第三話
「親の意見と冷や酒は後で効く」って諺があるが、まさにそれだ。いい気になって次から次へと頼んだもんだから、こっちも調子にのってしまった。
まあ、良い。全ては済んだことだ、今はこの眠り姫をどうするかだ……
ベンチに座って眠りこんでいる薫を見ていると、何か悪さをしよう、等と言う気は完全に失せる。そう、逆に言えば「そんな気」にならない。とでも言うのだろうか、保護者になった気持ちは無いが、狼にもなれない。
俺は今夜はこの娘を家に帰して、自分も家に帰りたいだけなのだ。仕方ないので、自販機で水を買って、少し手に水を広げて、彼女の顔に少しだけ掛けてやる。
「ほれ、目を覚ませ」
濡れた手で頬を軽く叩くと、やっと目を覚ました。
「う、う~ん……ここどこ?」
「帝釈天の門前だ……家が柴又なんだろう?」
俺の言った言葉が理解出来たかどうかは判らないが、返事は来た。
「うん……あ、わたしの部屋の傍だ! ここ」
あたりを一瞥するとそう言って立とうとするが、未だ足がふらついている。
「未だ無理だ。これでも飲め」
自販機で買った水の残りを渡す
「酔い覚めの水値千金と言うからな。飲んでみろ」
俺に言われたからか、あるいは単に喉が乾いていたからか、薫は一気にペットボトルの水を飲み干した。
「ああ、美味しい! 諺は本当だね!」
屈託の無い笑顔を見せる。
「部屋って言うと一人住まいか?」
「うん、実家は茨城だから……」
実家の事を言った時の薫の表情は少し幼く少女の面影を見せた。
「歩けるか?」
「なんとか……ああ、肩を貸してくれるんだ。優しいねえ」
先ほどの居酒屋からずっと肩を貸して来たのは黙っていた。俺の優しささ。
門前の商店街を少し歩き、小さな道が交わった交差点とも言えない路地を右に入って行く。
「裏道にあるアパートなんだ。家賃が安いから……」
まあ、仕送りやバイトで暮らしてるなら家賃なんか一円でも安い方が良い。俺も学生の頃は一円でも安い家賃の部屋を探したもんだ。
「ここ、ここの二階なんだ。角から二番目202号だよ」
「俺なんかに教えて良いのか? 夜中に襲いに来るぞ!」
冗談半分に凄むと薫は笑って
「ないない! でも本当に来てくれたら喜んで迎えちゃうよ」
そんな事を言う。
「階段上がれるか?」
多分無理だと判っていても、一応言ってみた。それが親切だと思う。
「大丈夫!」
そう言って手すりに掴まりながら階段に足を掛けるが、次の足が出てこない。要するに登れないのだ。
仕方なくと言うか当然のごとく肩を貸して引き上げる様な感じで登っていく。思ったより重労働で、見かけは華奢なのに卓球で鍛えた筋肉があるからか、結構重い。
「へへへ、私結構重いんだよ……」
そんな事まで妙に嬉しそうに口にする。
何とか202号と書かれたドアの前まで連れて来た。ここ迄来ればお役御免だ。
「さあ、着いたぞ。ちゃんとシャワーぐらい浴びて寝ろよ」
そう言って階段を降りようとすると、ズボンの裾を掴まれた。
「ここまでやって貰ったんだから、ついでに部屋の中まで連れて行って!」
おいおい、女子大生の一人暮らしの部屋にむくつけきオッサンが入っても良いのか?
戸惑ってる俺の目の前にキャラクターのキーホルダーが出された。これで開けろと言うのだろう。仕方なく鍵を受け取って開け、ドアを開くと真っ暗な空間が目に入って来た。
「ちょっと待ってて、明り点けるから」
薫はそう言うと四つん這いになり這って真っ暗な空間に入って行った。
パチンと言う音とともに、蛍光灯の光が目に入る。慣れないせいか非常に明るく感じた。その明るくなった部屋の中で薫が
「神山さん、入って。お茶でも入れるから」
まるで、まるで集荷に来た宅配業者に声を掛ける様に言うと、薬缶に水を入れてコンロに掛けて火を点けた。
「いいよ。もう帰る」
そう言って背を向けると後ろから
「私、神山さんに謝まらなければならない事があるんだ」
そう声を掛けられた
「だから、部屋に入って欲しいの……お願い……」
俺はその声が、今日初めて聴いた声だったので、話だけは訊いてみようと思い直した。
「ゴメンネ。変な事言い出して……」
すっかり酔いも覚めた感じで俺に座布団を勧める。部屋は六畳一間で、そこにバス・トイレ、キッチンが付いていた。ワンルームと言うヤツだ。部屋の真ん中には炬燵がむき出しの状態で御膳代わりになっていた。そこに出された座布団に座ると手際良くコーヒーが出された。
「謝まらなければならない事って何だ?」
俺はそう言いながら部屋の中を見渡すと、壁に掛かったポストカード入れが目に入った。三段に別れた一番上に企業の名前の書いた封筒の束が差し込んである。恐らく今までの就職試験を受けた会社の採用通知だろうと推測した。
「実は……今日の事なんだけど、神山さんと待ち合わせ時間に間に合う様に部屋を出る時に、この前の内定を貰った会社からメールが来たの。見てみたら、内定取り消しのメールで……私、ショックで、何も考えられなくなって、そのままふらふらと部屋を出たの。
そして、電車に乗って待ち合わせ場所に着いて、神山さんに正直に言おうと思っていたのだけど、中々言えなくて……そうしたら、お酒を飲んで何もかも忘れたくなって無茶呑みをしてしまって……御免なさい。私、お祝いされるべきじゃ無かったんです。騙して御免なさい……」
下げた顔から涙が落ちて、畳の上に引いたカーペットが濡れる。俺はポケットからハンカチを出して綺麗なのを確認すると、顔を上げさせて、涙を拭いてやった。
「内定取り消しが悲しくて泣いているのか? それとも俺に嘘をつく事になってしまったから泣いたのか、どっちだ?」
「多分、両方……」
しゃくりあげる様に言うとまたもや大粒の涙を流し始めた。
「就職活動はまた頑張れば良いし、俺は別に構わないよ。奢ったのだって、この前のお詫びと思えば何と言う事は無いさ」
俺が噛んで含める様に言うとやっと泣くのを止めた。
「気がついたのだが、落ちた会社の通知を捨てないで貯めているのか?」
会社の名前の付いた封筒の束の事を言うと薫は
「記念にと思っていたら、段々と数が増えて……」
「そんなものみんな捨てちまえ。持っているから悪い気が寄って来るんだよ」
「そうか……そうね。これが不幸を呼び寄せているのかも」
薫はそう言うと立ち上がり、壁に掛かったポストカード入れから封筒の束を取り出して鋏で切り刻むとゴミ箱に投げ入れてしまった。
「随分集まってしまったけど、今日でお別れ。明日からは心機一転頑張る」
「そうさ、その意気だ」
俺はそう言って彼女を励ました。
「さ、じゃあ俺は帰る。またな、何かあったら連絡をくれ」
そう言って帰ろうとしてドアに近づくと、俺の上着の裾を引いた。何だ? 今度はまた何かあるのか?
「帰っちゃ……嫌……」
は? とんでも無い事をこいつは口にした……