王女の侍女などやっていられない。
リリアは今日の予定が立ったことにご機嫌になると、もう女官や父親のことを忘れて朝食に没頭し始める。
女官は胸の内にため息を吐きながら、頭の中で今日の予定をパズルのように組み合わせ始めた。一度こうと決めてしまえば聞かない。わがまま王女なのだ。
いろいろと連絡や調整をしなければならない。その煩雑さにうんざりとしながらも、女官はおくびにも出さず、そこに控えていた。
リリアは今日一日の予定を全てキャンセルすると、近場に出かけるための服装に着替えた。侍女数人がかりで着替えであり、その服も向かう場所や立場によって決められている。
訪れた場所での立ち振る舞いや、言葉遣いはものすごく重要だ。王族としての格式、王族としての動きが求められるのだ。
エリザベータは剣聖という格式ある立場なのにそのあたりには寛容だ。歳も近いから話しやすいとリリアは考えていた。剣聖がついているから、と護衛の数も最小限になるのがさらにありがたい。気兼ねしなくてすむのだ。
リリアを乗せた豪華な馬車が大きな門に辿り着く。道は舗装されており、馬車のまま門の中に入れるようになっていた。ぐるりと塀に囲まれたここは個人宅ではなく、軍の施設だ。かなり広い訓練場と隊員宿舎を備えている。手前に大きく見える建物は本部だ。シンプルで無骨なデザインになっている。リリアには王城にあるごてごてした装飾のついた王国軍本部よりも、こちらの方が好みだった。
奥の方には上官が住む邸宅も用意されている。たいがいは王都内の貴族区に居を構えていることが多いのだが、執務の関係や利便性から、ここに住む幹部もいるという。エリザベータもその屋敷の一つに住んでいた。
リリアは窓を覆うカーテンをそっとあげて外を窺った。訓練場には誰もいない。静かなものだ。
やがて馬車がエリザベータの屋敷に到着した。御者が馬車の扉を開け、先に女官が降りてから、リリアが降り立つ。
「いつも通りここで結構。帰る時は呼ぶわ」
リリアの言葉に女官は一礼して応えた。
護衛の近衛兵も慣れたものだ。剣聖がついているのなら護衛の必要もないのだ。本当ならそれでもついていかねばならぬところだが、リリアの「剣聖様の腕を信用しないということよね?」という言葉でリリアの思い通りになっている。
リリアがエリザベータ邸に消えるまで見守ると、女官は一息ついた。だが、すぐに緩みかけた気を引き締める。向こうからこちらにやってくる髭の男――アドルを見つけたからだ。
アドルは女官の姿を認めると、事情を理解した笑みを浮かべた。女官は思わずつられて微笑みかけるが、女官はなんとか無表情を繕った。
「ポーリィさん、お疲れさま。また殿下ですか?」
「そうです、アドル様」
「まあ、隊長もたまには王家の役に立ってもらいましょう。いつも通りその間お茶でもいかがです?」
「ええ。よろしければ」
女官――ポーリィは舞い上がりそうになる気持ちを何とか抑え、表面上は顔色一つ変えぬまま頷いた。
「っと……」
二人が共に歩き出した時、アドルから一瞬躊躇する気配が漏れた。
「どうかしました?」
「あ……、いや。まあ、だいじょうぶでしょう。もうしばらくは<睡眠>の効果も続くでしょうし」
「……?」
疑問符を浮かべるポーリィに、アドルは何でもないと微笑んで見せた。
リリアはわが物顔でエリザベータ邸の中を闊歩していた。
この場所に来ると気が休まる。
エリザベータ邸の中には執事や侍女がいない。管理のためにハウスキーパーが入っていることはあるが、基本無人なのだ。
ここでは、自分で決めて、自分で好きなようにできる。
どんな格好をしても、どんな言葉遣いをしても、見とがめられることはないのだ。
リリアはえも言われぬ解放感を味わっていた。
起きているのなら迎えに来てくれるエリザベータの姿が見えない。リリアは腕組みすると傷や荒れ一つない指先をほっぺたにあてて考えた。
「まだ寝てるか……湯浴みかしらね」
とりあえず寝室に行ってみればわかる。いなければ湯浴みだ。そう見当をつけたリリアは、ノックもせずにエリザベータの寝室のドアを開け放った。
エリザベータはいなかった。
代わりと言っては変なのだが、そのベッドには見知らぬ黒髪の青年が眠っていた。
リリアの顔が引きつる。
これがどういうことなのか、知らぬというほどではない。まさか、とかそんな、とか色んな言葉がリリアの脳内を飛び交う。様々な想像が駆け巡り、顔を青くしたり赤くしたりしたが、最後には興味が勝ち残った。
リリアはおそるおそるベッドに近付いていく。
「ぐっすり寝てるみたいだから、起きないわ、きっと」
自分より一回りは上の年齢なのだろうが、若く見える。顔だちのせいだろうか。リリアの王城生活の中ではいないタイプだ。
「こんな人がエリザベータのタイプなのかしら?」
疑問を呟いたとたん、青年が目を開けた。




