第八話
翌朝、起きて見ると薫の姿は布団の中には無かった。腕時計を見ると針は六時前を指してした。
何処へ行ったかは想像出来た。顔を洗う代わりに朝から温泉に入るのも悪くないと思い、タオルだけを引っ掛けて、例の露天風呂に降りて行った。案の定人魚のなりそこないが一人泳いでいた。
「思い切って川で泳いだらどうなんだ」
俺の声に見上げると嬉しそうな顔をした。
「良く寝ていたから起こさないで来ちゃいました」
「かまわんよ。こっちこそ朝からお宝が拝めて有難い」
冗談で言ったつもりだったが薫は口を尖らせて
「そう言うジョークはもろ中年ですよ」
そう言って俺の顔にお湯を浴びせた。
「目、覚まして下さい」
俺が顔を手で拭っているとやっと笑顔に戻った。
「その顔の方がいい」
そう俺が言ったのを聴いた薫は川と露天風呂を仕切っている石段を登って、川に素裸で飛び込んだ。そして流れに逆らって泳いでいる。その姿はまるで水の妖精の様だった。携帯を持って来て写真を撮っておけば良かったと真剣に思った。薫は決して望まないだろうが……
帰りの車内でも薫は上機嫌だった。タブレットを出して昨日の野沢せいこうの言った言葉をメモ帳を見ながら入力している。
「文化会館の来月のパンフに載せようと言われているんです」
そうか、文化会館としても大物野沢せいこうのインタビューとなれば、載せる価値はあるということだと俺は理解した。
海老名で昼食を取って、午後には帰京した。薫を柴又の部屋まで送って行き自分の部屋に帰った。未だ陽が高かった。
天城の旅館では手を繋いで寝て、夜半に薫が俺の布団に入って来た。抱きしめて、キスをして薫の髪の毛を撫でているうちに薫の寝息が聞こえたので、そのまま俺も眠ったのだ。とりあえずキスはした。これはこの次は……という予約みたいなものだ。訊けば薫は何とファーストキスだったらしい。本当かどうか判らないが、本当なら悪いことをした……そう言ったら少し拗ねていたっけ。
兎に角、可愛くて仕方がない。段々と俺の気持ちも固まってきつつあった。そんな頃だった。
薫と伊豆に行ってから次の週末だった。つまり一週間後という訳だ。薫から金曜の昼休みにメールが入った。
「相談したいことがあるので、今日、退社後逢ってくれますか?」
勿論OKの返事をした。待ち合わせの場所はこの前と同じ居酒屋にした。
夕日が沈みかけて、街が真っ赤に染まった頃に薫はやって来た。今日は白いパンツ姿だった。足が長いから映えると思った。
「すいません。遅れてしまって」
「構わないよ。それより相談って何だ?」
そう俺が尋ねると薫は少し言い難くそうに
「うん、中で話すから」
そう言って、俺の腕を掴んで中に入って行った。
奥の四人がけのテーブルに向かい合いで座る。注文を取りに来た娘に生を二つ頼む。
「で、相談って何なんだ?」
別に高圧的に訊いた訳ではないが、薫は黙ったままだった。
「どうした? うん、話し難い事なのか?」
黙って下を向いている薫にもう一度言う。すると、やっと顎を上げて語り出した。
「実は……野沢先生から電話を貰って……インタビューした時、別れ際に私に役者にならないかって言っていたでしょう……」
確かにそう言っていたが、あれは社交辞令じゃないのか? 少なくとも俺はそう思っていたし、こいつだって気にしてなかったはずだ。
「冗談じゃ無かったの……私に「役者座」で舞台俳優の勉強する気はないかって……」
「役者座」は入所するだけでも大変な所だ。毎年、幾人かは募集するが、その時は全国から大勢の役者志願の若者が集まる。選考過程も厳しいそうだ。そんな所に野沢せいこう自身から誘われたということは大変な事だ。
「で、どう返事したんだ」
「今まで役者になるなんて考えても無かったので、直ぐには答えられません。って答えたの。そうしたら……」
「そうしたら?」
「では、真剣に考えて下さい。って……一年でも二年でも待ちます……って……どうしよう神山さん……」
一年でも二年でもって、本気という事じゃないか、これは大変だ。
「とりあえず、大学は卒業しろ。それから「役者座」に入ったとしても、食べる為に仕事をせにゃならん。それは判るな」
薫は黙って頷いた。
「他に何て言われたんだ。つまり口説き文句さ」
俺の言い方が可笑しかったのか、薫は少し笑って
「口説かれたなんて……いやだわ……う~んと確か『君は明鏡止水だ。何のわだかまりも邪念もない。見事なものだ。そんな君ならきっと女優として大成する』って……」
随分大げさなことを言ったものだと思うが、野沢せいこうはマスコミで言われているには、自分から女優を口説いて作品に出演させることは無いということだった。
「お前自身はどうなんだ? すぐには兎も角、将来は女優になってみたいか?」
俺は極めて冷静に言ったつもりだったが、薫にはそうは映らなかったようだ。
「酷い……本当なら『そんなの止めて直ぐに俺の嫁になれ』って言ってくれると思ってました」
全く、どうして「俳優座」に誘われた事と俺の嫁になる事が同列になるのだ? そこが俺には判らなかった。
「言って下さい! そうすれば直ぐに断ります!」
何とも強烈な求婚だ。男冥利につきるかな? それは兎も角、この娘を冷静にしなくてはならない。
「どうなんだ? 女優になってみたいのか、みたく無いのか? どちらなんだ」
薫は黙って俺の目を見つめていたが、やがて
「一番は、大学卒業したら神山さんと結婚して、共稼ぎで今の仕事を続けていけること。二番目は神山さんと結婚して専業主婦になってカワイイ赤ちゃんを産んで幸せな家庭を作ること。三番目は神山さんと結婚出来なくても恋人関係で今のままの関係が続くこと……それから……」
「もういい! 結局お前の選択肢には女優になることは無いんだな?」
確認の意味で尋ねると薫は小さく首を立てに振った。次に俺は最終兵器的な事を言ったのだが、これは後々まで響いて来るとは思わなかった。
「あのな、女優になって俺と結婚するという選択肢は考えられんか? それか、期間限定で頑張って見るとか……」
それを聴いた薫の目が途端に輝きだした。